第6話
◇
「――っ、私はどうすればいいんですか!」
目の前の靄を払うように叫びながら目を開けた。
すると、そこは元いた香屋“夢見堂”の狭い和室だった。
部屋中に充満していた煙は嘘のように消えているし、あれだけきつく匂っていた甘ったるい匂いも感じない。
全てが元通り。目の前にいる店主はにこにこと微笑んでいるし、衝立の奥には先ほどと変わらず女性の影が見えている。
確かに夢を、見ていたんだ。
不思議なことに。目の前にいるこの怪しい男と一緒に、由乃は確かに自分の夢を見ていた。
腕時計を確認してみると、あれから十分程しか経っていないが確かに由乃は夢の中でもう一人の自分の日常を見てきたのだ。
「私は、このまま過労死してしまうんですか」
「いいえ。香木に貴女の夢を吸わせましたから、貴女が夢香木を使わない限りこの夢を見ることはありません」
「香木?」
不安げに男を見つめると、彼は微笑みながら二人の間に置かれているお盆の上に乗った大きな木を指さした。
「夢は、
「は、はぁ……」
「基本的には果実のような甘い香りの夢なのですが……貴女はこの夢に蝕まれすぎて、甘さがきつく腐った香りになっていたんですよぉ」
すんすん、と男は鼻を鳴らしながらこちらに近づいてきた。
そして由乃の背後に回り込むと、首元で再びすんすんと鼻を鳴らし匂いを嗅いだ。
「ひゃあっ!」
「嗚呼……貴女の名前にぴったりの春の香りに変わりましたねぇ。もう大丈夫ですよぉ」
「いつかセクハラで捕まりますよ。店長こそそのお香を焚いて過労死一歩手前までいってしまえばいいのに」
由乃は驚いたように甲高い声を上げて、仰け反った。こんな至近距離で吐息が聞こえれば誰しも恥ずかしくて照れるのは当たり前だ。
そもそもいきなり匂いを嗅ぐなんて変人にも程がある。だが、当の本人には全く悪びれた素振りはない。
衝立から出てきた女性は呆れたように店主に毒を吐いた。首筋を抑えながら、顔を真っ赤にしている由乃の方に顔を向け“店長がすみません”と申し訳なさそうに頭を下げた。
「いやはや、本当に結さんはおっかないですねぇ」
言葉ではいうものの、男は怖がる素振り一つみせず間延びした声で呟いた。
そして道具を一式お盆の上に乗せると、立ち上がった。
「はてさて、とりあえずここから出ましょうか。あまりこの部屋に長居をしないほうがいい」
「あ、はい――っ!?」
いわれた通り部屋を出ようと立ち上がろうとした時、両足に電流が走った。
足に力が入らず、情けなくそのまま畳の上に転ぶ。慣れない正座をして由乃の足は痺れてしまったようだ。
この足の感覚が徐々に戻りびりびりと電流が流れるような感覚がなんとも痛く、耐えがたい。
「全く、これくらいの正座で痺れるなんて――情けないお方だぁ」
「いっっ!」
由乃は足の裏を抑え悲鳴を上げながら畳の上に転がった。
男が足の痺れに苦しむ由乃を見て楽しむように、軽く足の親指を踏んだのだ。びりびりと足全体に伝う電流に耐えられず、由乃は目に涙を浮かべた。
ああ、この男は自分が苦しんでいる姿を見て楽しんでいる。なんて加虐的で酷い性格だ。
男は由乃を助けるどころか可笑しそうに笑いながらそそくさと部屋から出て行って、狭い廊下を突き進んでいった。
いつか覚えてろよ、と由乃は憎しみ籠った目で男の背中を睨みつけた。
「ゆっくり、足を回してください。あの人のことは気にしなくていいので、ゆっくりでいいですからね」
「あ、ありがとうございます――った!」
「ご、ごめんなさい」
盲目の女は冷たい言葉を店主に吐き捨てながら、由乃を介抱しようと歩み寄ってきた。
彼女の探り探りに動く手が、不意に再び由乃の足に当たってしまい再び電流が走り呻き声を上げる。
