第22話 松茸・ごはん・ノーベル賞(後編)
☀☀☀
「氷彗、お待たせ〜」
「お疲れ様です。うららさん」
「ごめん、ちょっと遅れちゃった。ところで、例のブツは? どこどこ?」
すっかり日も暮れた真夜中の研究棟。
うららはウキウキとした足取りで休憩室へと向かった。
先に下ごしらえをしていた氷彗は、こちらに気付くとキッチンスペースの方へと手招きする。
「こちらです」
「おぉ〜! 松茸だぁ」
宝箱のように冷凍庫の扉が開かれると、白い冷気が広がって、その奥から松茸が姿を現す。
既に食べやすいように切り分けられた秋の味覚は、その風味を瞬く間に部屋中に充満させていった。
「……でも、何で冷凍庫?」
「香りを引き出すためです。松茸を凍らせておくと、細胞内の水が氷になって膨張し、細胞壁を壊します。すると、細胞内の香気成分がご飯に溶け込みやすくなるんです」
「なるほど~! それにしても、やっぱりいい匂い。松茸の香りってホント独特だよね。確か、マツタケオールって言うんだっけ?」
「実は、マツタケオールと呼ばれている1-オクテン-3-オールは、一般的なキノコの香り成分です」
「そうなの!?」
「はい。松茸独特の匂いは、他のキノコに含まれていないトランス桂皮酸メチルによるものだと言われています。これは山椒やバジルに含まれる香り成分です」
「バジル……通りで上品な香りなわけだ」
早速語られる美味しさの秘密に感心するうららの隣で、「では始めて行きましょう!」と氷彗は腕まくりをした。
袖口から無防備に晒された白い肌に、思わず目が吸い寄せられる。
いかんいかん、とうららは首をぶんぶんと振って、キッチンへと視線をやった。
作業台には、松茸と調味料がずらりと並んでいる。米は既にボウルに入れられ、たっぷりの水に浸されていた。
「お米はあらかじめ真水に浸けておいて、炊く直前に醤油みりん塩を加えていきます。そしたら松茸を入れていきますが、この時お米と混ぜないように注意です」
全ての材料が釜に投入され、炊飯ボタンが押される。
あとは炊き上がるのを待つだけだ。
それだけの工程なのに、氷彗は数多の点に注意していた。
「どうして調味料は直前に入れるの? 最初から入れておいた方が、味が染み込みそうな気がするんだけど……」
湧き上がる疑問を止められず、うららは尋ねる。
それに応えるように、氷彗に瞳も輝きを増していった。
「気になりますか!?」
「うん!」
氷彗はピシッと人差し指を立てた。
「炊き込みご飯で調味料を直前に入れる理由……それはお米を柔らかくするためです! 硬いお米が柔らかくなる理由は覚えていますか?」
「えぇっと……水を吸ってデンプンの結晶が崩れるからだっけ?」
「その通りです。つまり、お米が柔らかくなるには水が染み込まなければいけません。しかし、調味料を加えた水は浸透圧が高くなってしまい、水の移動が起きにくくなってしまうんです!」
「あ、そっか。だから最初、真水に浸けたんだね!」
炊き込みご飯を作る際、いつもべちゃついてしまう理由をうららはようやく知った。
あれは、浸透圧で浸み込まなかった水分が、米の表面に残ってしまったのが原因だったのだ。
ふつふつふつ、と炊飯器の中から美味しく炊ける音がする。
熱気のこもった水蒸気に乗って、松茸のアロマがあふれ出た。秋の豊穣を思わせる、馥郁とした香りだ。
そんなものがひとたび鼻腔を駆け抜ければ、たちまち空腹を刺激されてしまう。
この状態で、あとどれくらい待てばよいのだろう。
「じゃあ、松茸は!? どうして上に乗っけるの? お米に混ぜ込んでおいた方が良く熱が通らない?」
「それはですね……お米の炊きを均一にするためです。炊き水は加熱されると、炊飯器内でグルグルと移動して温度が均一になります。この現象を“対流”と言います。米に松茸を混ぜ込んでしまうと、この対流を妨げてしまうんです」
「なるほど……」
今、釜の中で起こっている現象を想像し、うららは大きくうなずいた。
そんな風に、おいしさについて談義していると空腹も時間も忘れていき、あっという間に炊き出しの時間がやってきた。
炊飯器のピーッという合図に合わせて、氷彗が蓋に手を添える。
いよいよ、待ちに待った開封の時だ。
「それでは……開けますよ」
「お〜!! 綺麗な秋の色」
現れたのは、食べ応えのありそうな肉質を主張する松茸。
そして、松茸から分け与えられたような秋の色を呈する艶々のご飯だった。
「最後に三つ葉を散らして……完成です!」
緑が添えられ、松茸ご飯の色味と風味に爽やかさが加わっていく。
