第56話

◇ 


 鈴と松笠を追い返した獏は、夢見の間に戻ってきた。

 相も変わらず窓の外には果てしない闇が広がり、行燈の中の蝋燭の火が揺らぎ眠る結を照らしていた。

 彼女の枕元に腰を落ち着かせ、短くなった蝋燭を取り換える。


「結さん、寒くはないですか」


 結は相変わらず規則正しい呼吸をしながら、眠り続けていた。

 ただ寝顔を見つめているだけなのも落ち着かず、僅かにずれた布団を掛けなおす。

 彼女の柔らかい髪を撫でながら、その寝顔を見つめた。


「俺がいけるのだろうか」


 自分が助けると豪語しておきながら、解決策は未だ見つかっていなかった。

 弱音が出てきたことに自分でも驚いたのか、獏は珍しく深いため息をついた。

 項垂れた拍子に自身の長髪が、布団の上に流れた。


「――……っ」


 数日振りに、結が初めて動きを見せた。

 もしかしたら目覚めたのではないかと、淡い期待を抱いて獏はすぐさま結の顔を覗き込んだ。

 しかし彼女の様子を見た獏の瞳は大きく見開かれた。 


「結さん! 結さん……!」


 結はくぐもった声を漏らし、眉間に皺を寄せ苦しそうに布団を握りしめている。

 夢世で彼女の身になにかが起きたことは明らかだった。

 手を握り彼女の名前を呼ぶが、獏の声が夢世にいる結の意識に届くはずもなかった。


「……っ、くそ。どうすれば」


 その時、握りしめる彼女の手の中になにかが握られていることに気づいた。

 力が籠るその手を優しく開くと、そこには獏が以前夢世で結に渡した匂い袋が握られていた。

 そしてその匂い袋からは、微かにいつも結が放っている石鹸の柔らかな香りがしていた。


「――……これだ」


 何かを閃いたように獏は立ち上がると小走りで自室へと戻っていった。

 積み重なった書物の山を掻き分け、同じように本や香で一杯の机の上のものをずらし匂い袋を掘り出した。

 それを握りしめ獏は急いで結が眠る夢見の間へと戻っていった。


「これで、いけるかもしれない」


 結の元に戻った獏はすかさず自身が持ってきた匂い袋の匂いを嗅いだ。するとその匂い袋は結が持っている匂い袋と同じ香りがしていた。

 獏の思い付きは徐々に確信へと変わっていく。


 結に渡した匂い袋は二つで一つの対の存在。 

 別々の場所にいる獏と結の夢を一つに繋ぐために、現世にいても広大な夢世の世界でいつでも会えるようにと獏が結に渡したのだ。

 つまりこの匂い袋を持つ限り、獏と結の夢は繋がっている――つまりこの匂い袋を持って眠りにつけば獏も結が見ている夢に渡れる可能性がある、ということだ。


 しかし獏は例えこの部屋で眠ったとて夢世に行くことは叶わないだろう。

 だが、この場には結がいる。夢世と現世を繋ぐことができる能力を持った結がいる。

 彼女がこの香を握りしめて眠りについたということは、もしかしたら獏も彼女がいる場所に辿り着ける可能性はあった。

 最初は彼女の能力を利用して夢世に入るために渡した匂い袋。そんなこととは露知らず彼女が肌身離さず持ち歩いた匂い袋。

 それがこんな状況で活路を見出す結果になるとは、なんとも皮肉なことだろう。 


 どうせ大人しく待っていたとて、夢魔が彼女を開放する保障などないのだ。少しでも可能性があるのであればそれに賭けるしかない。

 自分の身がどうなろうと、彼女だけは、自分に巻き込まれ続けた彼女だけは助けたかった。


「結さん。今、助けにいきますねぇ」


 彼女の手を握りしめ、横になった。

 その瞬間、何故か窓の外から風が吹き込み蝋燭の灯りが消された。そして部屋が真の暗闇に包まれた。


 暗闇の中にあっても獏は結がいるであろう方向から目を逸らさず、手を握る力を込めた。

 結を見つめながらぼんやりと考える。彼女は毎日こんな視界の中で生きてきたのか。きっと恐ろしくて、不安だったに違いないだろう。

 そんな不安と恐怖の中で、素性も知らない男と過ごし慣れない香屋の仕事をし、見たくもない夢と向き合ってきた彼女が唯々愛おしい。


 瞼を閉じると浮かんでくるのは結のことばかりだった。

 笑って、怒って、泣いて――そしていつしかの夢の中で見た星空を幸せそうに見ていた彼女の顔が焼き付いて離れない。

 穏やかな気持ちになって、ふっと自然と笑みが零れた。よく思えば彼女といると作ることなく笑えている気がする。

 

 このまま眠りにつけば夢魔に会えて、自分の身体も元に戻るかもしれない。

 百数十年願い続けたことだ。喜ぶべきことだったのに、獏の頭の中は結のことを救いたい一心だった。

 もし失敗しても二人で夢に堕ちるのならば――共いいれるのであればそれで構わない。


 そうして闇に溶けるように獏は眠りについた。恐怖は微塵も感じなかった。

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