第5話



 視界が暗闇に包まれたと思ったが、それは自分が目を閉じていただけなのだと理解した。

 ゆっくりと目を開け、由乃は驚き固まった。そこは今までいた四畳半の薄暗い和室ではなかったのだ。


 見慣れた部屋。落ち着く家具の配置。お気に入りのぬいぐるみ――そうだ、ここは自分の部屋ではないか。

 いつの間に自分は家に帰ってきていたのだろう。ひょっとしたら今までのことが夢だったのではないか。しかし眠っていたのなら自分はベッドに眠っている筈だ。

 嗚呼、いや。確かに自分は夢をみていたのだろう。なんだ。よかったちゃんと自分はベッドで眠っているじゃないか――いや、待て。おかしいぞ。


 自分は今ここでこの部屋に立っている。しかしなんとおかしなことに、自分がもう一人。ベッドの中で気持ちよさそうに眠っているではないか。

 ひょっとしたらよく似た部屋で人違いかもしれない。そっと眠っている人物の顔を確認した――が、やはりどこをどう見ても眠っているのは“佐倉由乃”自分自身であった。


「ほお、これが貴女の夢ですか」

「うわぁ!」


 混乱している所に突如背後から声が聞こえて、由乃は悲鳴を上げた。

 後ろを向けば着物姿のあの男が気味悪い笑顔を浮かべて立っていた。


「なんであなたが私の部屋に! というか私がなんでベッドで寝ているの」

「なんでって……これが貴女の夢だから、としかいえませんねぇ」


 この男がいたって平然と、当たり前のようにいうものだから自分が気が狂っているのだと思ってしまう。

 しかし今この場に自分が二人いるなんて状況が当たり前のはずがなく。非現実の事に由乃は全く状況ができないでいた。


「まって、ちゃんと一から説明してください――本当についていけないです」


 そう、この男は日常的にこのような仕事をしているのだろう。彼にとってはこれが“普通”だから平気でいられるのだ。

 しかし由乃はこの三十年近く生きてきた人生の中でこのような経験は初めての事である。説明を受ける義務と権利があるはずだ。

 説明を要求された男は一瞬酷く面倒くさそうな表情を浮かべ、笑顔に戻った。この男――相当意地悪な面倒臭がり屋だろう。


「……まず、俺は貴女に死相が見えるといいましたね。貴女から酷い臭いがするとも」

「はい。凄く傷つきました」

「その原因は貴女が日常的に視ている夢にあるんです」


 由乃の非難を男は一切合切無視して説明を続けた。


「貴女が死にかけている原因を解決するために、俺達は貴女の夢を診ているんです。そして今ここは貴女が視ている夢の中だ」

「ええと……」

「――嗚呼、もう面倒臭い。医者に病を診せているとでもおもってください。こうしている間にも夢は進みます、説明はまた後程」


 飲み込めない状況を由乃は必死に頭を回転させて理解しようとしたのだが、中々飲み込みが悪い彼女に痺れを切らした男は説明を放棄してしまった。


 簡潔に説明すると、由乃が眠る度疲れているのは自分が寝ている間にみている夢が原因――らしい。

 そこでこの店主はその原因を突き止めるため、今二人は由乃がみている夢の中にいる――ようだ。


「ちょっと待って下さい。あの女の人はいないんですか」


 そうだ、あの部屋には盲目の女性もいたはずだ。

 それならば彼女もこの場にいるのではないだろうか。


「彼女はここには来ませんが、同じ夢を観ているのでご安心を」

「そ、そうなんですか」


 店主のいっていることを理解はできないが、追及すると面倒なため、納得するしかないだろう。


「――さて、貴女が起きますよ」


 男がそういった途端、目覚ましが鳴った。

 そうしてベッドからのそりと起き上がったのは、やはり佐倉由乃本人だった。


「えっと、私たちここにいて大丈夫なんですか」

「大丈夫ですよ。俺たちは夢を見ているだけなので、この夢の中の貴女に姿を見られることはありません」


 男のいう通り、起き上がった夢の中の“由乃”は二人に気づくことなくその真横を通り過ぎた。

