第16話 南極・ペンギン・かき氷(中編)
☀☀☀
真夜中の研究棟。
今日、先に休憩室に着いたのはうららだった。
氷彗を待つ間、うららは残った仕事を済ませようと、ちゃぶ台にノートPCを開いた。
研究室からそのまま持ってきたので、モニターには解析ソフトやターミナル、プレゼンテーションソフトなどのウインドウがとっ散らかっている。
カタカタカタ、とタイプ音を響かせてしばらく作業に勤しんでいると、廊下から足音が聞こえてきた。
顔を上げると、買い物袋を提げた氷彗と目が合った。
「あ、氷彗。お疲れ~」
「お疲れ様です。作業の途中でしたか?」
「うん、ちょっと発表の資料を作ってて」
氷彗は怪訝そうに首を傾げた。
「学会のシーズンは、もう過ぎたと思いますけど?」
「そうなんだけどね。それとはまた別件で……まぁ、これは後からでいいや。それより、南極の氷! 見せて見せて!」
氷彗は頷いて、冷蔵庫から発泡スチロールの箱を取り出してきた。
ノートPCをどかしたちゃぶ台の上で、その蓋が開かれる。
すると、ひんやりした冷気と共に、大きな氷が姿を現した。
極寒の南極の風景を閉じ込めたような色をしていて、見ているだけで涼しくなる。
「ほぉ~、これがそうか。水道水で作る氷に比べると……白い?」
「そうですね。南極の氷は、降り積もった雪が固まってできたものですから。中にはたくさんの空気の粒が詰まっているんです。これが光を散乱するから、白く見えます」
氷彗はそのまま、キッチンに移動すると腕まくりをした。
「では、早速かき氷のシロップを作っていきましょう」
「え? 氷はこのままでいいの? 保冷容器に入ってるけど、一応冷凍庫に戻した方が良くない?」
心配して言ってみたが、氷彗はにこりと微笑んだ。
「このままで大丈夫です。冷凍庫は冷たすぎるので、しばらくはこうして室温との差を縮めておきます」
「どうして?」
「かき氷を食べたとき、頭が痛くなるのを抑えるためです。あの頭痛は、口内の寒冷刺激が原因なので。こうして氷をゆっくり温めて、外との温度差を小さくすれば頭痛を抑えられます」
氷彗がまず買い物袋から取り出したのは、牛乳と砂糖だ。
「最初に作るシロップは練乳です。牛乳と砂糖を鍋に入れて火にかけ、沸騰したら弱火にし、かき混ぜながらじっくり煮詰めていきます」
てっきり、出店で定番のフルーツ系シロップだと予想していたが、どうやら今回のかき氷はしっとり系のようである。
そもそも、練乳を作るものだと思っていなかったうららは、興味津々で鍋の中を覗いた。
「へぇ~、練乳ってこんな簡単に作れるんだ。もうトロトロしてきてる」
「練乳は牛乳の水分を蒸発させて、糖分が55%になるまで砂糖を加えたものです。浸透圧が高くて、微生物が繁殖できないので、元々は保存目的で使われていたみたいですよ」
ソワソワとしながら、氷彗はこちらを向いた。
「うららさん。練乳を温めている間に、もう一つのシロップ作りを手伝ってくれませんか?」
思いもよらぬ嬉しい申し出に、気持ちが昂る。
うららは「やった」とこぶしを握ると、そのまま自分の胸を叩いた。
「任せといて! 何作るの?」
「黒蜜です」
「黒蜜!? それも作れるんだ!?」
「黒蜜の材料は、黒糖と水だけです。黒糖を細かく入念に砕いて、ボウルに入れた水へ溶かして下さい。あとは、電子レンジで数十秒温めるだけです。沸騰したらすぐに止めてください」
説明された作り方が簡単なことに、うららは驚いた。
なるほど、これなら自分でもできそうだ。
ビニールに入った黒糖をスプーンで入念に細かく潰していくと、独特な香りが広がった。白い砂糖にはないものだ。
そこで、うららはある事が気になった。
「そういえば、練乳で使った砂糖は白いけど、こっちの黒糖は文字通り黒いよね? 風味も違うし……何で?」
「気になりますか!?」
「うん!」
「二つの砂糖の違いは、糖蜜を含んでいるかどうかという点にあります。糖蜜とは、サトウキビの搾汁からショ糖を取り除いた際に残る、植物性のシロップです。これを捨てて作るのが白糖。捨てずに作るのが黒糖なんです」
「なるほど、白い砂糖は甘さ以外を全部削ぎ落してるのか。黒糖は、それ以外の成分も残しているから、風味も色味もあるんだね」
電子レンジの中で回るボウルをしげしげと眺めていると、不意に表面が泡立ち始めた。
取り出してスプーンでかき混ぜてみると、シロップ特有のトロリとした感覚が返ってくる。
「うわ!? 本当に黒蜜になってる?」
「こっちもそろそろ仕上がりそうです」
