第8話



「店長、店長」


 閉店後、締め戸締りを終えた女は二階のあの男の部屋へと向かう。

 声を掛けても返事はない。どうせまた寝ているのだ。

 放っておくと一日中平気で眠っていることもあるし、よく瞼と瞼がくっつかないものだ。いや、寝てばかりいるからあんなに目が細いのかもしれない。


 ため息をつきながら、壁伝いにあの人の部屋に向かう。

 この店は漂う香りでどこに何があるか分かるから、目が不自由になって日が浅い自分には非常に助かっていた。

 男の部屋と思われる襖を開けるとふわりと香の香りが漂ってくる。


「――……また夢を観てるんですか」


 彼の部屋は色んな匂いで充満している。

 寝るまで吸っていたであろう煙管の匂い。ほんのりと甘い、お香の香り。

 それだけでなく酸いも甘いも苦いも辛いも色んな匂いが混ざり合っている。どの匂いが主張しているわけでもない不思議と気分は悪くないのだ。


 暗闇の中で手を伸ばせば、ふと男の髪の毛に手が触れた。

 男性の髪とは思えない程柔らかで、手で梳いてもなんの引っかかりもない綺麗な髪。

 一つの感覚器官を失うと別の感覚が研ぎ澄まされてくるらしく、女は嗅覚と触覚が最近敏感になってきたなと自分でも思っていた。

 癖っ毛の自分と比べると羨ましすぎる髪質に女は負けたような気がして大きくため息をつく。そして寝ている相手に自分は何をしているのだろうと我に返り虚しくなった。


「おやすみなさい……良い夢を、ばくさん」


 風邪をひかないようにと、男に布団をかけて女は静かに部屋を後にした。




◇第一章/夢香る 完

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