第57話
◇
「結さん!」
暗闇の中をもがき久々に辿り着いた夢の中。
夢魔と結の姿を見つけた瞬間、結が闇に飲まれその姿が消えかけていた。
懸命に手を伸ばしたが、あと僅かで指先に触れるという距離で彼女は完全に闇に飲まれその姿は跡形もなく消えてしまった。
伸ばした手はなにも掴むことなく空中を彷徨った。
「うふふ、お久しぶりね……霞。獏って呼んだ方が良いかしら?」
呆然と手を見つめていると、背後から悪戯な笑い声が聞こえた。
ゆっくりと後ろを振り向くと楽し気に肩を揺らしながら妖美に微笑んでいる夢魔――リンが立っていた。
初めて会ったあの日のように、獏とリンはたった二人夢世の世界で向き合っていた。
「――リン」
憎しみが籠ったように、獏は目の前で不敵に微笑んでいる夢魔を睨みつけた。
彼の冷たい眼差しを受けた彼女は一瞬たじろいだが、笑みを崩すことなくゆっくりと獏に歩み寄った。
「結さんをどうしたのですか」
「あの子の願いを叶えてあげたのよ」
リンは愛おしそうに獏の髪を一房とって口づけた。
その言葉を聞いた獏は更に眼光鋭く目を細め、リンを睨みつけた。
「夢を見られなくしたのですか」
「私が貴方から奪った物を戻す代わりに結はずっとこちらで過ごすの。本人が望んでいたのだからいいじゃない。夢を見たくなければ、覚めない夢の中に捕らわれるしかないわ」
「――ばかな、ことを」
衝撃の言葉に獏は瞳を揺らし息を飲み込んだ。
そして嘆くように呟いた後肩を落として項垂れた。震える程力強く拳を握りしめる。
落胆している獏を結を夢世に閉じ込めた本人が慰めるように優しく抱きしめた。
「霞、本当に結のことが気に入ったみたいね。ホント、嫉妬しちゃうわ」
落ち込む子供を慰める母親のように、リンは獏の頭を何度も撫でる。
獏は抵抗もなく、ひたすら自分の足元を見つめている。
「私はね、苦しんでいる貴方達が愛おしくてたまらないの……」
真っ赤な唇を舌なめずりしてリンは更に言葉をつづけた。
「だから、獏を結から、結から獏を奪うことにしたの。私も彼女のことを気に入ってしまったから」
誘うように、妖美に、耳元で囁いた。
「目的は、それだけではないでしょう」
「あら、バレてたのね」
ようやく顔を上げた獏は至近距離でリンを睨みつけた。
「夢世と現世を繋ぐ……それは私たち夢魔が現世に行けること。そんな夢を現実にする力がある彼女が夢世に同化してしまえば夢世も現世も一緒になるわね」
「そんなことをしたら――」
「現世の人間は驚くでしょうねぇ? だって夢に出てきたバケモノや不思議な出来事が全て現世に行くのだから」
リンは楽しそうにくるりと身をひるがえした。
「そんな素敵な力を持つこの子を私たち夢魔が放っておくわけないでしょう?」
「そんなことはさせません。彼女は必ず現世へ連れて帰る」
「結の力を借りてここに来ている分際の貴女がどうやって?」
その言葉に獏は力強く拳を握りしめた。
そして意を決したように顔を上げて、リンを真っすぐと見つめた。
「結さんと俺は繋がっています。だから、必ず俺は彼女の元に辿り着く」
必ず彼女の元に行く。この果てしない夢世のどこにいこうと自分が探すと。
あの時夢世で渡した匂い袋が、必ず自分を結のところへ導いてくれるであろうという確信があった。
まるで獏の決意に呼応するように、足元から闇に飲み込まれるように獏の身体が徐々に夢世の闇へ消えていく。
「……っ、下手をすれば貴方も出てこれなくなるのよ」
闇に飲まれていく獏をリンは心配する。
しかし獏は一切抵抗することなく闇に飲まれ続け、ふっと不敵に笑みを浮かべた。
「二人で堕ちるなら、それもそれで悪くない」
