八雲side

その12センチに追いついて 8

 霞さんにフラれてしまった。

『気持ちが重たい』冷たい目をした霞さんが言い放ったその言葉が頭から離れず、言い用の無いどんよりとした気持ちが、胸の中で渦を巻いている。

 あれからどこをどう歩いて帰ったのかは覚えていないけど、気が付いた時にはアパートの部屋の前に立っていた。

 大学進学の際に借りた一人暮らし用のアパートでは無く、姉さんが住んでいる実家と呼べる場所。だけど正直、僕はここが自分の家だという感覚があまり無い。

 それというのもこの建物は長らく姉弟二人で暮らしてきた八福荘では無く、去年新たに借りたばかりの2LDKの新しいアパートだったからだ。


 八福荘とは二駅離れていて、普段ここには住んでいない僕は今一つ馴染めていない。そんな実家の玄関のドアを開けて中に入りリビングに行くと、姉さんがコタツに入りながら本を読んでいた。


「ただいま」


 そう挨拶をしたけど返事は返ってこないし、本からも目を離さない。

 一度読みだすと周りが見えなくなる癖は昔も今も変わらない。もう一度、さっきよりも大きな声でただいまと言うとようやく気付いたようで、顔をこっちに向けてくる。


「ああ、お帰り。ごめん、帰ってたの気づかなかった」

「別に良いよ。今読んでいるのって、今度担当になった先生の本?」

「そうよ。仕事が始まる前に、一度読み返してみようと思って」


 見るとコタツの上には、何冊かの本が積み上げられている。これらはすべて同じ人の書いた小説。大学を卒業後に出版社に就職した姉さんは、今は編集部に勤めていて、作家の先生の担当をやっているのだ。


 昔夢見ていた小説家にこそなれなかったものの、編集という形で本作りに携わっているのだから、きっと今の仕事にやりがいを感じていることだろう。

 そんな事を考えているとキッチンの方から――


「お帰り八雲。外は寒かったでしょう。今コーヒーを入れるから」


 そんな声が聞こえてきた。そこにはエプロン姿の男性が一人、優しげな表情でこっちを見ていた。


「それなら僕が用意しますよ、基山さ…太陽義兄さん」


 そう言って僕は義兄さん…基山太陽さんに目を向ける。

 いけない。ついまた『基山さん』と呼んでしまった。この呼び方でも間違っているわけじゃないけれど『基山さん』では姉さんの事もさしてしまう。何しろ今の姉さんの名前は水城皐月では無く、基山皐月になっているのだから。


「いいから八雲はゆっくりしていて。丁度淹れようと思って用意していたところだから」


 義兄さんは慣れた様子でティーカップにコーヒーを注いでいく。きっとこの家では見慣れた光景なのだろう。

 二人は去年に籍を入れ、それに合わせて八福荘からこの部屋に越してきた。元の部屋だと僕が里帰りした際、三人で使うには手狭だったためだ。

 僕のことは気にしなくていいから、二人のライフスタイルに合わせて部屋を選んでほしいと言ったのだけど、それには姉さんも義兄さんも激しく反対した。


『ダメよ。八雲が帰ってくる場所はちゃんと残しておかないと』

『気持ちは嬉しいけど、それだと僕が追い出したみたいになるからね。ちゃんと皆でいられるようにしたいよ』


 終いには僕が納得しないと結婚なんてしなと姉さんが言い出す始末。結局折れるしかなく、協議の末に現在の部屋が選ばれたというわけだ。

 里帰りしている今は、一部屋を丸ごと使わせてもらっている。少々悪い気もしたけど、二人の心遣いは素直に嬉しい。


「八雲は砂糖、一杯でいいよね。皐月さんは、今日は何杯にする?」

「そうね。ちょっと眠いからブラックで良いわ。せっかくだから八雲が買ってきてくれたお土産も出そうか」

「ええと、どこに置いていたっけ?」

「そっちは私が用意するから、太陽はコーヒーを運んでおいて」


 姉さんは本を閉じると、コタツから立ち上がる。

 当初はどことなく不思議な感じがした二人の名前呼びも、もうすっかり慣れてしまっている。こうやって皆、少しずつ変わっていって。いつしかそれが当たり前になっていくのだろう。


(もし霞さんと会わない日が続いても、いつかはそれを当たり前だと思う時が来るのかな?)


