その12センチを埋めたくて 5
一夜明けた日の夕方。僕は待ち合わせ場所である公園に来ていた。
高台に作られたこの公園では、犬を連れて散歩している人の姿もちらほら見受けられる。今まではそんな人たちを見て犬が飼える事を羨ましがったりもしていたけど、今日は違う。
公園の中央にあるベンチに腰を下ろして待っていると、正面にある階段から霞さんが上ってくるのが見えた。
「ごめん、遅くなって。待った?」
手を振りながらこっちにやってくる霞さんのもう片方の手にはリードが握られていて、その先には焦げ茶色の毛並みの大きな犬が繋がれている。
「僕も今来た所です。この子が霞さんのところの犬くんですか?」
「うん。ハチミツって名前だよ。触ってみる?」
「はいっ!」
少し屈んで、ハチミツの頭の後ろに手を回す。たしか上から手をかざすと怖がられてしまう事があるけど、こうやって抱きしめるように触れるのはよかったはずだ。
優しく頭を撫でていると、ハチミツも初めて見る僕に興味を示したのか、しきりに顔をくっつけてくる。
「わっ、くすぐったい」
フサフサとした毛並みが顔に触れる。どうやら警戒されている様子は無く、今度はそのモフモフとした体をそっと撫でてみる。
「人懐っこくて可愛いですね」
思わず笑みをこぼす僕を、ハチミツはつぶらな瞳で見ている。その姿はとても愛らしく、思わず見とれてしまう。
「そう言えば、どうしてハチミツって名前なんですか?」
「そんな感じの色だからだよ。ちょっと単純なつけ方だけど」
「そんなこと無いですよ。シンプルイズベストです。だよね、ハチミツ」
するとハチミツは同意するように「ワン」と一鳴きする。そしてそのままゴロンと仰向けに寝転がり、白いお腹が露わになる。
「それっ」
ハチミツのお腹をわしゃわしゃと撫でまわす。
すると不意に、カシャっという機械音が聞こえてきた。見ると、霞さんがデジカメをこっちに向けていた。
「写真撮りました?」
「うん。さーちゃんにこの事話したら、写真撮って後で見せてって頼まれたから。ごめん、嫌だった?」
「いいえ、僕は全然かまいません」
そういえば昨夜返ってきた姉さんに、霞さんに犬を見せてもらう話をした時、自分も行きたいって言ってたっけ。生憎姉さんは今日もバイトがあるから、それは叶わなかったけど。
「すみません、姉さんが変なことをお願いして」
「そんなこと無いよ。さーちゃんは八雲くんのこと大好きだから、きっと遊んでいる所を見て見たいんだよ。でも、なんだか気持ちわかるなあ。八雲くん、本当に楽しそうだもの」
そう言われるとちょっと恥ずかしい。照れる僕を見て霞さんはクスクスと笑いながら、再びデジカメを構える。
「もう一枚良い?ちょっとハチミツと顔を並べてみて」
「こうですか?」
お座りさせたハチミツに顔を近づけ、霞さんがシャッターを切る。デジカメの画面には、僕とハチミツのツーショットが写っている事だろう。
「バッチリとれたよ。さーちゃん今頃、バイトしながら早く写真が見たいって思ってるんじゃないかな」
「思いすぎて仕事が手につかないって事になっていないことを祈ります」
「たぶん大丈夫なんじゃないの?さーちゃん真面目だから、『お給料をもらっている以上手は抜けない』って言いそう」
それもそうかも。いくら姉さんでも、そこまでブラコンじゃないだろうし。
その後も僕はハチミツを散歩させたりボールで遊んだりと、たっぷりと堪能させてもらった。 そうしているうちにやがて日も暮れていき、家に帰る時間になる。
「今日はありがとうございました。ハチミツと遊べて楽しかったです」
「喜んでもらえて嬉しいよ。ハチミツも八雲くんの事気に入ってくれたみたいだしね」
当のハチミツはと言うと、名残惜しそうに僕にくっついてくれている。僕も本当はハチミツともっと遊びたいし、霞さんとお話をするのも楽しいから、もっとこうしていたいのだけど。
「あの、霞さん」
「なあに?」
屈託のない笑顔を向けてくる霞さん。いけない、思わず図々しいお願いをするところだった。開きかけていた口を紡ぎ、何でも無いですと答える。
だけど霞さんは何かを悟ったように、そっと僕の頭を撫でてきた。
「言いたいことがあったら、ちゃんと言った方がいいよ。変に遠慮なんかしないで、ね」
どうやら全部お見通しのようだ。ここまで見抜かれているとなると正直に言った方が良いだろう。
「もし霞さんが迷惑でないのなら、また遊ばせてもらっていいでしょうか?」
暇じゃないだろうから面倒なお願いをしているとは思うけど。だけど霞さんは嫌な顔をせずに笑いかけてくる。
「全然いいよ。私も塾とかあるから毎日ってわけにはいかないけど。予定が合う日でよければ構わないよ」
「本当ですか」
「うん。でも、どうやって連絡とろうか。さーちゃんに伝言を頼んでも良いけど…八雲くん、ケータイって持ってる?」
「はい。ちょっと待って下さい」
そう言ってポケットからケータイを取り出す。姉さんと二人暮らしだから何かあった時にすぐに連絡が取れるよう四月に買った物だけど、アドレス帳はまだスカスカだ。
「番号、教えてもらっても良いかな。あと、私の家の電話番号も登録しておいてもらえる?」
そう言われて、互いに番号を教え合う。聞けば霞さんはケータイを持っていないそうで、家の電話でしか連絡ができないそうだ。
そう言えばさっき写真を撮るときデジカメを使っていたっけ。ケータイなら撮った写真をメールに送付してすぐ姉さんに送れるのにそれをしなかったのは、そもそも持っていないからだったのか。
「何かあったらここに連絡するか、さーちゃんに伝言をお願いするから」
「分かりました。この事、姉さんにも伝えておきますね」
「それじゃあ八雲くん、気を付けて帰るんだよ。バイバイ」
リードを引きながら、霞さんはハチミツを連れて来た時と同じ階段を下りて行く。僕はというと、先ほど新しい番号を登録したばかりのケータイを眺めていた。
「霞さんの家の番号か」
まだ登録数が二桁にもなっていないアドレス帳に、姉さんの友達の家電を登録する事になるとは思わなかった。だけどこれで、何かあった時は霞さんと連絡が取れる。
そう考えると、何故かふと胸の奥が温かくなった気がした。どうしてそうなったのかは分からないけど、悪くない気分だ。
さて、僕もそろそろ帰らないと。ケータイをポケットにしまい公園を後にし、家へと続く道を歩いて行く。
赤く沈んでいく夕日が、どういう訳かいつもより眩しく感じられた。
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