その瞬間その場に大きな風が吹き、霧が消えていくかのように獏の姿は完全に闇に飲み込まれた。
風の音が消え静寂に包まれた空間の中で夢魔は一人佇み、大きなため息をついた。
「――顔、出さなくてよかったの」
悲しむ様に、呆れたように彼女は誰もいない背後に声をかけた。
「俺は、俺を認識できませんからねぇ。それに貴女こそ俺を引き止めなくてよかったんですか」
すると闇の中からぬるりと獏――彼の魂の半分、もう一人の獏が姿を現した。
「リン、貴女こそ何もしなくてよかったのですか」
「嫉妬を通り越して、なんだかどうでもよくなってきちゃって。霞は結のことが大好きみたいだしねぇ……これが失恋ってヤツかしら」
大きく腕を伸ばして、リンは獏の周りをくるりと回る。
「ふっ、リンもなんだかんだ優しいですよね」
「なにいってるの。私程我が儘で、独占欲が強くて、意地悪な女は夢世中探しても中々いないわよぉ」
「本気で彼女たちを夢世に閉じ込める気なんてない癖に」
全てを見抜いたように微笑む獏に、リンは恥ずかしそうに視線を逸らした。
「うるさいっ、さっさと霞の中に戻っちゃえ」
「そのつもりですが、リン。貴女を一人にするのは少し心が痛みましてね……あからさまな悪役など演じずに、寂しいなら寂しいといえばはっきりいえばよかったんですよ」
「どうせ叶わないなら、眼中に入れられないより嫌われてた方がマシじゃない……」
獏は優しく微笑んだ。しかしその瞳の奥は意地悪い元の性格が見えていた。
彼に論破されたリンは寂しそうに項垂れた。
どうせなら好かれたい。獏にも結にも好かれていたい。だが、二人が思い合えば思い合う程自分が入り込む隙間なんてなくなっていくのだ。
ならばせめて嫌われ役でもいいから、彼らの心の中にいたい。無関心のまま自分のことを忘れられてしまうなら、嫌われて恨まれている方がずっといい。
そんな彼女の吐露した本音を聞いて、獏は馬鹿ですね、と慰めるようにリンの頭を優しく撫でた。
「……俺が、結さんを連れ戻したら俺も自分の中に戻ります」
「また会える?」
少女のように首を傾げるリンに獏はにこりと微笑みかけた。
「夢世と現世、決して交わることのない世界ですが――時折会いに来ますよ。貴女を大切に思う友人の一人として、ね」
「ほんと、意地悪よね、貴方は」
「ふふ、俺はこうみえても一途なんですよ。俺の中に戻る前に、お馬鹿な結さんに喝を入れてきますねぇ」
二人は見つめ合って、くすりと笑い合った。
「リン、貴女と過ごした日々はとても楽しかったですよぉ。次は幸せな夢の中で――」
そうしてもう一人の獏怠そうに肩を回しリンに背を向けると手を振りながら一度も振り返ることなく闇の中に消えていった。
「あーあ……これで私も独りかぁ」
今度こそ一人になったリンは静寂の空間でわざとらしく大きな声をあげて座り込んだ。
自分が好きになった人間は皆自分から離れていく。嫌われるようなことをしてしまったのだから、同然の報いだろう。
夢世で独りで生きていたリンにとっては、現世で生きる彼らが眩しくて、羨ましくてとても輝いていた。
そんな彼らと同じように自分も生きてみたかった。でも自分が現世に行くことは叶わない、ならば大好きな二人とこの世界で生きてみたかった。
「早く、戻っておいで……私の可愛い大切な子たち」
怒りやすくて我が儘で、素直になれない自分に嫌気がさす。
もし、また次逢うことがあれば今度はきちんと謝ろう。そしてまた友として仲良く話す日々が戻ればと――二人の無事を願いながら、静かに一筋の涙を流した。
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