第4話
――翌日、目覚めはやはり最悪だった。久々に昼前までゆっくり寝たというのに何日も徹夜しているように体が気怠く頭が重い。
自分は寝れば寝る程疲れる体質なのだろうか。このままでは睡眠による謎の疲労で過労死してしまうのも時間の問題のような気がした。
枕元をみると昨夜占い師からもらったメモ帳が見えた――完全にあの人物の事を信用したわけではないが、今回だけは大人しく忠告に従ってみようじゃないか。
そうして由乃は占い師に紹介された夢見堂にやってきて、呆然と立ち尽くしていた。
あたりの建物とは明らかに浮いている貫禄たっぷりな歴史情緒溢れる古い建物。軒先には古い大きな一枚板の看板が掲げられてあり〝夢見堂〟と店名が彫られている。
閉じられている入口の扉には“営業中”と彫られた木製のプレートがかけられていた。
外に立つだけで感じる不思議な怪しい空気に中々入る勇気が沸かない。しかし、背に腹は変えられない。意を決して扉に手をかけた。
「あ、あれ……開かない…」
――が、開かない。何度も引っ張るが鍵でもかけられているかのようにびくともしない。
もしかして開け方が違うのだろうかと扉を見つめるが、どうみてもこれは引き戸以外のなにものでもなさそうだ。
「――ッ、くぅ」
全身の力を込めて扉を引っ張る。余程立て付けが悪いのだろう、両手を使って全力で引っ張ってもギギギ、と鈍い音を上げながら数ミリしか開かない。
ここまで開かない扉だと、意地でも開けたくなるものだ。だが全体重をかけてもびくともしない。まるで中から誰かに押さえつけられているかのような重さである。
店舗の入り口としてこの建付けの悪さはいかがなものだろうか。
「蹴ってください」
赤くなった手を振って一旦疲れを取り、再び扉に手をかけたとき中から女性の可愛らしい声が聞こえた。
「思い切り、蹴ってください」
可愛らしい声とは裏腹に聞こえてきた言葉はかなり衝撃的だった。
ふと営業中と書かれた看板の下を見てみれば“建付けが非常に悪いです、思い切り蹴って開けてください”との注意書きが張られている。
そうはいえども初めて来る店の扉を思い切り蹴れといわれ、指示に従って素直に蹴る人間がはたして何人いるだろうか。
どうしたものかと迷っていると中からなんの躊躇もなく思い切り扉が蹴られた。一瞬戸惑っている由乃が腹立たしくて扉を蹴り上げたのかと思って、由乃は肩を揺らして身を引いた。
扉の向こうに立つ女性はまるで日頃のストレスを発散するかのように執拗以上に扉を蹴り上げる。蹴られる度に扉は軋み、このまま壊れるのではないかと不安になってしまう。
しばらくするとギギギと嫌な音を立てながら扉がゆっくりと開かれた。扉の隙間からに店の中からふわりと甘い香りが漂ってきた。
「ごめんなさい、建て付け悪くて蹴らないと開かないんです」
「あ、あ……ありがとうございます」
中から出てきたのは由乃と年がそう変わらない女性だった。
緩いパーマがかかった明るい髪色に清楚な服装をしている、店構えとは全く合わない今時の女性だ。
彼女は由乃に微笑みかけるが、その目は固く閉じられており由乃と視線を交えることはない。おそらく目が不自由なのだろう。
「古い店ですが、どうぞ入ってください」
彼女は由乃を手招きしながら店の奥にあるレジ台に戻っていこうとした。
途中で商品が置いてある机の角に身体をぶつけ、よろめいた。かなり痛そうな鈍い音が聞こえ、その衝撃を物語るように机に詰まれた小箱がずれた。
「――ッ!」
腰あたりを強打した女性は痛みで声を漏らす。あの音だ、かなり痛いに違いない。
慌てて由乃は腰を抑えて呻く女性の元に駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか?」
「あ、すみません……しょっちゅうぶつけてるので大丈夫です……商品は無事ですか」
「商品は大丈夫……みたいですよ。少しずれちゃったくらいで」
「……商品が無事ならよかったです」
彼女は振り返り困ったように苦笑を零した。ちらりと彼女の足や腕を見るとどこかにぶつけたような痣が沢山のこっていた。
