第7話



「本当に治ったのかな」


 その夜、寝間着に着替え寝る準備を済ませた由乃はベッドに腰かけた。

 焚いて寝るようにといわれた香を箱から一本取りだした。

 香に火をつけ、香立てに立てる。一本煙が真っ直ぐすぅっと天井に向けて上っていくと、ふわりと匂いが鼻腔を擽る。ほのかに甘い、安らぐフルーティな香りだ。

 これは安眠できそうだ、とベッドに横になるとタイミングよく電話が鳴った。

 着信相手をみると、最近暫く連絡を取っていなかった恋人からであった――。 


「――もしもし」

「――もしもし、寝てたか?」


 久しぶりに聞く、愛しい恋人の声。

 何度も首を横に振りながら起きてたよ、と返す。僅かに声が上ずって頬が緩んでいるのが自分でも分かった。


「ごめんな、最近忙しくて全然連絡できなくて。ようやく仕事が落ち着きそうなんだ、明日にでも会えないかな」

「うん、私も明日休みだから……会いたいな」

「そっちの家に行くよ」

「うん、待ってる……ありがとう、おやすみ」


 短い会話だったが、電話を切った途端枕をぎゅっと抱きしめた。

 よかった、まだお互いに想い合っていたんだ。会いたかったのは自分だけではなかったんだ。

 会える。一か月ぶりに、会えるんだ。頬は緩み切り、自然と笑みが零れてくる。

 興奮冷めやらぬ由乃だったが、いつの間にか睡魔に襲われて気づかないうちに夢の中に落ちていった。

 ほのかに甘い安らぐ香りを感じながら、数週間ぶりに由乃はゆっくりと睡眠を取れた。文字通り夢も見ずに眠ることができたのだった。






 それから数日後、由乃は珍しく仕事で失敗して津山に怒られていた。

 事務所中の全員が、珍しい由乃の失態に驚いていた。津山も怒りながら由乃を心配していたようで、最終的に有給でも取ってゆっくり休んだらどうだと提案してきた程だった。


「先輩が失敗なんて珍しい」

「んー今まで働きすぎてたみたいだから、ちょっと肩の力抜こうと思って。ふふ、それにいいこともあったし」


 席に戻った途端、驚いた桃川が声を掛けてきた。

 全員の心配そうな視線を感じながら、思わず笑ってしまう自分がいた。


 あの日以来あの夢を視ることはなくなった。そのおかげで仕事面での失敗は多くなったが、ちゃんとした睡眠がとれるようになり体調はすこぶるいい。


「溜まってた有給消化して彼氏と旅行でもいこうかなぁ」

「うわぁ、仕事人間だった先輩がおかしくなったぁ……」


 頭を抱える桃川の声を無視して、楽しく鼻歌を歌いながら仕事に戻る。

 元よりばりばり仕事をできる人間ではなかったし、誰だって小さなミスはするものだ。大丈夫これでいいのだ。焦ることなんて、ない。


 それでも、どうしてもアイデアが出ない時はあのお香の力を借りようじゃないか――。

 佐倉由乃は今日も元気に仕事に励むのだった。

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