第17話 門出・ほろほろ・鯛グラタン(後編)


 ❄❄❄


 後片付けを終え、ちゃぶ台で一息ついていると、うららが満足そうに夜食の感想を語ってくれた。


「おいしかった~~。でも、キンメダイなんてまた縁起がいいね。メデタイの語呂合わせでさ」


 そんな弛緩しきった空気の中で氷彗は一人、心の準備を整えていた。

 鼓動が既に早鐘を鳴らし、手には汗が滲んでいる。

 そんな生理現象から、逃げ出したいという弱い自分を否応なく自覚させられた。


 やっぱり、まだ怖くてたまらない。

 これから、確かめようとすることが。


「それは……この前、うららさんが私のために験担ぎしてくださったので。今回は、そのお返しです。うららさんの門出を、精一杯応援できるように」

「ん? 門出? どういうこと?」


 うららはキョトンとした表情を返してくるだけだった。

 やっぱり回りくどい言い方ではだめだ。

 直接、面と向かって尋ねないと。


 本当にうららとの時間を大切にしたいのなら、ごまかして終わらせるべきではない。


 氷彗は固唾を飲み込んで、スカートのプリーツをぎゅっと掴んだ。

 覚悟を決め、もやもやした疑問をぶつける。


「だって…………うららさん、留学するんでしょう!」

「え?」


 鳩が豆鉄砲を食ったように、うららは声を漏らした。

 意外な反応だったが、その意図を汲み取る余裕はない。


 言葉が詰まってしまう前に、胸に巣くう想いを吐き出さなければ。伝えなければ。


「隠さなくても大丈夫です! もう、飯塚先生に話は聞きましたから。うららさんとお別れするのは、嫌です。悲しいです。でも、やっぱりちゃんとお祝いしなきゃと思って! ……それで、その」


 不安定な励起状態は長く続かない。

 火照った体から一気に熱が下がっていき、氷彗は言葉に詰まった。


 それまで料理と会話で音の絶えなかった休憩室を、静寂が支配した。

 次にそれを切り裂いたのは、うららの間の抜けた声だった。


「り、留学!? え? 何? あれ通ってたの?」


 氷彗は、ようやく違和感を覚えた。

 何やら、話がちぐはぐで噛み合っていないような気がしたのだ。


 うららの方を見ても、何のことか分かっていない様子で、目をぱちくりさせている。


「へ?」「あれ?」

「「え?」」


 ❄❄❄


「っぷぷぷはははは!」

「そ、そんなに笑わないでください!」


 話し合って情報を整理し、事の次第を把握したうららは、お腹の底から笑い声をあげた。

 一方で氷彗は、恥ずかしさのあまり部屋から飛び出したい衝動に駆られていた。


「ごめんごめん。でも、氷彗。それは早とちりしすぎだよ。さすがに選考結果から留学までの期間が短すぎるって」

「それは、そうですけれど」


 つまり、そういうことだった。


 うららは確かに、研究留学の選考にパスしていた。

 しかし、それはずっと先のこと。来年の話である。

 さらに、昨今の大学予算削減に伴い、留学期間は二カ月以内という制限付きだった。


「まぁ、悪いのは私の選考結果をペラペラ話しちゃう飯塚さんと、多分私に報告するのをすっかり忘れている田宮先生だけどね」


 つまり、うららが何かを隠していたわけではない。というより、何も知らなかったのだ。

 氷彗がうららの留学事情を、知ってしまったために、勘違いが起こったということだ。


「じゃあ、最近忙しそうにされていたのは?」

「あぁ、こっちは海外の学会。開催時期が日本と比べて少し遅いの。普段は行くことないんだけど、何でもウチと所縁のある研究室が主催しているから、参加しろとのお達しでさ」


 うららはスマホを操作すると、その学会のページを見せてくれた。期間はたったの三日間だ。この程度なら、わざわざ何日も前から言うほどのことでもない。


 自分の中で色々と辻褄が合い、肩の力が抜けていった。


「よかった、です。本当に。うららさん、何も言わず急にどこかに行ってしまいそうな気がして……」

「あはは。私、そんなに信用ないかな。まぁ、安心して。留学のこと、詳細が決まったら、ちゃんと氷彗に話すよ」


 瞬間——

 肩口に手を添えられ、うららの隣にくいっと引き寄せられた。


「だって、氷彗は私の大切な親友だから」


 その温かい言葉は、自分の想いが一方通行ではないかという不安を溶かしてしまうのに、十分すぎた。


 緊張が一気に解けた感覚と、不安が勘違いだったという安堵感。そして、視界いっぱいに広がるうららの存在に、氷彗の意識はとっくに容量を超えていた。


 氷彗はその場で、ぱたんと眠りに落ちた。


「うわぁぁ—————————!! ど、どうしたの氷彗!」


 うららの叫び声が、久々に真夜中の研究棟で轟いた。

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