片方の手でぶつけた箇所を摩りながら、もう片方の手で手探りでずれた箱の位置を元に戻そうとしていた。
しかしその手つきは由乃が見ていて心配になってしまう程おぼつかず、世話焼きの由乃が手を貸すと彼女は謝りながらもどこか嬉しそうに笑みを零した。
「何かお香をお探しですか?」
「ここはお香屋さんなんですか?」
「はい。古くからあるみたいですよ」
あたりを見回せば棚には沢山のお香が並んでいた。店に入ったときから漂っている良い香りはこのお香達だったのか。あの占い師はお香を焚いて睡眠をとれといいたかったのだろうか。
「あの、近くの商店街にいた占い師さんにこの店を紹介されたんですけど……」
「占い師?」
「はい。いきなり死相が見えるっていわれて、夢見が悪いとか死相が見えるとかどうとかでこの店に行くようにいわれて――」
初対面の客に唐突にこんな話をしたら普通の店員は唖然とするだろう。
目の前の彼女も由乃の唐突な話に一瞬口を開けてぽかんとした表情を浮かべたものの、ほんの数秒でなにか思い当たることがあるようで、ああ、と手を叩いた。
「それならば店長の出番ですね。少々お待ち下さい」
店員は由乃の発言を訝しがることなく、素直に受け取った。
そうして店の奥にある手すりもなくはしごのように急な階段を手探りで登っていく。目が不自由な彼女が脚を滑らせて落ちないか少し心配になってしまう。
心配そうに見守るが、どうやら無事に登りきれたようでミシミシと天井から彼女の足音が聞こえた。
平均よりも小柄な彼女が歩く度天井がミシミシと音を立てるのだ、そのうち建物の老朽化で二階部分の床が抜けないか心底不安でたまらない。
「店長……いつまで寝てるんですか。起きてください! お客さんですよ」
「……人がせっかく気持ちよく寝ていたのに。いやはや全く人使いが荒い」
「昼間から寝てるから悪いんです。働いてください!」
「老いぼれをこき使わないでくださいよぉ……せっかくいい夢みてたのに」
「まだ若いでしょう! ほら、お客さんがお待ちです! 早く起きてください」
かなり古い建物だから防音もないのだろう。上の会話が筒抜けの事に店員たちは気づいているのであろうか。
従業員らしい彼女と、店長らしい男はとても仲が悪そうだ。口喧嘩をしながらも、声は徐々に移動してこちらに近づいてくるのが分かった。
みしっ、と足音がもう一つ増えた。女性の店員よりも大きく軋む音が聞こえる。声音からして店長は男性であるに違いない。
「はいはい仕方ないですね。階段気をつけてくださいよぉ」
「いわれなくても大丈夫です」
「おやおや、そんなこといってこの間も落ちたでしょう。女性があまり身体に痣作るものではありませんよぉ」
「足が滑っただけです。それにここの階段急すぎるんですよ」
「そうですか? 俺は昔からなので、全然普通なんですけどね」
二人の声は段々と近づいてくる。上から降りてきた人物を見て一瞬固まった。〝時代錯誤〟という言葉がまさにふさわしい男だった。
時代劇に出てくるかのような着流し姿。開きすぎた胸元は目のやり場に非常に困った。階段を降りてくる女性と話をしながらはだけた着物を直す姿は手馴れている。
服装は整えたが、本当に今まで寝ていたようで、長い黒髪に客前に出るには酷い寝癖がついていた。
このだらしなさと気だるい雰囲気はいうまでもなくこの店の店主で間違いないだろう。
先に階段を下りてきた男は、後に続いて下りてきている女性がいつ落ちても対処できるように彼女が最後の一段を下りるまで視線を離すことはなかった。
和服姿の店長と、今時の女性店員が並ぶとあまりにも時代がつぎはぎすぎた。
いや、寧ろこの古い建物に和服姿の男が似合い過ぎて、洋服を着ている自分たちが時代錯誤なのではないかと一瞬だけ混乱してしまう。
「おやぁ、お嬢さん……」
女性が階段を無事に降りたのを確認したところでようやく男の視線が由乃に向いた。
切れ長の細い瞳がゆったりとした動きでこちらを見る。よく見ると中々の美形であり、思わずどきりと一瞬だけ由乃の胸が高鳴った。
由乃と目が合ってすぐに、男の細い目が僅かに見開かれた。
「――死相がでてらっしゃる」