 ふとそんな事を思ってしまった。

 極力考えないようにと思っていた事だけど、ずっと好きだった人に振られたのだ。やっぱりつい思い出してしまう。

 やがて義兄さんがコーヒーを用意し、姉さんがお茶菓子を持って来て、三人そろってコタツに入る。


「このコーヒー、新しいやつ使った?いつもと少し味が違うけど」

「うん、この前貰ったコーヒーギフトを開けてみた。八雲は、口に合う?」

「あ、はい。美味しいです」


 そう答えたものの、正直味なんてよく分からない。普段なら分かるのだけど、今はショックを引きずっているせいか味覚がおかしくなっているようだ。

 それでもせっかく淹れてくれたんだ。残すわけにはいかないと思って飲んでいると、姉さんがこっちを見てくる。


「ところで八雲」

「なに?」

「初詣に行って、何かあったの?なんだかさっきから様子がおかしいけど」

「えっ?」


 どうして分かったの?

 驚いた僕は、思わず手にしていたカップを落としてしまった。


「すみません」

 幸いカップは割れていないし、中身は飲み干した後だったから被害は無かったけど、姉さんに見抜かれていた事には動揺する。


「おかしいって、どの辺が?」

「そうねえ。例えばそのコーヒー。もう飲み終わっているなんて、八雲らしくないかなって思って。いつもならもうちょっと、ゆっくり味わって飲むはずなのに」


 全然気付いていなかった。まさかそんな細かいところで分かってしまうだなんて。


「それで、いったい何があったの?」


 距離を詰め、じっと僕の目を見つめてくる。だけど、それには答えたくはなかった。


「何でもないから。姉さんの勘違いじゃないの?」

「うーん。初詣に行く前は普通だったわよね。財布を落としたのなら隠さず正直に言いそうだし…」

「聞いてよ人の話」


 僕の言ったことをスル―して、姉さんは頭を捻っている。すると今度は義兄さんまが心配そうな目をしてくる。


「八雲、もし何か悩みがあるなら相談してね。どれだけ力になれるか分からないけど」

「義兄さんまで。だからそんなんじゃないですよ」

「八雲が悩みそうなことと言えば、春からの新生活のこととか、霞絡みとか…」

「―――ッ!」


 霞さんの名前が出たとたん、思わず硬直してしまった。それはほんの一瞬の事だっただろうけど、それを見逃す二人じゃ無かった。


「え、もしかして田代さんと関係あるの?」

「そう言えば出かけた神社って、霞の家から割と近かったわよね。正月は帰らないって聞いていたけど、もしかして会ったの?」


 どうしてこう言う時だけ勘が鋭いのだろう。けどその事に触れられたくない僕は、首を横に振って立ち上がる。


「ちがうよ、本当に何でもないから。ちょっと疲れたから、部屋で休んでくるね」

「ちょっと、八雲…」


 姉さんが何か言おうとしたけれど、それを聞くこと無く部屋を出ていく。

 心配してくれるのはありがたいけど、今は放っておいてもらいたかった。きっと相談したところで、この胸の痛みがとれることはないのだから。

 冷めきった気持のまま、僕は部屋へと向かうのだった。



 僕がいなくなった後のリビングでは、姉さんと義兄さんが心配そうに顔を見合わせていた。


「どうしよう。八雲、何でもないって言っていたけど、そんなわけないよね。ちょっと話を聞いてくる」

「待って。あんなにも否定しているんだから、きっと追及しても答えてはくれないよ」

「何よ。それじゃあ放っておけって言うの?」

「そうは言わないよ。ただ、もし本当に田代さん絡みだったら、僕らよりも適任者がいるから。会長なら、きっと力になってくれる」

「会長?ああ、恋ちゃんね。確かに八雲も私達より、恋ちゃん相手の方が話しやすいかも」

「それに、もしこれで何の相談もしなかったら後でスネちゃうかもしれないしね。一番近くであの二人を見守ってきたのは、やっぱり竹下さんだし」

「さすが、八雲と霞をくっつける会の副会長に就任しただけはあるわね。よく分かってるわ」

「あとは田代さんの方か。何があったかは知らないけど、もし本当に拗れているののなら、そっちもちゃんとフォローしないと」

「それなら私に任せて。大丈夫、八雲贔屓せずにちゃんと話を聞くから。八雲も霞も、互いの事を嫌いになったなんて思えないし、きっと何とかなるわよ」


 こんな感じで作戦会議を進める二人。部屋にこもっていた僕はこんなやり取りがあってるだなんて、もちろん知る由もなかった。

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