第58話
◇
夢魔が叫んだ瞬間、目の前が闇に包まれて嵐の中にいるかのような強風に襲われた。
足に力を入れていないと立っていられない。
両腕で顔を覆いながら必死に抗う。
獏の為にこの身を売ると誓った物の、心の奥底ではまだ助かりたいと生に縋る気持ちがあった。
まだ死ねない。死ぬにしても最後に獏に会いたい。その心が結の原動力となっていた。
どれほどの時間耐えていただろう。
気が遠くなるほどの時を耐えつづけ――ふと風が止んだ。
「――――」
目を開けると、目の前には暗闇が広がっていた。
音も、風も、匂いもない。
自身の身体が見えるだけで他には何もない。自分の目が本当に見えているのかも怪しいくらいだ。
ここが夢世の中心、夢すら届かない真の眠りの世界だろう。本当に、自分は夢世の中に閉じ込められてしまったようだ。
「……獏、さん」
先ほどまで目の前に立っていた男の姿が見えない。勿論リンの姿もない。
孤独であることを認識して、全身の血の気がさっと引いた。
ここで自分は誰にも知られずに一人で消えていくのだと恐怖と不安と孤独を感じて、膝を抱えて蹲った。
目を閉じても夢は見られない。
目を閉じても、開いても、夢が見られない。いや、夢を見られない夢を見ているのかもしれない。
結はたった一人で一秒とも、一時間ともいえない短いようで長い、長いようで短い時間を過ごした。
「夢が、見られない」
ずっと自分が望んだことだった。
夢を見たくない。夢なんて見たくない。ずっとずっと思い続けてきたことだ。
その願いが叶ったのだ。嬉しい筈だったのに。
しかし夢を見られないことがこんなにも空虚で、虚しく、寂しいものだとは思わなかった。
眠っても夢を見られない。獏はどれだけの時間、この虚しさに耐えてきたのだろう。
眠るように膝を抱えたまま横に倒れた。
このまま夢も見られずにずっとここで孤独に過ごすのであれば、いっその事夢世に溶けてしまいたいと。
自身の爪先が闇に溶け込んでいくように見えて、このまま消えてなくなるのもいいな、と思った。
「――結、さん」
ふわりと声が聞こえた。
顔を上げると、優しそうな表情を浮かべた獏――もう一人の獏が立っていた。
結の瞳はもはや虚ろで、闇は顔の部分まで浸食していて体を動かすこともできなかった。
「嗚呼。こんなに夢世に浸食されて――今迎えが来ますからね」
「――ばく、さん。私は、貴方の顔を、夢の中でしか、みていません」
できることなら現世で、自分自身の目ではっきりと見たい。
夢の中で見た獏の顔はあまりにもぼんやりとして曖昧で、思い出せないから。
その言葉に獏は笑って、結を抱きしめた。
「――結さん。今まで現世で俺を支えてくれて有難う……貴方はとてもいい匂いだ」
にこりと微笑んで、もう一人の獏は消えた。真っ暗だった周りの世界が光に包まれる。闇に覆われかけていた結の身体も解放された。
その瞬間無理矢理意識が引き戻されるかのように、世界が逆流していく。
「……結、獏、今までごめんね。気が向いたらまた、こちらに遊びに来て」
夢魔の寂し気で優しい声が聞こえた。
素直ではない夢魔は本気で結を夢世に閉じ込めるつもりはなかったのだ。
二人が無事に会えたら、獏を元の身体に戻して二人を共に現世に戻すつもりだった――これまでのことは寂しさを紛らわすためのほんの遊び。
夢世を自在に移動する彼女が敢えて姿を現さないのは、照れ臭いからだろう。
「結。私からもいうけれど、ご両親のことは貴女のせいではないわ……これからは貴女が少しでも幸せな夢を見られるように、力を貸すわ」
その言葉と同時に暖かい風の中が吹いて頭上から桜の花弁が落ちてきた。
「リン、さん……」
「これ以上、ここにいたら本当に戻れなくなる。無理やり戻すわよ。全く霞も私がいないとほんとに駄目なんだから――」
その瞬間目が開けられない程の桜吹雪が襲い掛かり、結は両腕で顔を覆った。
その時、ふわりとどこか懐かしい香りが漂ってきたような気がした。
「結さん!」
「……獏さん!」
獏の声が聞こえて、条件反射の様に結は真っ直ぐと手を伸ばした。
今度こそ離れることなく、二人の手はしっかりと繋がれた。そして獏が彼女の身体を引き寄せる。
彼の身体にしっかりと抱き留められた瞬間、意識が現世に押し戻されるような感覚を覚えた。
胸いっぱいに広がっているこの香りを結は良く知っていた。
初めて獏と会った時に漂っていた香り。その香りは、お互いが握っている匂い袋から漂っていた。
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