 “由乃”は洗面所に向かい、顔を洗う。歯磨きをして、朝ご飯にはトーストを一枚。何も変わらず、いつもと同じルーティーン化された行動を行っていた。

 朝食を食べ終えれば、化粧をし着替えをはじめ――。


「わーーっ、見ないで! 見ないでください!」

「……おや」


 夢の中の自分自身が着替えている――そんな姿男には見られたくない。由乃は慌てて声を上げて男の目を隠した。


「ご安心を。誰も貴女の乏しい肉体に欲情なんてしませんから」

「ほんっとに一々失礼な人ですね!」


 呆れたようにため息をつきながら、男は由乃の手を振り払い大人しく後ろを向いた。

 言葉通りその瞳はまるで興味がなさそうに遠くを見つめている。着替えを見られなくてよかったとは思っているが、そこまで全否定されると寧ろ腹立たしいものだ。

 耳元で非難を浴びせる由乃の言葉を遮るように、男は酷く煩わし気に耳を塞いだ。


 そうしてスーツに着替えた“由乃”が向かうのは会社だった。

 満員電車に揺られている日常と変わらない光景。

 人に押しつぶされる圧力だけでなく、汗の匂いや中年男性の加齢臭、きつい香水の匂いなど様々な匂いが混ざって苦しいはずなのに、不思議なことに何も感じない。

 それだけでなくすべての人物が二人の存在に気づいていないようだった。

 おまけに“由乃”以外の人物の顔は認識できるはずなのに、顔のパーツがはっきりとわからない。これも夢だからなのだろうか。


「全く、なんで現代の人たちは自ら望んで奴隷船のようなものに乗り移動するのでしょう……俺には全く理解できない」


 扉に凭れかかりながら店主は忌々しそうに呟き、外の景色を眺めていた。

 誰しも自ら望んで満員電車に揺られている人はいないだろうし、できることなら乗りたくない。しかし生きるためには労働しなければならないのが今の世の摂理。

 過酷な労働環境で、生きるために働いているのか、働くために生きているかも分からなくなっている人も多い。

 この男の発言は満員電車に乗り合わせた全ての乗客を敵に回している。そして従業員の彼女がいかに苦労しているのかがひしひしと伝わってきた。


「どうしてあなたはそうやって人を逆なでする発言ばかり――」

「おや、次の駅で降りるみたいですよぉ」


 由乃の怒りなど全く気付いていないというよりは、真に受けていないようだった。

 男は電車を降りた“由乃”の後を追いかける。

 沢山のオフィスが立ち並ぶこの駅はいつも沢山の人が降り、油断すると人並みに流されてしまうのだが今日はそんなことはなかった。

 まるで自分たちの周りに見えない壁が出来ているように、モーゼが海を割ったが如く自分たちが歩く道だけ綺麗に人が捌けて真っ直ぐに“由乃”へと続いている。

 異常な光景を、周りは異常とも思わず“由乃”もこんな素人の見え透いた尾行に気づきもしない。


「……俺達は夢を見ているから隠れなくても平気だと何度いえば分かるんですか。馬鹿ですか、貴女は」

「……どうせ、馬鹿ですよ。ええ、馬鹿ですとも。馬鹿ですみませんね、バカで」


 平気だと分かっていても、尾行をしていたら隠れたくなるのが人の性ではないのだろうか。

 長身の男の陰に隠れるように歩いていると、頭上から冷ややかな視線と手加減のない暴言が降ってきた。

 剥き出しの刃のような暴言に、今更怒ることも疲れてしまった。この男はこういう人間なのだろう、と由乃は割り切ることにした。

 一応これでも自分は客なのに、なんて無遠慮な店主なのだ。少し顔が良いからってあんまりだ。彼は絶対女性にモテないタイプだと由乃は思った。


 そうしている間に“由乃”は会社に辿り着いた。間違いない、ここはいつも由乃が働いている会社である。

 いつものようにエレベーターのボタン側に立ち、乗り合わせた同僚や上司達と挨拶を交わす。

 そしてオフィスにつくと、所長の津山らしき人物と挨拶を交わし、自分のデスクの向かいにいる桃川らしき人物と挨拶を交わし始業時間までのんびりとコーヒーを飲む。

 “らしき人物”とは“らしき人物”である。確かにそこに所長津山と、後輩桃川がいるのだがその顔がはっきり本人とは認識できないのだ。


