第32話 追跡

 それは人間。

 髪に白髪の交じる男の人だった。

 背は高いほうで、痩せている。顔は赤ら顔というのだろうか、頬が赤茶色という感じだ。

 足は速い。

 シュー君はその人間をいちど軽く避けたけど、そのすぐ後ろについて、追いすがる。

 「わわわわわわわん! わわわん! わわわわわわわん!」

 初子はつねは警察に電話する準備だったのか、スマホを取り出していた。そのスマホを顔の前にかざして、画面を確認している。

 逃げてくるその男を撮っているらしい。

 だいじょうぶか? そんなことをして。

 この男が撮影されているのに怒って暴力をふるってきたら、ここにいる少女三人とシュー君で勝てるのか?

 初子はスマホを撮影に使っているから、一一〇番には使えない。

 だったらそれは美和みなの役割だろう、と思って、美和は自分のスマホを出そうとする。

 その前に男が柵を乗り越えた。

 その場所のいちばん近くにいたのは友梨咲ゆりさだ。

 「どけ!」

 男は乱暴に言うと、友梨咲の体をひじで突いた。

 「あっ」

と声を立てて友梨咲が倒れそうになる。スマホを出すのをやめて、美和がとっさに抱きとめた。

 「ちょっと待ってください!」

 初子が声を張り上げた。

 あの清純な美声を。

 男は逃げる。

 男の走る姿勢は体育的に見て様になっていた。

 「待ってください!」

 もういちど、初子が叫ぶ。

 男はふり返りもしない。

 「これお願い!」

 美和にスマホを渡す。

 「友梨咲、だいじょうぶ?」

 「完全平気」

 「じゃ、これ!」

 「完全平気」と簡潔に答えた友梨咲に、初子はカメラの入ったバッグを渡す。

 そして、ダッシュする。

 シュー君はいまもマントを翻し、リードを引きずって男に追いすがっている。

 「うーっ、わんっ! ……わんっ!」

 追いすがっているというより、犬のほうが人間の男よりも速く走れるのであって。

 追い抜いては前から吠え、先に行かせては後ろから吠え、「まとわりついている」という感じだ。

 それで男はまっすぐ逃げることができない。シュー君を避けて右へ左へ、舗装の傷んだ悪路でステップを踏みながら。

 そして、男の後ろからは

「待ってくださぁい!」

と声を上げながら、白い革の服で身を固めた初子が追いすがる。

 直線的に追っていく。

 「ほんと、だいじょうぶか?」

 美和が友梨咲にきく。

 「うん」

 美和がすぐに左手で抱きとめたので、足を挫いたりしていなければ、だいじょうぶだと思うけど。

 「じゃあ、追いかけよう」

 娘三人でも乱暴な男一人に対抗できるかどうか。

 まして、初子一人では。

 それでも、初子は追う。

 弁護士の仕事を、依頼人が破滅するところまで徹底してやった祖父と、身を危険にさらして、戦争に巻きこまれた人の「魂」を記録するために戦場で写真を撮り続ける父と。

 もしかすると、自分の親友の行方を探るため、危険を顧みずに戦地に行った母と。

 その血を受け継いでいる初子は。

 だから、できるだけ速く追いつかなければ。

 美和は、小学校のころから足が速い。

 初子に言われたとおりにスマホでの撮影を続けていると速く走れない。だから、スマホはジャンパーのポケットにしまう。

 全力で初子を追う。友梨咲はついて来られない。

 上の道路に合流する坂道で初子は男に追いつきそうになる。あと五メートル、いや、もっと近いところまで詰めている。

 「待ってください! 人を押し倒しておいて何も言わずに逃げるんですか!」

 「ええい!」

 坂を登ったところで男が振り向いたので、初子に暴力をふるう気だと思った。

 美和が初子に追いつく。

 「わんっ! わんわんっ! ……うーっ!」

 男のすぐ足もとで吠えるシュー君のリードを、とりあえず確保する。

 男は初子の上、上の道路に出たところにいる。

 そこから、高さの差も使って乱暴されると。

 たとえば、跳び蹴りでも食らうと、初子は無事ではすまない。

 男が大きく体を回した。

 もし初子に何かやろうとしたら、美和がその前に割り込んでやるつもりだ。

 しかし。

 大きく体を回した男は、そこに停めてあった、というか、捨ててあった?

 錆だらけの自転車のハンドルとサドルをつかむと、その向きをぐるっと変えて、その自転車に飛び乗った。

 何……?

 この自転車って。

 動くの?

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