第8話 燻製・もくもく・不完全(中編)

 ❄❄❄


 時針と分針がてっぺんを指す頃、世間がそうであるように研究棟もすっかり静かになっていた。

 窓に切り取られた空模様は今にも降り出しそうな曇天で、月も星も隠れている。

 真っ暗な廊下を早歩きで通り抜け、氷彗は休憩室へとたどり着いた。


 明るい空間で、すでにうららはくつろいでおり、ちゃぶ台には何本かのストロング系チューハイが並んでいる。

 うららがこちらに気付いて振り返ると、頬がほんのり上気しているのが分かった。


「お、鳥見川さんだ」

「塔山さん……もう、お酒飲んでいたんですか?」

「やだな~、ちょっとだけだよ」


 言い終わった瞬間、ヒックとしゃっくりが漏れる。

 吐息に混じったアルコールの匂いが、鼻腔をツンと突いた。

 

 本当に大丈夫だろうか?


「でもやっぱりこれだけじゃ味気なくて、鳥見川さんの料理が恋しかったんだ」


 おぼつかない口調と一緒になって、ふらふらとした視線がこちらに注がれる。


「ん? それ何? カツオ節?」

「いえ……これは、サクラのスモークチップです」

「スモークチップ!? ということは、今日の料理は……」

「はい、チーズとベーコンの燻製です!」


 「やったー!」とうららは両手を挙げて、子供みたいに嬉しさを表した。

 先日、アイスクリームを作った時もそうだったが、近頃のうららはやけに明るい。


 いつもより元気があるときは、大抵カラ元気なのさ、うららは。きっと、何かあったんだろうね――


 鼓膜に残った凪の言葉が、かすかに不安をなぞっていく。

 しかし、氷彗は考えすぎだと頭を振って料理に取り掛かることにした。


 キッチンの作業台に使うものを一式並べる。

 ボウル二つにアルミホイル、そして円形の焼き網……銀一色だ。

 うららは意外そうに目を丸くした。


「ほえ~、燻製ってもっと特別な調理器具がいると思っていたけど、それだけでいいんだ?」

「熱を伝えない冷燻にしようとすると、いろいろ大変ですけれど、今回はそうではありませんから、お手軽です。燻製鍋もないので、チタン製のボウル二つで代用します」


 匂いが充満しないように窓を開けた。

 本来なら屋外で作るべきだろうが、如何せん雲行きが怪しい。

 調理中に一雨来られたらひとたまりもないので、ここは大目に見てもらおう。


「まず片方のボウルの内側に、アルミホイルを敷いて、そこにスモークチップを入れます。そしたら、その上に金網を敷いて、燻製にするおつまみを並べていきます」


 おつまみ、といってもよくスーパーで目にする6Pチーズと薄切りベーコンだ。

 見慣れたものであるが、だからこそ燻製にした時、その変化が楽しいはず。


 扇状の乳白色と、薄いピンク色が網の上を交互に彩っていく。


「並べ終えたら、このボウルをコンロに乗せて火をつけます。ギリギリの弱火です。すぐにスモークチップから煙が出てきますから、そしたらもう一つのボウルで蓋をして、風味が伝わるのを待ちます」

「なんだか、バーベキューみたいだね。網の上にいろいろ乗っけてるし……下で燃えているのが、木炭かスモークチップの違いだけなのかな?」


 うららは熱されたボウルをしげしげと眺めた。

 酔いでやや虚ろになっているものの、瞳には燦然と好奇心が輝いている。


「あれ? でも、そのスモークチップってサクラの木なんだっけ? 木炭も木だよね? 何が違うの? サクラは良い匂いがするからとか?」


 唇に指を当てて、うららが首をひねる。

 彼女のたどり着いた疑問は、氷彗の奥に潜む料理オタクな部分に火をつけた。


「気になりますか!?」

「うん!」


「バーベキューと燻製の違い。それは、熱されている木材が完全燃焼しているか、不完全燃焼しているかという違いです」

「完全か……不完全?」


「完全燃焼は、水と二酸化炭素を生成する反応で、たくさんの酸素を必要とします。酸素が不十分だと、これが不完全燃焼になります。すると、生成されるものが変わるんです」

「それが、風味の成分ってこと?」


「そうです! 木材の細胞壁にあるセルロースが不完全燃焼すると、そこに含まれる糖が分解されて、キャラメルと同じ甘い風味成分を出すんです。そしてこれは水溶性なので、おつまみの水分中に溶け込むことができるんです!」


 そんな説明を続けていると、燻す時間を知らせるタイマーが鳴った。

 一人だと長く感じる待ち時間も、うららと一緒ならあっという間に過ぎていく。


「おぉ~! 本当にキャラメルみたいな色になってるよ!」


 蓋をしていたボウルを取り外すと、上品な薄茶色に色付いたチーズとベーコンが現れた。

 燻す前とは大違いだ。


「最後に、胡椒を少々をまぶして……できあがりです!」


 出来上がった燻製をちゃぶ台に運び、二人は座って向かい合い、手を合わせた。


「いただきます!」


 どちらにしようか箸が迷う。先にうららがチーズを取ったので、氷彗もそちらにした。

 しっかり温度の調整は気を配っていたので、箸で挟んでも崩れない。しかし、熱で柔らかくなっていることは確かだった。

 

 はむ、と優しくかんでみると、とろりとしたチーズが糸を引いた。

 クリーミーでまろやかな本来の味わいに、サクラチップからしみ込んだ甘い風味が合わさって、味覚も嗅覚もとろけそうになる。

 

「すごい! このチーズ、風味が付いただけなのに、まるで別物だよ! すごくおいしい!!」


 うららは合間にぐびっとチューハイ缶を傾けて、「く~!」と唸る。

 

 次はベーコンを取ってみた。こちらも燻製の香りがしっかりと伝わっている。

 元々の味がチーズとは異なっているので、同じ風味を足してみても、また違う印象だ。


 水分が抜けて弾力が増した肉をかむたびに、凝縮したうまみと芳醇な香りが口の中を支配していく。

 最後にコショウが加わると、もう食欲は最高潮に達し、箸は止まらなかった。


「ごちそうさまでした」


 空っぽになった皿に向かい、二人は再び合掌した。


(後編に続く)

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