氷彗はしゃもじで釜の中を全体的になじませると、お揃いの茶碗へとご飯を盛り付けていった。
それを持ってちゃぶ台に移動して、二人は手を合わせる。
「「いただきます!」」
松茸とご飯をバランスよく箸で挟み、口へと運ぶ。
まず最初に出迎えてくれたのは、味ではなく香りだ。
炊飯中、終始漂っていた松茸に加え、甘辛い醤油とフルーティーなみりんの風味が合わさり、嗅覚は瞬く間にとろけていった。
塩でコーティングされた米はしっかりと味が付いているだけではなく、一つ一つが粒立っていて舌触りもよい。
時折、顔を覗かせる松茸の食感が程よいアクセントとなって、噛めば噛むほど芳しさが溢れてくる。
うららは思わず身震いした。
「おいしい~! でも、何だろう? 全体的に……甘い気がする? 風味はみりんのものだろうけど、味はどうしてかな? お砂糖とか入れてないのに」
その疑問に食いつくように、向かい合う氷彗は身を乗り出してきた。
「気になりますか!?」
「まさかの第二弾!?」
「松茸ごはんを甘く感じる理由……それは、松茸がデンプンを糖に分解しているからです」
「それって、噛めば噛むほどお米が甘くなる原理と同じ?」
「そう! まさにそれです! 松茸には私たちの唾液と同じくアミラーゼが含まれています。そのおかげで、噛む前からお米の甘味を感じられるんです!」
氷彗の解説を聞き、「ほぇ~」と間の抜けた声が歯の間から漏れる。
今までは調理の見える部分に注視していたが、どうやら見えない部分にも美味しい理由はあるらしい。
ちょっとしたパラダイムシフトである。
舌に残る甘味と不思議を噛み締めながら、うららは最後の一口を飲み込んだ。
「ごちそうさまでした!」
❄❄❄
「炊き込みご飯、おいしかった〜」
後片付けを終え、氷彗とうららはちゃぶ台を囲んでお茶をしていた。
季節が廻ったこともあり、出されるお茶は冷たい麦茶から温かいほうじ茶へと変わっている。
「松茸料理、何にするかで悩んでたけどノーベル賞に感謝だね。他の受賞テーマも美味しいのかな?」
「えっと……今年の化学賞はリチウムイオン電池、物理学賞は系外惑星のようですね」
スマートフォンで検索を駆けると、ものの数秒で答えが返ってくる。
タイムリーな話題ということもあるのだろう。
最初の「ノ」を打ち込んだ段階で、トップの予測候補は「ノーベル賞」だった。
「へぇ、リチウムイオン電池はスマホに使われてるやつだっけ? ということは、あと系外惑星を拝めれば、私達ノーベル賞コンプリートだよ!」
「コンプリート?」
ノーベル賞とは、そんなスタンプラリーのような感覚だっただろうか。
困惑しているこちらをよそに、うららは立ち上がって休憩室の窓を開けた。
目を凝らして満点の夜空を睨んでみるが、その表情は厳しい。
「う〜む……全然分からぬ」
「ここからだと厳しいと思います。木星や金星なんかの系内惑星でも、見つけるのは難しいですから」
「それもそっか」
「……でも」
うららの隣に立って、同じく氷彗は星空を見上げた。
砂金のように散らばる星々の輝きは微々たるものだが、地球から一番近い天体は煌々と黄色い光を返している。
「月が綺麗ですね」
氷彗はほとんど無意識に口走った。
直後、その言葉に別の意味が含まれていることを思い出し、あわあわと唇が崩れていく。
「あ、いや! 今のはその……深い意味はなくて」
氷彗はとっさに、ぶんぶんと手を振った。炊き上がった米粒のように顔中が熱い。
変な意味に誤解されたらどうしよう。
不安に捉われたが、どうやらうららには届いていないようで杞憂だったらしい。
ほっと息を吐くと、二人の間をピューっと秋の夜風が通り過ぎていった。
「さむぅ! この時間だと流石に冷えるね。もうちょっとくっついてもいい?」
「ひゃい!?」
一難去ってまた一難。
寒そうに二の腕をさするうららが、一歩こちらに近付いてくる。
二つの肩口はいまにも触れてしまいそうだ。
再び暴れだした思考は当分収束しそうにない。
答えを躊躇していると、耐えかねたように一層寒い秋風が吹いた。
「うぅ~、もう無理! 聞いておいてごめん。やっぱり、くっつく!」
「————っ!???」
暖を求めるように、うららがこちらに身体を摺り寄せてくる。
服越しに彼女の存在を感じると、たちまち心臓がドクンと跳ねあがった。
その音は、さながらノーベル賞所縁のダイナマイトのようだった。
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