鍋からボウルに流し込まれた練乳は、黒糖よりもトロっとしていて、濃厚なミルクの匂いを放っていた。
「出来た練乳と黒蜜は、粗熱がとれたら冷蔵庫に入れて、冷えるのを待ちましょう」
「りょーかい!」
☀☀☀
「もういいかな?」
「そうですね……」
冷蔵庫から取り出したボウルの温度を、氷彗は真剣な表情で確かめた。
「はい、もう大丈夫です!」
「よし! じゃあ、いよいよ氷を削るんだね! 削るのは私がやっていい?」
「お願いします。盛り付けは私がやりますね」
「OK! 任せた!」
表面が薄く溶けだしてきた南極氷を、氷彗持参のレトロなかき氷機にセットした。
受け口にガラスのカップが置かれたのを確認し、側面の回転レバーを回す。
シャッ、シャッ——
スケートリンクを滑るような音が、部屋の中を駆け巡った。
子供っぽいかもしれないが、やっぱりこういう特殊な道具を使うのは、楽しいものだ。
「カップに氷を山のように盛ったら、前半分に練乳、後ろ半分に黒蜜をかけます。そして、缶詰のあんずを目に、みかんをくちばしに見立てて、練乳の上からデコレーションすれば……」
白い練乳と、黒い黒蜜。
なぜそんな組み合わせをシロップに選んだのか、いまいちピンとこなかったが、完成形を見てようやく合点がいった。
「こ、これは!! 短足がキュートな、南極のアイツ!?」
「はい! 南極ペンギンのかき氷、出来上がりです!」
「か、かわいい〜」
丸っこいフォルムに間の抜けたような顔のペンギンは、食べることを躊躇してしまうくらい愛らしい。「可愛すぎて食べられない」とコメントする女の子の気持ちが、少しだけ分かった。
しかし、悲しいかな。
うららは迫りくる食欲に逆らえなかった。
「ペンギン……君のことは忘れないよ」
ちゃぶ台につくと、うららはいつも以上に深々と手を合わせた。
「いただきます!」
まずは練乳の部分をすくって食べてみる。
氷が舌に触れた瞬間、氷点下の感覚が風のように口の中を駆け巡った。さっぱりした刺激に次いで、今度はしっとりまろやかなミルクの味わいが主張してくる。
シャリッとした氷の食感と、トロっとした練乳の舌触りが何ともたまらない。
「おいしい~~~!! これ、すごいよ氷彗! 作りたてだからかな? ミルクの匂いがしっかりしていて、かき氷にぴったりの甘さになってる!」
「あ、ありがとうございます。うららさんの作られた黒蜜も、おいしいです」
「本当?」
自分の料理センスは信じられないが、氷彗の言葉を信じて、恐る恐る黒蜜の部分を食べてみる。
サトウキビの香りを残す奥深い甘さが、ゆっくりと鼻腔を支配していく。練乳とはまた違う味わいではあるものの、同じくしっとりとした甘さで、素晴らしい組み合わせだ。
「こっちもおいしいっ! 氷彗のレクチャーのおかげだね」
それからかき氷は、食欲という熱に溶かされるみたいに、あっという間になくなっていった。
「ごちそうさまでした!」
☀☀☀
食後、片付けを終えた二人は、ホッと一息ついた。
手元の麦茶には、余った南極氷がごろりと入っている。
内に閉じ込めた数万年ものの空気がプチプチと弾け、まるで炭酸ジュースみたいだった。
「そういえばさ、この南極の氷、ご褒美にもらったって言ってたけど、何があったの?」
「それは……ちょうどこの前、学会発表で賞を頂いたので」
「え? すごいじゃん! 私も何かお祝いしないと」
氷彗は慌てたように、ぶんぶんと手を振った。
「い、いえ! そんな大丈夫です! それに受賞できたのも、うららさんが料理で験担ぎしてくれたおかげですから!」
「……そう? あのネバネバうどん、効果あった?」
「はい、とっても。あがらずに発表出来ました」
「そっか~、よかった。氷彗の役に立てて…………う~ん、でもやっぱり、私も何かしてあげたいな」
身を乗り出して、氷彗の顔をじっとのぞき込む。
彼女の喜びそうなものを考えてみたが、残念ながら今は手持ちがない。あるのはこの手だけだ。
悩んだ挙句うららは、ぽんと氷彗の頭に手を添えた。
「——っ!! う、うららさん!? あ、あの、何を!?」
「ささやかだけど、ご褒美のよしよし。嫌だった?」
きょろきょろと、黒い瞳があてどなく泳ぐ。
「いえ。その、むしろ…………」
そこから先はごにょごにょとしか聞き取れず、言っていることは分からなかった。
でも、嫌がっている様子ではなかったので、続けることにした。
心なしか、氷彗の頭は湯だったように熱かった。
「氷彗、よく頑張ったね。おめでとう」
(後編へ続く。)
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