第27話 思い出・お迎え・オムライス(前編)
本日よりコミカライズ開始です!
こちらのお話は、
・二人がご飯を作って食べるだけのお話です。
・ファンタジー要素はありません。
・幽霊、あやかし要素はありません。
・ミステリー要素はありません。
また、科学的説明はあくまでスパイスです。
つまらなかったり、面倒くさければ、読み飛ばしてもらっても全然大丈夫です。
以上の点にご注意の上、お腹を空かせてお読みください。
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❄❄❄
氷彗の眼前には白い建築物がそびえ立っていた。
住宅街に突如として現れたそれは、まるでこちらの侵入を阻まんとしているかのような凄みがある。
屋上付近の壁面には赤い十字が浮き上がっていて、この施設の役割を主張していた。
「つい、勢いで来てしまいました……」
目的地に到着したところで、氷彗はようやく緊張感を思い出した。
周囲を見渡しても覚えのある景色はどこにもない。
そもそも、この県に足を踏み入れるのさえ初めてのことなのだ。
昨日の麻婆豆腐から一夜明けた翌日。
氷彗は祝日を利用して、うららの故郷を訪れていた。
目的は、彼女の母親と会うことだ。
凪の情報を頼りに、入院しているであろう病院までたどり着いたはいいが、ここから先は完全にノープランだった。
目的地まで行けば、後はなるようになるだろう。そんな無謀な考えに身を任せていた。
実際、凪の前で決意を固めた昨夜は、何でも出来そうな気がしていた。
しかし、それはあの場の雰囲気が後押ししてくれた錯覚だったようである。
どうやって説明をしよう。
考えれば考えるほど、不安が荒波のように押し寄せてくる。
そもそも娘の友人、しかも会ったこともない大学院の友人がいきなり尋ねてくるなんて不自然だ。
そんな人物に、娘と不仲になった理由を聞かせてくれるとは到底考えにくい。
せめて、説得の文句くらい考えてくれば良かった……
結局そのまま一時間ほど、氷彗はエントランス前で右往左往する羽目になった。
ようやく覚悟を決めたのは昼下がりのことである。
このままでは今日の面会時間が終わりかねないので、無理矢理にでも足を進める。ほとんどやけだ。
緊張で瞼をぎゅっと結んでエントランスをくぐると、向かってくる二人組に気づくのが遅れてぶつかりそうになった。
「す、すみません!」
「いえ、こちらこそ」
接触することはなかったが、相手はよろめいて付き添いの女性に手を引かれる。
「のどか、ダメだろう。ちゃんと前を向いて歩かないと」
「はぁい」
親しげに身を寄せ合う二人組の女性に、自然と視線が吸い寄せられていく。
そのどちらも、氷彗にとっては他人とは思えない人物だった。
一人はぶつかりそうになった女性。
年齢こそ40代に見えたが、彼女はどことなくうららと雰囲気が似ていた。特に目元がそっくりである。
一瞬、彼女の母親を疑ったが、入院しているのならそれはないはずだ。
だとすれば、それ以外のうららの親戚だろうか。
そして、彼女の隣に立つもう一人は、間違いなく氷彗の知る人物であった。
「飯塚、先生?」
「……鳥見川くん?」
縁もゆかりもない病院でばったりであったのは、氷彗の指導教員である飯塚桜であった。
☀☀☀
凪 【うらら、今日これから時間ある?】
うらら【大丈夫だよ。どうしたの?】
凪 【仕事でたまたまこっちに来てるんだけど、ご飯でも食べにいかない?】
うらら【行く行く! 今日の気分は中華かなぁ】
凪 【残念。私はついこないだ食べたばっかりだから。それ以外で】
うらら【そう? じゃあ、合流してから決めよっか。今どこ?】
凪 【君の研究棟。搬入用の出入り口で待ってるから】
「搬入用の出入り口?」
確か、液体窒素を運び入れるための出入り口だったと思う。
荷台を安定させるため無駄に長いスロープが設けられており、それ以外では使われない人気のない場所だ。
当然、実験系の研究室ではないうららはそこを通る機会などほとんどなかった。
どうしてそんなところにいるんだろう。
一抹の疑問を覚えつつ、うららは研究室の荷物をまとめる。
パーテーションに張られた勤務表のマグネットを「居室」から「帰宅」へと移動させると、パチンと小気味よい音が響く。
「お疲れさまでしたー」
そう言い残した研究室には、まだ後輩の姿がちらほらとあった。
ここ数日、氷彗と夜食を食べなくなってから、研究室の鍵を閉めることもなくなった。
日の入りと同時に帰宅する、真人間の生活に戻りつつある。
別に、氷彗のことを避けているわけではない。嫌いになったわけでも。
むしろ、早く会って謝りたいくらいなのに。
それが出来ないのは、たぶん怖いからなのだと思う。