女性は申し訳なさそうに謝りながら、由乃の足の痺れが落ち着くのを待ち共に部屋を後にした。
やっとの思いで細い廊下を辿り、店舗に戻ると男はやっと戻って来たのかとでもいいたげな表情を浮かべながら由乃に小さな箱を差し出した。
「今日はこれを焚いて寝てください。きっと夢を見ずにぐっすり眠られますよ」
「――なんだかお薬みたいですね」
「似たようなものです」
渡されたのは、スティック状のお香だった。
診察を受けた後に処方される薬のようで、本当に病院にでも来た気分だ。
「で、こちらは貴女の夢香です。もしお仕事で悩むことがあれば使うといいでしょう。しかし、使い過ぎは禁物です」
もう一つ手の平に木の破片のようなものを乗せられた。
恐らく先ほどお盆に乗っていた“夢香木”という大きな木を小さく削り取ったものだろう。
診察してくれた上にお香まで貰えて意外と親切なお店なのかもしれない、と由乃は感心したように目を瞬かせた。
「――ではお代ですが」
にこりと微笑んで、店主はそろばんを弾きはじめた。かたかたと木の球がぶつかり合う音がする。
今時電卓ではなく、そろばんを使って計算をする人がいるなんて不思議な感じだがこの男にはそろばんが妙に似合っていた。
「こちらになります」
「え、えっと……」
弾き終わったようで、男はにこにこと微笑みながらそろばんを由乃に見せた。
しかしそろばんなんてろくに触れたことのない由乃にはそこに表示されている値段が全く分からない。
困ったように首を傾げると、店主は呆れたように小さく舌打ちをして値段を紙に書いた。
それの紙を受け取った由乃は眼玉をひん剥いた。
「たっか!」
「まあ慈善事業ではないので。お金は取りますよぉ……しかし貴女の夢は割と高値で売れるので、この値段に値下げました。命を救ってこの値段で済むのだから感謝してほしいものですねぇ」
まるで保険証を忘れて病院に行ったときのような値段だった。
寧ろ病院ならどんな診察を受けたかによってある程度の値段の予測はできるし反論もできるのだが――夢の診察なんてこちらに情報はないし、反論する術がない。
暴利だと嘆こうと、命を救って貰ったのは事実だろう。給料日前の出費にしては手痛いものだが、仕方があるまいと由乃は泣く泣く財布からお金を出した。
「あの占い師と同じ手口だぁ……」
「占い師?」
お金を受け取った店主が眉をぴくりと動かした。
「ここを紹介してくれた、商店街にいる占い師さんです。店長さんも今度占って貰ったらどうですか? 結構当たりますよ」
「――結構です。俺は占いなんて信じません」
ほんの世間話のつもりだったのだが、男は興味がなさそうに冷たく返した。
本当にこの男はつかみどころがないな、と今度は由乃が呆れたように肩を竦め苦労人であろう盲目の店員にそっと耳打ちする。
「お姉さんも大変ですねぇ……」
「ええ、本当に。店長がどうやったら働くようになるか占ってもらいたいですよ」
同意するように女性は頷いた。
店主への不満を隠すことなく、嫌味でもいうように話すのだから色んな意味でこの二人は仲が良いのかもしれない。
ただ、彼女が幾ら毒を吐こうと肝心の店長が一向に気にしている気配がないので、本当に聞いていないだけなのかもしれない。
「ありがとうございました。今度は普通にお香を買いに来ますね」
「はい。お大事にどうぞ……それではいい夢を」
店主たちに綺麗なお辞儀をされて由乃は店を後にした。
心なしか身体が軽くなったような気がする。
時刻は丁度午後三時を回ったところ。気になっていたカフェでも寄ってみようかな、と由乃は残りの休日を満喫したのであった。
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