第48話 馬と人間(7)

 「グリーンちゃんが体調を崩して、予定してなかった時間にクロちゃんを出すとクロちゃんが機嫌を悪くして、それで、これでは馬のローテーションがもたないから、って、こっちの厩舎きゅうしゃのほうからは、今日はこのあと鉄道馬車休みにしてください、って言ったんだが」

 右馬うますけさんは、口を突き出すようにして、ぎゅっ、と結ぶ。

 「ちょうど春休みでお客さんが多い時期で、休むなんてとんでもない、って言われて。でも、このときは、獣医さんが、わざわざ、ラブちゃんも足の状態が万全じゃないんでもういちど会社に鉄道の休止を言ってみましょう、って言ってくれたんだが」

 右馬之祐さんは首を振った。

 「そう言っても通らないと思ったから。それまでも、そうだったからな。それで、いつもは世話係に任せるんだけど、その日は、おれがラブちゃんを連れて駅まで行ったら、もう、お客を乗せて待たせてるんだな。慣らしの時間もあったもんじゃなくて、いきなり、それも満員の重たい馬車を引かせて出発。しかも、足の状態が悪いことが馭者ぎょしゃさんにちゃんと伝わってなかったらして、お客がその後ろにも行列をつくってたから。まあ、それまで冬だったってこともあって、お客さんは少なくて、行列ができることなんかなかったんだけど。その行列ができてるのを見て、おれも、これは、今日休むわけに行かなかったわ、と思ったし、嬉しくもなった。それで」

 ちょっと、のどが詰まったようになって、右馬之祐さんが声を止める。

 だれも、何も言わない。

 シュー君も、目は覚ましているが、何も言わない。

 右馬之祐さんが続ける。

 「ラブちゃんも、ひさしぶりの満員で、喜んで、ふるい立ってるように見えたんだ、すくなくとも、おれには。それで、そのあと厩舎には戻さないで。その午後は、クロちゃんとラブちゃんで馬車を引いてたんだが」

 右馬之祐さんは、ふうっ、と長く息を吐いた。

 「ほんと、あのホープちゃんの事件の日とは逆で、馬車でお客を運ぶのが終わって閉園してからもずっと明るい。最初にラブちゃんが来たときもこんな感じだったな、と思って、終わってから、また、だれも乗せてない馬車でラブちゃんと線路を一周しようか、と思ったくらいだった。でも、馭者さんから、ラブちゃんが右前足を気にしている、何度か急に立ち止まった、って聞いて、とりあえず、こんども自分で手綱たづなをとって厩舎に戻した。たしかに、何歩か行くと、右足を気にして立ち止まるんだ。でも、明日はグリーンちゃんも回復するだろうし、と思って、まあ、いま思えば、気楽に構えてたんだな」

 と言って、右馬之祐さんは、自分の前に花の香りのお茶が置いているのを思い出したのか。

 そのお茶を少しだけのどに流しこんだ。

 「間の悪いことに、その夜はおれも当直じゃなかった。順番からすると当直だったんだが、グリーンちゃんの担当が、グリーンちゃんの様子が気になるからって、替わってくれた。獣医さんもひつじしゃに出かけてて、留守だった」

 「まあ、もともと」

西にし香純かすみ巡査長が言う。

 「獣医の人数そのものが足りてなかったんですね」

 「まあ、そういうことだろうな」

と右馬之祐さんも言う。

 「いまだったら、確実に監督官庁からの指導入りますよ。法令遵守じゅんしゅしてない、って」

 西香純さんが言うと、右馬之祐さんは、うん、と軽くうなずいた。

 「まあ、そうだろうな」

 でも、それが「いま」の話でない以上、しかたがない。

 「そのころ、おれは、いまの家じゃなくて、山守やまもりから下った陽明ようめい通りとしんよど駅のあいだのアパートに住んでたんだが」

 だとすると、美和みなの家から駅に行く途中だろう。

 「朝方、まだ暗い時間に呼び出された。グリーンちゃんの担当から。ラブちゃんの様子がおかしいっていう。グリーンちゃんの担当だったから、グリーンちゃんじゃなくて、って聞き返した。まちがいなく、ラブちゃんだ、っていう。で、自転車を飛ばして、ここまで上がってきてみると」

 右馬之祐さんは、小さく首を振った。

 「もうラブちゃんは足で立てなくなってた。目をむいて、苦しそうで。しかも、そのころ、まだ獣医さんが携帯電話を持ってなかった。持ってたのかも知れないが、おれたちは、番号、知らなかったからな。しかも、その日、獣医さんは羊舎に泊まり込んでて、なおさら連絡が遅れた。獣医さんが車で駆けつけてくれたときには手遅れ」

 唇を結んで、じっ、としてから、言う。

 「足の炎症が、おれたちも、獣医さんも考えてたよりひどくて、けっきょく、心臓に影響した、ってことらしい。目をむいて、泡を吹きそうになってたラブちゃんが、その、目をむくのをやめて、いつものきれいなかわいい目に戻って、目をうるませてるみたいで、それが別れのつもりだったのか」

 もう一回、ことばを切る。

 「おれたちの見てる前で、ラブちゃんは、死んだ」

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