第49話
◇
目覚めると、最後の灰が落ちて煙が消えていた。
窓の外見える太陽はすっかり高い所に上っている。きっともう真昼に近い時刻なのだろう。
嗚呼、また怒られてしまう――。
起き上がると自然と込みあがる笑みを抑えながら、獏は寝乱れた着物をそのままに自室を出た。
廊下に出るとすぐに異変に気付いた。
まるで自分以外の誰の存在もないかのように店内は不気味な静寂に包まれていた。
「結さん?」
名前を呼んでも返事がなかった。
居間を、台所を、風呂場をのぞいても姿が見えない。
自室だろうかと彼女の自室をそっと開いたが、そこはもぬけの殻だった。
獏とは正反対に綺麗に整理整頓された部屋。布団もしっかり畳まれていて心地よい日が刺している。
「結さん」
もう一度名前を呼んだ。やはり返事はない。
店番をしているのだと思い一階に降りてきたが、そこには客どころか結の姿もなかった。
そもそも店を開けていることすらしていないのだろう。昨晩しまったはずの暖簾が同じ場所に立て掛けてあった。
あまりにも異常すぎる。僅かに獏の心臓が早く脈打ち始めた。
この場にいないのであれば外に出かけたのだろうか。出掛けるならば必ず声をかけてくれるはずだ。
いや、そもそも彼女は一人で出かけられるほど器用ではない。
外出するときはいつも誰かが共にいた。誰かが傍にいなければ、彼女はここに帰ってくることもできない。そうなると残る可能性は一つだ。
「――……あそこですか」
そうして店の奥の細い廊下を進んでいく。
何度も注意しても、彼女はあの場所で時折眠っている。
普段の彼女は絶対に一人ではあの場所に近づかないというのに、まるで操られているかのように彼女はあの場所で眠ることがある。
しかし彼女自身はそこで眠っているのかも分かっていないようだ。
あの部屋は夢世と現世の狭間。曖昧な世界だ。あそこで香を使わず眠るのは自殺行為であるというのに――。
ため息をつきつつ、細く暗い廊下を通り夢見の間へ向かった。
扉を開けると、やはりそこに彼女はいた。
布団もかけず、無防備に、死んだように眠っている。
「……結さん。起きてください。こんなところで寝てたら風邪ひきますよぉ」
漸く彼女の姿を見つけてほっとした。早く起こすようにそっと肩を揺さぶった。
しかし何度揺さぶっても起きない。何故か母が息を引き取った時の姿が鮮明に脳裏に過った。
「結さん……結!」
体を持ち上げて、頬を軽く叩いた。
しかし瞼はぴくりとも動かない。揺さぶっても、声をかけても起きない。おかしい。
呼吸はある。眠っているだけだ。それだというのになんだこのいい知れない恐怖だ。
ふと視線を移すと、結の手元には文が落ちていた。
「――……」
その文を見て、獏は目を細めた。
「貴女は何度俺から奪えば気が済むのか」
その手紙には四葉のクローバーの絵が描かれてあり、その隣には口紅でつけられたキスマークがあった。
“貴方が好きなものは、私も大好きなの。だから彼女は私がもらうわ。愛しているわ、霞”
獏はその手紙を忌々しくつぶやきながら破り捨て、自身の腕の中で寝息を立てている結を悔し気な瞳で見つめた。
◇第六章/夢霞む 完
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます