第24話 読書・天ぷら・相対論(後編)

 ☀☀☀


 時針と分針が仲良く上を向き、日付が変わろうかという頃。

 研究棟の休憩室にはトントントンと包丁の音が響いていた。

 当然だが、それを奏でているのはうららではなく氷彗である。

 彼女は心地よいテンポでサツマイモを刻んでいた。

 

 一方、包丁をまともに扱えないうららは、爪楊枝を駆使してエビの背腸抜きに邁進していた。

 地味で単純な作業だが、黒い線を一度に引っ張り上げられると気持ちいい。


「エビの下処理、終わったよ!」

「ありがとうございます。こっちも他の食材、切り終えました」


 キッチンペーパーで水分をしっかり吸い取り、他の食材同様打ち粉を済ませていく。

 今宵食すのはメインディッシュのエビに加え、大葉、シシトウ、サツマイモの四品。

 どれも天ぷらの定番中の定番である。


 氷彗は鍋に油を注ぐと、コンロに火を入れた。


「あとは、これに衣をつけて油で揚げれば完成なんだよね?」

「はい。料理の工程は以前作った唐揚げと、ほぼ同じです」

「だよね。思ったんだけど、唐揚げと天ぷらって何が違うの? あ、あとエビフライとの違いも気になる。結局の所、どれも食材を衣に包んで油で揚げる料理じゃない?」


 細かいことだがずっと気になっていた疑問をぶつけてみる。

 何なら竜田揚げやフリッターとの違いも尋ねてみたいところだが、これ以上はややこしくなりそうなのでセーブした。


「フライが他の揚げ料理と違う点は、衣にパン粉が使われている所ですね。パン粉を加えることで、衣の食感がサクサクするのが特徴です。唐揚げと天ぷらは……調理上明確に分ける点はないと思います。ただ、唐揚げは具材に下味を付けることがありますが、天ぷらは滅多にありません。より素材の味を楽しむ料理だからです」

「あぁ、なるほど言われてみれば。ダシや塩で後から味付けすることはあっても最初からはしないよね、天ぷらって」


「もちろん、似ている料理なので気をつけるべきポイントはどれも同じです。カエルの唐揚げで衣を作った時、私が言ったことは覚えていますか?」

「うん。小麦粉のグルテン形成を抑える、だよね。前回のタルトでも聞いたよ。モチモチした食感を出さないための基本。えぇと、確かグルテンの元になるタンパク質が少ない、薄力粉を使うんだっけ」