ゆるやかな口調で、大した驚いた様子もなく、世間話をするように至って平然に、男は由乃の死を予期する言葉を放った。
「おまけに酷く臭う」
僅かに眉を潜めながら鼻先を袖で覆った。これでも一応この店の客である自分になんて失礼な事をいう人だ。
一瞬でも彼の視線に胸を高鳴らせた由乃が間違っていたようだ。すうっと熱が冷めていくのがわかる。店主の発言に隣に立つ女性が大きなため息をつくのが分かった。
どうやらこういう言葉を吐くのは一度や二度ではないらしい。 第一由乃と男の距離は一メートル以上離れている。そこまで臭っているのだとしたらさすがに自分でも気づくはずだ。
「一応毎日お風呂に入ってるんですけど……」
「いや、身体の臭いではなく。貴女自身の臭いです」
むっとした表情を浮かべた由乃に対し男は全く悪びれる様子なく即答した。失礼なことをいっているつもりも、またその自覚すらもないのだろう。
彼のいっている言葉の意味がますます理解できず、由乃は不愉快に眉を顰めた。
「……ちなみにどんな匂いがするんですか」
「朽ちた臭い。酷く甘ったるい。熟れすぎた果実が朽ちて蝿が集っているような――まあ、つまりは腐敗臭ですねぇ」
「――は、はぁ」
「ですから、貴女自身のことをいっているんですよ。よくもまあこんな臭いになるまで放っておけましたね……鈍感なのもいいところですよ」
店主は鼻先を袖口で覆ったまま目を細めた。ずけずけと人を臭いだの罵った挙句に、この男は呆れたように大きなため息をついた。
尋ねたのは由乃であるが、初対面の人物。しかも客にここまでの物言いをできる者も中々いないだろう。
「このままだと数日以内に死にますよ」
「――――なっ」
この店主は人を怖がらせる気は全くないようだ。
心配することなく、唯平然と本に書かれた文字を読むがごとく“死”という人間が最も恐れる言葉を言い放った。
寧ろその平然な物言いが由乃の恐怖を駆り立てた。
「本来ならば“ユメミ”は数日かけて行うのですが、その時間もないですね――申し訳ありませんが、結さんお手伝いおねがいします」
「……はい」
店主は酷く面倒くさそうに大きなあくびをしながら頭を掻いた。人の生死が関わっているというのになんとも緊張感のない男である。
手伝いを頼まれた女性も、何故か酷く嫌そうに眉を顰めながら本当に仕方なさそうにか細い返事をした。
「お嬢さん、お名前は?」
「佐倉です。佐倉、由乃」
「――春ような綺麗な名前ですねぇ。それでは、どうぞこちらに」
散々人に失礼なことをいった男とは思えないほど、店主は由乃の名前を綺麗だと褒めた。
この男がなにを考えているかさっぱり理解できず、促されるがままに由乃は店主の後に続き店の中にある暖簾をくぐった。
暖簾の奥は小さな廊下が続いていた。土間で一旦靴を脱ぎ、人一人通れる程の薄暗い廊下を歩いていく。由乃の前には店主、後ろには盲目の店員が続いている。
窓一つない廊下は暗く、天井に後でとってつけたかのような不釣り合いな小さな電灯が唯一の明かりだった。手で壁をつたい歩いていくが、時折取っ手のような固い物が手を掠めていく。
よく目を凝らすと、触っていた場所は壁ではなかった。壁一面が薬棚のような小さな引き出しが並んでいたのだ。きっとこの中に沢山のお香が保管されているのだろう。
廊下は商品が並んでいる店内程ではないが、微かにお香の香りが漂っている。
どんな匂いかといわれれば、様々な匂いが混ざっているため上手く表現しづらい。しかしこれだけの匂いが混ざっているというのに不思議と嫌な匂いではなかった。
「わっ」
「嗚呼……すみません。ちょっと必要なものをとっていました」
薬棚に夢中になって歩いていると突然大きな背中にごつんとぶつかった。どうやら店主が立ち止まっていたようで、大量の引き出しの中の一つを開け何かを取り出していた。
この薄暗闇の中で必要なものを迷わず見つけている。つまりは店主はこの膨大な数の引き出しの中に何が入っているかを全て熟知しているのだろう。
「どうぞ、こちらです」
廊下の一番奥には襖があった。そこを開けると暗闇が広がっていた。薄暗い廊下とは違う、何も見えない本当の闇。