「――これは」

「はぁ……夢の中でも働いているんですねぇ。そりゃあ疲れますわぁ」


 呆れたように男は肩を竦めた。他でもない由乃自身がこの光景に一番驚いた。

 目の前の“佐倉由乃”は由乃が過ごしている日常と寸分違わない行動を送っていたのだ。

 桃川との雑談、取引先との打ち合わせ、企画会議――ああ、自分がいつもやっている仕事と全く同じではないか。


「これ、私夢の中でも働いてるってことです……よね」

「だからいってるじゃないですか。そりゃ疲れるはずだぁ」


 引き攣ったように笑いながら、由乃は働いている自分自身を指した。

 男は相変わらず呆れたように空いているデスクの椅子に座りゆらゆらと椅子を揺らしながら完全に寛いでいた。


 驚くべきことに、夢はあっという間に時間は流れふと“由乃”から目を離した隙に終業時間へと変わっていた。

 仕事を終えたらしい“由乃”はパソコンの電源を落とし、会社を後にし再び満員電車に揺られて自宅に帰宅する。

 通勤時と同じように電車に揺られながら、信じられないように由乃は自分自身を見つめていた。


「あ、あの……これって夢ですよね。夢なら働いてても関係ないですよね」

「見てる夢ならね。でもこの場合の夢は貴女が実際に体験している夢――視た夢では現実でも疲労感がありますよ」

「……み、みる?」


 夢を“みる”のは自然のことで。それになにか違いがあるのだろうか。

 全く理解できずに首を傾げる由乃に、店主は信じられないと呆れたようにため息をついた。彼に呆れられたのは今日で何度目になるだろう。


「お聞きしますが……ええと佐倉さんでしたっけ。貴女、仕事できる人でしょう」

「え、えっ!? で、できるかはわかりませんが……その……」

「ご謙遜なさらずに。できる人だとお見受けします」


 人を貶したと思ったら、突然褒めるものだから、この男何を考えているのか全く理解できない。

 できない方ではないと自負しているが、ここではっきり“私はできる女です”と胸を張っていいものなのだろうか。


「……元々の素質もあるのでしょうが、この場合この夢の影響ですねぇ」

「ど、どういうことですか」

「はぁ……だから、ここまで働き詰めで仕事が成功しないわけがない、といっているんですよ」


 つまりはこれまでの企画が成功したのも、津山に認められ次の企画を任されたことも、全てこの夢をみていたお陰ということか。

 この夢を視ると仕事が成功するのか。なんだいい夢じゃないか。

 

「――まあ、この夢の不利益は中々のものだと思いますけどね」

「不利益?」


 再び目を離した隙に、場面は電車の中から“由乃”の自宅へと変わっていた。

 そして“由乃”はいつの間にか寝間着に着替えており、酷く疲れた様子で大きな欠伸を一つ零しベッドに横になった。

 暫くするとどこからか聞きなれた目覚まし時計の音が聞こえてくる――まさか。この夢の終わりというのは、まさか。


「夢での貴女の眠りは、現実での貴女の目覚め――つまり体も頭も一睡もしてないってことですねぇ」


 淡々とした様子で、さも面白そうに店主は微笑みながら告げた。

 夢の終わりが近いからだろうか徐々目の前が白い煙に包まれ始める。夢に入る時と同じような感覚だ。


「だから目が覚めたら疲れてるってことですか」

「何故そんなに働きたいか俺には理解できませんが、過労死一歩手前ってところですねぇ」


 目の前が白い靄に包まれていく。そして再び香る桃のような果実が熟れすぎて腐りかけたような甘ったるい香り。

 何故目の前の男はこんな悠長に楽しそうにしているのか。過労死を防ぐためにはどうすればいいのか――男に向けて伸ばした手は煙を割いてどこにも届くことはなかった。

 そして自分の身体も煙となって漂うようななんとも気味が悪い感覚がして、視界一面が真っ白な煙と甘ったるい香りに包まれていった。

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