「その通りです。こねすぎてもグルテンはできあがってしまうので、薄力粉はあまり混ぜ合わせないよう注意です。ダマが残っていても問題ありません」


 そう言って、氷彗は衣を作っていった。

 ボウルに薄力粉、卵、水を投入し、菜箸で素早くかき混ぜていく。

 シャッ、シャッという鋭い音から、どちらかと言えば「切る」と表現した方が近いのかもしれない。


 そんなことを思っていると、ふと鼻腔が芳しさをとらえた。ちょうど熱された鍋の辺りから漂ってきているものだ。


「いい香り。これってもしかしてゴマ油?」

「はい、焙煎ゴマ油です。料亭で作る天ぷらは、大抵これが使われているんですよ」

「それは、どうして?」

「気になりますか!!」


 てっきり今回のスイッチは食材にあるかと思いきや、まさかの揚げ油の方だった。鍋で熱されている透明な液体に、そんなに気になる要素が潜んでいるとは考えにくいのだが。


「揚げ料理の中でゴマ油が好まれる理由……それは、ゴマ油がもっとも酸化されにくい油だからです!」

「もっともって……そんなに違うの?」

「分かりやすい実験があります。ゴマ油の酸化具合を、大豆油やコーン油と比較した対照実験です。それぞれの油を60℃で30日間放置するという内容でした」


 うららは実験の現場を思い浮かべた。

 夏休みの一ヶ月間、高温多湿のキッチンに食用油を放置しておくようなものだ。その末路にどんな光景が待ち受けているのか、思いを馳せた瞬間、途端に気持ち悪くなった。

 眉間の筋肉にぐっと力が入り、どんどん表情が崩れていく。


「なんか、想像するだけで嫌な感じが……最後それ、絶対ベタベタだよ」

「そう思いますよね! 事実、ほとんどの油がそうなってしまったんですが、ゴマ油だけは油性に変化がなかったんです!」

「本当に!?」


 予想が外れ、うららはあんぐりと口を開けた。

 せいぜいどんぐりの背比べ程度だろうと思っていた油の違いは、分かりやすいほど如実に現れていた。


「何で? そんな熱い環境に放置すれば、普通酸化するものじゃないの?」

「そこが焙煎ゴマ油のすごいところです。この油には、セラモリンという物質が含まれています。これは熱加水分解することでセサモールという抗酸化物質を生成します」

「じゃあ、熱した分だけ酸化に強い物質も油の中に出てくるんだ」

「はい。だからこそ、焙煎ゴマ油は何度もカラッと揚げることができて、ほとんど廃油にならないんです」


 氷彗は菜箸に衣を付けると、それを熱した油へ垂らす。

 柔らかなゾル状の物質は、揚げられてたちまち天かすとなっていった。カラッとした表面とキツネの色味が、食欲をかき立てる。


「油の温度も良くなってきましたね。では、そろそろ揚げていきましょう。油の比熱は低いので、具を一度に入れると温度が一気に下がってしまいます。そうすると衣の中の水分が残ってベタついてしまうので、一つずつ投入していきます」


 食材を衣にくぐらせて、油が跳ねないように優しく鍋の中へ移していく。すると、表面いっぱいに小さな気泡が現れた。


 ジュワ、ジュワワ、ジュワワワワ——


「いい音! 揚げ物の音って雨の音みたいで、聞いてて落ち着くよね」


 現在、油の温度は180℃前後である。

 衣に含まれていた水分は、たちまち水蒸気へと形を変えていく。

 その際、食材は四方八方から蒸されるのだ。


「大体80~100秒を目処に引き上げ、バットの上に移したら余分な油が落ちるのを待ちます。紙を敷いた皿に盛りつけたら、たっぷりの大根下ろしを添えて……出来上がりです!」