未だに母親と仲違いしている、そんな弱い自分を氷彗に見せるのが怖い。
そしてその結果、失望されるのが怖いのだ。
こんな感情を誰かに抱くなんて、初めてだった。
自分はそんなにも氷彗に対して見栄を張りたいのだろうか。
それとも——
搬入用出入り口へつながる細い廊下にさしかかり、うららは眉を大きく持ち上げた。
そこに凪の姿はなく、待っていたのは氷彗だった。
普段のおどおどした雰囲気は嘘のように影を潜め、まっすぐこちらを向いている。
「……氷彗」
ふるりと喉が震え、足の指先に力が入る。
床とこすれたスニーカーが悲鳴のような音を上げた。
自分の中で緊張が立ちこめていくのをはっきりと感じる。その雲を振り払おうと、うららは何事もないように明るく声を張り上げた。
「偶然だね。でも、今は人を待たせてるから」
「凪さんは、来ていません。私からお願いしたんです。うららさんを、ここに呼んでほしいと」
淡々とした口調だった。まるで、何かを決意したような。
氷彗を横切ろうとした足が、凍ったようにぴたりと止まる。
彼女の言葉は、それだけで抱いていた疑問を氷解させるのに十分だった。
「そっか……通りで、おかしいと思った。ここまで来てるなら普通、入口で待ってなんかいないで研究室に来るもんね。凪なら」
つまり、氷彗は既に凪へ相談しているということだ。
先日、自分と言い争ったことに関して。
うららはふっと鋭く息を吐いた。
視界に移る前髪が大きくはためく。
予想していないタイミングだったが、このあたりが潮時だろう。
うららは胸の内から、あらかじめ用意しておいた言葉を取り出した。
「やっぱり、怒ってるよね? この前のこと」
「うららさん、私は」
「ごめんね! 私、どうかしちゃってて。つい頭に血が上っちゃって。氷彗に、あんなひどいこと言うつもりなんて全然なかったんだ。だから」
だから、この前のことは忘れてくれない——
驚くくらい滑らかに舌が動いた。
それは数年前、喧嘩した凪と仲直りする際にも使っていた、都合の良い逃げ口上だった。
喧嘩した事実なんて忘れよう。
そんな事、そもそもなかったんだ。
嫌な出来事には蓋をして、またゼロから仕切り直して……
そして明日からまた変わらずやっていこう。
だって、本音で向かい合えばお互いに痛いし辛い。
そんな擦り減る想いをするくらいなら、さ。
居心地のいい、以前の距離のままでいようよ。
「私、聞いてきました」
折り合いを求めるうららの誘いは、その言葉によってバッサリと断ち切られた。
「え?」と疑問符が漏れ、頭の中が真っ白になる。
「聞いてきたって……何を?」
「うららさんの、お母さんのこと。先日、直接病院に行って、話してきました」
「——っ!?」
さっと全身の血の気が引く。背中に氷を滑らせたような感覚が走った。
それまで装おうとしていた仮面が、音を立てて崩れ去る。理性のブレーキは間に合わず、感情の方が先に飛び出した。
気付けば、うららは氷彗へと詰め寄っていた。
「どうしてそんなこと!? だって、氷彗には——」
「関係ない、ですか?」
先回りされ、喉元まででかかった言葉は不発に終わる。
思考が渋滞し、口元はぱくぱくと動くだけだ。
そのわずかな間をめがけて、氷彗は勢いよく捲くし立てた。
「確かに、その通りだと思います。うららさんにとって私は他人で、その他人が触れたくない過去を勝手に詮索するなんて、不躾にもほどがあると思っています……でも」
黒曜石を思わせる双眸がこちらに近づいてくる。
今、氷彗の瞳に映っているのは、うららだけだった。
打算も妥協も、保険までかなぐり捨てて、氷彗はうららのためだけに言葉を紡いだ。
「そうせずには、いられなかったんです! だって、うららさん……あんなに悲しくて、苦しそうだったから。そんな顔見てたら、いても立ってもいられなくて……だったら! たとえ嫌われることになっても、私はうららさんの力になりたい。そう思ったんです」
まとまりのないまま全てを言い終えると、氷彗は大きく深呼吸した。
肩は大きく上下し、頬は真っ赤に染まっていた。料理以外で彼女がこんなに声を張り上げることなど、今までに一度もなかった。
まるで感情のシャワーを浴びせられた心地だった。
温かい言葉の滴が乾いた胸に染み込むと、途端に熱いものがこみ上げてくる。
「だから、どうかお願いです。私の話を、聞いて下さい」
氷彗は、祈るようにこちらの手を握った。
ずっと避け続けてきた過去。
それを知るのは、まだ戸惑いを覚えてしまう。
でも、自分のためにここまでしてくれた氷彗の想いは受け止めたい。
絡まった熱い手を握り返し、うららは静かに頷いた。
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