目の前を歩いていた店主は何の迷いもなくその闇の中に入っていった。恐怖心からか由乃が一歩を踏み出せずにいると、ぼうっと暗闇の中に明かりが灯った。
店主が室内に置かれていた行燈に明かりを灯したのだ。明かりがついて恐怖心が少し和らぎ、由乃はその部屋の中に恐る恐る足を踏み入れた。
暗室独特のひんやりとした冷気と、湿ったような畳の香りがする。正直いってあまり居心地が良い部屋とはいえなかった。
「――ここは」
「ユメミを行う部屋です。まあ、適当に座ってください」
四畳半ほどの大きさの小さな和室だった。儀式でも行うかのように明かりが灯された行燈は部屋の四隅に置かれている。
部屋の正面には壁一面もありそうな大きな大きな障子が締め切られた丸窓があった。これほどまでに大きな丸窓だというのに外の光は一切入ってきていなかった。
障子が閉められているとはいえ今は昼間である、僅かな明りくらいは見えるはずであろうにこの部屋には行燈以外の明かりは一切ない。
あの障子を開けても外の景色はきっと見られないのだろう。それならば何故こんなところに障子の窓を作る必要があったのだろうか。理解不能を通り越したなんとも薄気味悪い部屋であった。
小さな部屋には衝立が一つ置かれており、店主の声はそこから聞こえた。何かを陶器を扱う音が聞こえ、おそらく何かの準備をしているのだろう。
どこか非現実的な空間で、今が昼なのか夜なのか時間間隔が曖昧になっていく。どこか落ち着きなく、由乃は部屋の隅っこに小さく正座をした。
「結さんはどうぞこちらに。ああ、佐倉さん。そんな隅に隠れず中央に来てください」
店主が衝立から出てくるのと入れ替わりに、女性が衝立の奥に座る。障子が張られている衝立には彼女のシルエットが怪しく浮かび上がった。
男は何か筒状のものと大きな木を乗せた盆をもって部屋の中心に座り、隅で畏まっている由乃に声を掛けた。店主に言われるがままに由乃は男と向き合う形で座った。
「あの、今から何がはじまるんですか」
「何って、貴女の夢を診るんですよ」
「夢……?」
「貴女のその臭いは夢が原因です。それを今から調べます」
男は蝋燭に小さな炭を近づけて、炭を温めた。
盆の上に載っているの筒状の陶器は香炉だろう。香を焚くことと夢をみることが何の関係があるのだろうか。
「夢をみるってことは……今から寝るんですか?」
「夢を診るのですから当たり前です。俺も結さんも眠ります。お客さんが来ないことを祈るばかりですよ」
というものの、男も女性も座ったままである。
座ったまま眠るということだろうか――そもそも眠気などないし、こんな見ず知らずの怪しい人物とこのような部屋で眠れる気がしなかった。
「――あの、全く眠くないですけど」
「大丈夫ですよ。香を焚けば嫌でも眠ります」
温めた炭を香炉の灰の上にのせる。そうしてその上に小さな木の欠片を乗せた。
アロマなどはたまに使用するが、本格的に焚いたお香など由乃は初めての経験だった。そうして男は香炉の蓋を閉じるが待てど暮らせど何の匂いも漂ってこない。
「あの……匂いしませんね、煙も立たないし」
「まあ、まだなんの変哲も無い木ですからねぇ。匂いはしませんよ」
「――は?」
自分の鼻がおかしいのかと思ったらそうではなかったようだ。
では何故香なんか焚いているのだろうか、と聞き返そうと男の顔を見た時だった。
いつの間にか部屋が煙のような白い靄に包まれていた。その靄の中で、店主は怪しく笑っていた。
何が起きたかわからず部屋中を見渡す。いつの間にか視界は真っ白になって、先ほどまで目の前にあった衝立すらも見えない。見えるのは目の前にいる男の姿だけ。
そうして呼吸をしたとき、果実のような甘ったるい匂いが鼻を突いた。
「――貴女の夢、みさせて頂きます」
男の声が頭の中で響いているかのように聞こえた。
不快を感じるほどの甘ったるい匂いの中。由乃の意識は白い靄の中に吸い込まれるような感覚で、ふっと途絶え目の前が真っ暗になった。
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