 揚げたての天ぷらには、どれも美しい花が咲いていた。

 山を立てるような盛りつけからは、ボリューム感が伝わってくる。

 衣の具合も絶妙だ。厚すぎず薄すぎず、奥からはうっすら食材の色味が透けて見えていた。


「おぉ! 黄、緑、ピンク……カラフルな盛り合わせ」


 これで晩餐の準備はすべて整った。

 二人はちゃぶ台に着くと、向かい合って合掌した。


「いただきます!」


 食卓には味付け用にダシと塩が用意されていた。

 だが、まず一口目はそのまま素材の味を楽しむことにしよう。

 うららは頭の中で計画を立て、最初に大葉を選択する。


 パリ、カリッ——

 口に入れた瞬間、チップスのような食感が歯を刺激した。

 ゴマ油の芳醇な香りと大葉の清涼感がたまらない。


 次いでシシトウ。こちらは塩を付けて食べることにした。

 ほのかな苦味が塩味と一緒に舌いっぱい広がる。しっかりと熱が通っていながら、しなびることなく歯ごたえも健在だった。


 そして、ダシに浸したサツマイモを間髪入れずに頬張る。

 しっとりとした食感に、昆布の旨味がこれ以上なくマッチしている。加えて、シシトウの残した苦味のおかげで、イモの甘みがさらに際だって感じられた。


「じゃあ、いよいよ……」


 本日のメインディッシュ、エビの天ぷらだ。

 うららは頭の方から豪快にかぶりついた。

 パリっと衣が砕けると、内側からぷりっぷりの身が姿を現す。「ん~!」と、うららは頬に手を添えて舌鼓を打った。

 口の中で踊り出すその食感だけでも十二分に幸せだ。だが、噛めば噛むほどエビの甘みが増していき、幸せの上限は常時更新されていった。


「ごちそうさまでした!」


 ❄❄❄


「おいしかった~。満足満足」

「エビ天、想像以上にボリュームありましたね」

「うん……なるほど、アインシュタインも気に入るわけだよ」


 後片付けを終えた二人は、ちゃぶ台でのんびりと休憩していた。

 食後に飲むお茶がいつもよりおいしく感じる。

 揚げ物を食べて、体が水分を欲しているのだろう。


「そう言えばあの本、日本旅行の後はどうなってるの?」


 ふと思い出したように、うららが口を開いた。


「日本の後に訪れたパレスチナとスペインの紀行文が綴られています。旅行を終えたアインシュタインは、いったん故国のドイツに戻ってノーベル賞講演のためにスウェーデンへ。その後ベルギー王家も訪問していますね」


「旅行好きだねぇ。確か、田宮さんも飯塚さんも趣味は旅行だっけ?」

「もしかして……研究者に多いんでしょうか?」

「日頃から講演会や学会で各地を飛び回ってるしね。その延長で趣味になっちゃったってパターンなのかも」


 そう言えば、と氷彗は亡き母親の姿を思い出す。

 彼女も、度重なる出張に辟易としながら、趣味は日本各地を巡ることだった。

 あながち、うららの仮説は間違っていないのかもしれない。


「でも、世界旅行かぁ……やっぱり続きも読んでみたいな。ねぇ氷彗。今日買った本のタイトル、もう一回教えてもらってもいい?」

「は、はい。いいですけど」


 急な問いかけに、返事がワンテンポ遅れてしまう。

 どうしたのだろうと思いつつ、氷彗は鞄にしまっていた本を取りだした。


「それだけじゃなくて。今日買った本のタイトル、全部教えてよ」

「……でも、うららさん。あんまり本は読まれないんじゃ」

「まぁ、そうなんだけどさ。やっぱり気になっちゃって……その、氷彗の好きなものなんだし」

「え?」


 うららの表情が読めないのは、彼女の伸びた髪の毛のせいだ。

 首を傾げ、下からのぞき込むと、彼女はうつむいて苦笑いを浮かべていた。それが照れ隠しであると気付くのに、あまり時間はかからなかった。 


「研究や料理以外にも、もっと知りたいんだ。氷彗のこと……こんな理由で本読むのはダメかな、やっぱり?」


 最初、氷彗は訳が分からずぽかんとしていた。だが、徐々にその意味を理解すると、火に飛び込んだように体が熱くなっていった。


「い、いえ!! 全然! むしろ……う、嬉しいです」


 大げさに首を振ると、視界が大きく揺さぶられる。


 大切な人が少し近づいてくれた。

 それだけで、ぽかぽかと胸が暖かい。


 幸福に脳を支配され、氷彗は無意識に本を机の上に並べていた。

 全部のタイトルをメモすると、うららは満足げにほほえむ。


「ありがと。久しぶりだから、読むの遅いかもだけど。読み終わったら、感想言い合おうよ」

「はい!」


 氷彗は大きく頷いた。

 心の中では既に大歓声があがっている。

 しかし一方で、何かを忘れているような引っかかりも残っていた。

 いったい何だっただろうか?


「じゃあ、まずはこの小説をポチるかな~」


 うららが早速、スマホで何かを注文しようとしている。

 氷彗が今日買った小説だ。

 この作者が二年ぶりに出した新作は、いつもと違う毛色の内容だったような覚えがある。


 確か、女学院の後輩が旧校舎に先輩を監禁して、弄んで……

 そして……


 思い出すだけで、さーっと顔面から血の気が引いていった。


「あ、電子版もあるじゃん。じゃあ、今からここで読んじゃおうかな」

「や、やっぱりその小説だけは読んじゃダメですっ——————————!!」


 考えるより先に、氷彗はその注文を阻止しようとうららへ飛びついた。

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