その12センチに追いついて 6

 僕の問いに、霞さんは何も答えてはくれない。だけどその沈黙こそが、肯定の何よりの証となってしまう。


「ち、違うよ。そんなこと……」


 無い、と言おうとしたのだろう。だけど今更そんな取り繕った言葉になんて、何の意味も無かった。霞さんの声にかぶせるように、僕は口を開く。


「僕が何か気に障るような事でもしましたか?もしそうなら謝りますけど、それならちゃんと話して下さい。悪い所があれば直しますし、してほしい事があればしますから」

「違う、そうじゃないの」

「だったらどうしてッ?」


 理由がさっぱり分からない。焦った僕は思わず霞さんの肩を掴み、立て続けに質問していく。


「だったら、他に好きな人が出来たとか?それとも、五歳も年下というのが嫌になったんですか?」

「それも違う…八雲くん、痛いよ」


 しまった。つい手に力を入れすぎてしまったことに気付き、慌てて手を放す。


「すみません」

「ううん、八雲くんは悪くないから。悪いのは私の方だもの」


 そう言って悲しげな目を向けてくる。

 あまりに冷たい眼差し。まるで鋭いナイフを胸に突きつけられたような気がして、嫌な予感が渦巻いて行く。


「ねえ、八雲くんは私のことをどう思ってる?」


 どうって、そんなの決まってる。僕は迷うことなくその問いに答える。


「霞さんは優しくて、大人で。とても素敵な人です」


 それは嘘偽りの無い本心。だけど霞さんは、ゆっくりと首を横に振る。


「それは違うよ。私は優しくも無ければ、大人でも無い。八雲くんは私のことを買いかぶり過ぎているよ」

「そんなことありません!」


 そう想いをぶつけたのに、霞さんにはまるで届かない。


「覚えてる?昔、いつか私に追いつくって言ったこと。同じ目線に立ちたいから、追いかけるって言ってたよね」


 当然忘れるわけが無い。その誓いを胸に、僕は今日まで頑張ってきたんだ。


「覚えていますよ。だから今だって、追いつくためにもがいているんです」

「そう…だよね。それが八雲くんの良い所だもの。だけど気付いてないかもしれないけど、もう追いついているんだよ。ううん、とっくに私なんて追い越して、八雲くんはずっと先にいるんだよ」


 まさか。確かに昔よりは成長しただろうけど、それでもまだ霞さんに追いついたなんて思えない。ましてや追い越したなんて。


「違います。僕はまだ全然…」

「ううん、間違ってないから。八雲くん、私のことを美化しすぎだよ。でも実際は、全然大した人間じゃないから。ねえ、この前のクリスマスの時、私会えないって言ったよね。どうしてだか覚えてる?」

「それは…仕事が忙しかったからじゃ」

「うん。だけどそれは嘘。本当は私がいなくても十分に人手は足りていたの。だけど無理言って先輩の撮影について行ってた。普段何の役にも立ってないから、少しでも成果を上げたくて。結局そこでもやらかしちゃったんだけどね」


 淡々と語る霞さん。僕はそれを信じられない気持ちで聞いていた。

 霞さんのことを何でもできる完璧な人だと思っていたわけじゃ無い。ちゃんと苦手な事もあれば、弱い部分だってある。良い所だけを見てきたわけじゃ無いから、それくらいは分かっていた。だけど今の霞さんはこれまで見た事が無いくらい弱弱しく、全く生気が感じられなかった。

 そして霞さんはついに、聞きたくなかった言葉を口にする。


「ねえ。しばらくの間、会ったり連絡をとったりするのをやめにしない」

「どうしてっ?」


 なぜいきなりそんな突き放すような事を言うのか。その理由が全く分からない。



「八雲くんが私に追いつこうとしていたのって、人間として釣り合うようになりたかったからだよね。それって裏を返せば、釣り合わないなら一緒にいない方が良いってことになるでしょ」

「そんな…」


 もちろんそんなつもりで言っていたわけじゃ無かった。だけど捉え方によっては、霞さんの言う通りにならない事も無い。


「私じゃ、八雲くんとは釣り合わないから。一緒にいたらきっと、迷惑ばかりかけちゃうもの」

「そんな事ありません。霞さんは自分で思っているよりもずっと立派な人です。それに少しくらい何かあっても、僕は平気です」


 僕はとにかく、引きとめようと必死だった。

 霞さんが離れてしまう事が怖くて、考えるよりも先に思いつく限りの言葉をぶつけて思い止まらせようとする。だけどそれを拒絶するかのように、霞さんは言い放つ。


「そうだね。けど、だからダメなの。八雲くんは一人で何でもできちゃうし、それでいて優しいから。一緒にいたら、きっと甘えっぱなしになっちゃう」

「それのどこがいけないんですか。良いんですよ、甘えても」

「うん、八雲くんならそう言うと思ったよ。いつだって私のことを好きだって言ってくれていたからね。だけど今は、その気持ちが重いよ」

「―――ッ!」


 まるで頭を殴られたようなショックを受ける。

 何か言わなきゃ。そう思っているのに、氷のような冷たい目で見つめられていると、何も考える事が出来なかった。

 一方霞さんは、全てを言い終えたといった様子で踵を返す。


「待って、霞さん…」


 反射的にそう言ったものの、その声はとても弱く、それ以上言葉も出てこない。

 周りにいた人の何人かは何事かといった様子でこっちを見ているけど、そんな事を気にする余裕も無い。けれど焦る気持ちとは裏腹に、全く動く事が出来ない。


 背中を向けた霞さんは、そのまま歩いて行く。追いかけたいと思っているのに、足はまるで石にでもなったかのようで、その後ろ姿を呆然と眺めるしかなかった。

 やがて霞さんは人込みの中へと紛れていき、僕は一人取り残される。


 フラれてしまったんだ。そう理解できたのは、霞さんの姿が見えなくなってから暫くたってのことだった。

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