第55話
◇
「――……結、こちらにおいで」
あの夜、獏と別れ布団に体を預けた時ふと頭の中に声が聞こえた。
まるで手招きされているように、誘われるがままに声を辿って結は足を動かした。
よく思い返すと、この声が聞こえたのはこれが初めてではなかった。
声が聞こえた後気が付けば結はいつも夢見の間にいた。
どうやってこの場に来たのか、いつ来たのかは思い出せない。否、覚えていない。
そしてこの日もまた気が付けば四畳半の中央に結は立ち尽くしていた。
獏も寝静まった夜。灯りもない部屋は部屋の広さが分からない程暗闇に包まれていて、恐ろしい程の嫌な気配を感じた。
早く帰らなきゃ。自分の部屋に戻って、寝なきゃ。この場所にいてはいけない。
頭は必死に命ずるが、身体は一向にいうことを聞いてはくれない。
まるで一本の棒のように直立したまま、指先一つも動かすことができない。
「――……結さん、こちらに来てはいけない」
聞きなれた声が聞こえる。その声に答えようとするが、声が出ない。
最近、時折見ていた夢を思い出した。
底なし沼に嵌っているかのように、ずぶずぶと意識が暗闇の中に沈んでいく。
このまま目覚めなければ、この沼から抜け出せなければ自分は一生目覚めることができないような気がした。
何故、こんな時になってあれほど思い出せなかった夢の内容を思い出すのだろうか。
自分が起きているのか、眠っているのか。この状況が現実なのか夢なのかも分からなかった。
逃げ出そうにも体は動かない。助けを呼ぼうにも声は出せない。
意識が無理やり闇に引き込まれ、蓋をされていくような感覚。
嫌だ、怖い、誰か、助けて。
願いは虚しく誰にも届くことはなかった。
そうして最後の意識の糸が途切れ、結の身体は力なく畳の上に崩れ落ちた。
獏から貰った大切な匂い袋を握りしめ、彼女は深い深い眠りへと堕ちてしまった――。
◇
「――結、起きて」
暗闇の奥底に沈んでいた意識がゆっくりと水面に浮上していく。
その途中優し気なふりをした意地悪い女性の声が聞こえてきて、結はゆっくりと目を開いた。
「――……あなた、は」
そこには以前会った、決して忘れることもない銀髪の美しい女が満面の笑顔で結に手を振っていた。
目が見えるということは自分は今夢の世界にいるということ。結は驚きはしろ、不思議と頭は冷静だった。
「ふふふっ、結、お久しぶりねぇ」
夢魔は妖美に微笑むと、その白く細い指先で結の頬を優しく撫でた。
その声はどこかで、それもつい最近聞いた覚えがある。
「あらあら、貴女死相が見えるわぁ」
結の心を読んだように、夢魔はわざとらしく言葉を発した。
その間も彼女は結から一切目を離すことはなかった。その指は結の頬をなぞり、柔らかな唇に触れた。
「貴女、もしかしてあの占い師――」
「だいせいかーい。よぉく分かりました。もうあんなお婆ちゃんになるの大変だったんだからぁ」
夢魔は満足そうに微笑んで、結の唇から手を放す。
そして自身の顔の半分を手で隠すと、器用なことに見えている顔半分があの占い師の顔に変わる。
驚いて目を丸くした次の瞬間には夢魔は手を放しており、顔は元の美しい姿に戻っていた。
「なんで現世で占い師なんてやっていたんですか」
「貴女達が生きる現世がどんな場所か見たかったから。占いをしていたのは私の一言で右往左往する人間を見るのが楽しかったから。
でも感謝してほしいわ。占い師に扮して、貴女達の店にお客さんを紹介してあげたんだからぁ」
夢魔はくすりと笑いながら、人差し指で長い髪をくるくると巻いて弄りながら答えた。
「たまに起きている時に、私が全く知らない光景が見えることがありました。それは貴女の仕業ですか」
「そうよぉ。結の目と私の目は繋がっているから、たまに私が視ていた景色が貴女にも見えていたのね。まぁ、でも私は四六時中結が見ている景色を見ていたけれど。
うふふっ、とっても楽しそうで、悲しそうで、見ていてとぉっても面白かったわよぉ」
楽しかったわぁ、と夢魔は肩を揺らした。
つまり今まで結が見てきた光景を彼女は知っている。獏と二人でどんな生活をしていたのかが彼女には全て筒抜けだったのだろう。
全てを見られていたと分かると、結は恥ずかしそうに僅かに顔を赤らめた。そんな初々しい反応が面白いのか、夢魔は更に楽しげにくすりと笑う。
「なんで私を夢世に呼んだんですか」
「餌よ。貴女がこちらに来れば、霞がこちらに来るでしょう?」
「霞?」
聞きなれない名前に首を傾げた結に夢魔は一瞬真顔になった。
若干の間があった後、勝ち誇ったような笑みを浮かべて結の頬を両手で包み込んで自身の目を見つめさせるように顔を上げさせた。
竜胆色の彼女の瞳には、結の姿が写っている。そして結を見つめている夢魔の姿も。まるで合わせ鏡のようにその姿が無限に連なっているように見えて頭が眩んだ。
「あら、あれだけ一緒にいて名前も知らないのね。あの夢見堂店主で、胡散臭くて、意地悪で、嘘くさい笑顔が似合う男の本当の名前よ。
結は霞のことなぁんにも知らないのねぇ。だから霞と貴女は釣り合わないって、教えてあげたじゃない」
夢魔が自分が知らない獏の本名を知っていたという事実が、胸に深く突き刺さった。
あれだけ一緒にいて、自分は獏のことを何も知らなかった。目の前にいる彼女の方が、きっと彼のことをよく知っている。
