第42話 馬と人間(1)

 矢畑やはたさんは、眉のあいだにきゅっとしわを寄せた。

 その状態で、五秒、いや五秒はないかも知れないけど、あぐらをかいたまま、顔を伏せずに前を向いていた。

 それから、ふうっ、とため息をついて目を伏せる。

 丸めていた背中を伸ばして、今度はゆっくりめに息を吐き、矢畑さんは、ぽつん、と言った。

 「ラブちゃん」

 はいっ?

 美和みなと、隣の友梨咲ゆりさが、いっせいに矢畑さんの顔を見る。

 西にし香純かすみ巡査長も、そのつるつるの頬の顔を上げて、正面から矢畑さんを見ていた。

 ラブちゃん、って。

 何?

 「いや、ラブ号、かな?」

と矢畑さんは続ける。

 「あの場所は、ラブ号が死んだ場所なんだ」

 言って、ぎゅっと口を結ぶ。

 ここで、それまでうつむいていた初子はつねがゆっくりと顔を上げた。

 「それが、馬の名まえ、ですか?」

 「そう」

 そうなのか。

 美和は、意味不明、と思っただけだった。

 初子にはわかったのだな。

 矢畑さんはゆっくりと言って、うなずく。

 「あそこにいた馬には、ラブ、とか、ホープ、とか、ピース、とか、そういう名まえがついてた。そのなかの、ラブちゃん」

 つまり、鉄道馬車を引いていた馬たち。

 初子が、何か言いそうに顔を矢畑さんのほうに向けている。

 右手はシュー君ののどの下をでているけれど。

 「まあ、最初から話すな」

 矢畑さんは低い声で言うと

「おまわりさん、おれの名まえは知ってるようだけど、下の名まえは?」

 「矢畑右馬うますけさんですね?」

 巡査長は顔を伏せて、上目づかいに答えた。

 「この前、そこの坂道のところに置いて行かれた自転車が盗難自転車かも知れないということで、自転車登録を調べさせていただきました」

 巡査長はきびきびと話す。この人がさっきまで「そこの坂道のところにぃ置いて行かれた自転車がぁ」とか話していたとは想像できないくらいだ。

 「ご本人の自転車ということなら、登録名義そのままでしょうし」

 「うん」

と、矢畑右馬之祐さんはうなずいてから、顔を上げて女子たちを見回す。

 「あれ? おかしくないの? 右馬之祐が馬係なんて」

 いまのって……。

 ……笑うところだったんですか?

 そのラブちゃんが馬だとしたら、たしかに、馬係だったんだろうけど。

 「っていうか」

と、ここで、とろんとしたお嬢様的しゃべりかたで、初子が反応する。

 「正直に言って、古風な名まえだ、とは思いましたけど」

 初子は、言いにくいことを、「正直に」ことばにして行く。

 「そう、それだ!」

 「くぅーっ」

 古風ではない名まえのシュー君がそんな声を立てた。

 「首君」で「シュー君」なんて、新しすぎてびっくりする名まえだから。

 初子は、左を立て膝にして、右足を投げ出した。

 その右足にシュー君が両方の前足と頭を乗せる。

 あ。

 シュー君、初子の膝枕。

 いいな。

 美和もやりたいかというと……。

 ……どうだろう、というところだけど。

 シュー君が気もちよさそうに初子の膝枕に乗っかったのを見届けて、矢畑さんが言う。

 「川路かわじ市の東のほうの山の中に矢楽やがらってところがあるのは?」

 「知ってますけど」

と西香純巡査長が答える。

 警察官なら、県内の地名ぐらい知ってて当然?

 「その矢楽に、矢畑やはたって集落があって、おれの家はそこの惣代そうだい、まあ、庄屋しょうやみたいな家だったんだが」

 だとすると、初子の家柄に似てるのかな?

 初子も地方の有力者の出身で、安保闘争というのをやりすぎて村にいられなくなり、こちらに移って来たおじいさんの子孫だと、さっき話していた。

 矢畑右馬之祐さんは続ける。

 「矢畑家には、代々、右馬うまのすけを名のってた家系と、衛門えもんを名のってた家系があって、もともと右馬助の家系のほうが上、左衛門の家系はその次、って順序があったんだそうな」

 他人ごとのように。矢畑右馬之祐さんは言う。

 「ところが、それも、何? 幕末のころまで? そのあと、矢畑に残ったのは左衛門の家系のほうで、うちの家系は川路の街に出て来て、金物屋をやったり、燃料屋をやったり、八百屋のなかいをやったり。でも、どれも長続きしないで、落ちぶれる一方で」

 ということは、右馬之祐さんも苦労したのだろうか?

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