彼女の挑発するような言葉の一つ一つが結の胸を深く抉り、今にも倒れてしまいそうな程息苦しくなった。
しかしまだ、倒れるわけにはいかない。
他にもまだ聞きたいことがあった。しかし、それよりも結が一番夢魔に尋ねたいことがあったのだ。
「……貴女が獏さんから奪ったものってなんですか」
リンは長い指を唇に当てて、意地悪く、だがとても楽しそうに笑みを浮かべた。
「簡単に説明すると、霞の時間を止めて、夢世に入れなくしたの」
「なんで、そんなことを」
「結はさっきから“なんで”ばかりね」
夢魔は呆れたように肩を竦めたが、まぁいいわと腕を組んで言葉を続けた。
「霞に夢魔になって夢世に一緒に暮らしてもらおうと思ったんだけど、中々いうことを聞いてくれなくて。だから仕方なく無理やり魂の半分を抜いてこちらの世界に留めておいたの。
魂の半分をこちらに留めておくことで、霞は夢世でも現世でも中途半端で曖昧な存在になった。現世で彼の時間が止まり、私達夢魔と同じように老いもなく死ぬこともない――つまりは不老不死ってことね。
そうして長い時を一人で生きることで夢を見ることが何よりも大好きな霞がそのことに痺れを切らして自分からこちらに来たいといわせるために夢世に入れなく……つまりは夢を見られないようにしたの」
時代錯誤な服装。壊れかけたあまりにも古い店。あまり外出もせず現代に溶け込めないようにどこか浮いたような雰囲気を感じたのは――それは彼の時間が遥か昔の時間で止まっていたから。
見た目は若くとも、いつも只ならぬ雰囲気を感じていた理由がようやく解明されて結は小さく息をついた。
「あら、かなり非現実的な話をしているのに驚かないのね」
「まぁ……夢世だとか現世だとか、夢香とか散々浮世離れした生活を送って来たので、驚いてはいますが慣れました」
反応が薄い結の冷静さに、今度は夢魔が驚いていた。
「それで、夢世にしかいられないはずの貴女が何故現世にこれたんですか」
「霞から奪った魂を借りて時折現世に遊びに行けるようになったの。でもまだまだ力が足りなくてあんな姿でしか行けなくて、おまけに目も見えなかったけれど」
くるりと夢魔がその身を一回転させると美しい女性の姿から、背中が曲がったしわがれた老婆へと一変していた。
あまりにも急な変化に、結は驚いて目を瞬かせた。
「貴女は憶えていないでしょうけど、私はその頃に一度結と会っているのよ。目が見えないお婆さんを親切に助けてくれてありがとう、親切なお嬢さん」
「あの時のお婆さん……」
その姿を見て結ははたと思い出した。
まだ獏と出会う前、自分の目がまだ見えていたころ。
人通りが多い公園で、誰にも助けてもらえず今にも倒れそうな状態で蹲っていた老婆を結は一度助けていたのだ。
「あの頃は私はまだ力が弱くて、現世の人間には姿が見られない状態だったの。でも結は私を見てくれた。とてもいい匂いがする、不思議な娘……私は貴女をとっても気に入ったわ」
くるりともう一度身を返して、元の姿に戻った夢魔は結に近づいた。
そしてあの時の獏と同じように結の首元に鼻先を寄せて匂いを嗅いだ。
「そして丁度よく貴女の目を手に入れて、私は現世でもよぉく目が見えるようになったの。結には本当に感謝しているわ。でもねぇ――」
首元から顔を離し吐息がかかる程の距離で夢魔は恨めしそうに唇を噛み締めた。
そして今にも首を締めんと、結の首にその細い手をゆっくりと回した。
「そんな結がまさか霞と出会って、霞の傍にいて、霞に優しくしてもらって……本当に羨ましくて、どうにかしたいくらいよ」
彼女は結の目を通してずっと獏のことを見守り続けていたのだ。
自らが獏と会う機会を閉ざしてしまった分、自ら会いに行くことにしたのだろう。
「夢魔さん貴女は――」
「竜胆。厳ついからリン、でいいわ。霞にしか呼ばれたくないけれど、結のことも大好きだから特別に教えてあげる」
「――リンさん。貴女も獏さんのことを」
その瞬間、リンは結の首を締め上げた。
彼女の長い爪が首に食い込み血が滲む。気道が閉められていって、呼吸が苦しくなってきた。
結は鈍い声を漏らしながら、酸素を求めて口を開けた。
「結、私は貴女のことが大好きよ。貴女が苦しんでもがいてる姿を見るのが大好き。でもね、霞と一緒に楽しそうに笑っているところをみるととても無性に腹が立つの――」
逃げようにも結は一歩たりとも動けなかった。
この夢世はリンが支配している。つまりリンの許可なしに結が動くことはできないのだろう。
この場で首を絞められて意識を失ってしまったら、どうなってしまうのだろう。
目の前の彼女が霞んでいく。直立不動のまま抵抗もできず、結は意識を失おうとしていた。
「――リン、そこまでにしてください」
その時聞きなれた声が聞こえ、リンの手が首から離れた。
そして強い力で何者かが結の腕を引き、腕の中に閉じ込める。
突然入ってきた酸素にむせ返っていると、その手は優しく結の背中を摩った。
涙で歪む視界でゆっくりと見上げると、そこにはよく見慣れた長髪の着物姿の男――獏が微笑みを浮かべて立っていた。
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