第54話
◇
獏は気配を消してなるべく足音を立てないようにすり足で移動した。
すりガラスの扉の向こうには二人の人影が見えた。中の様子を伺うように人影は何度も扉を叩いている。
「二人ともいないのかなぁ……お店休みだし」
「……あの引き籠り二人組がそう簡単に出掛けるわけねぇだろ」
壁が薄い店だ。外の会話が全て筒抜けに聞こえてくる。声の主はやはり鈴と松笠のもので間違いなかった。
結があんな状態のため店は臨時休業にしていた。できることなら居留守を貫き通すつもりでいたのだが、あの二人の前では居留守を使うことは不可能に近い。
獏は酷く面倒くさそうにため息をついて、仕方なく扉を僅かに開きその隙間から顔を覗かせた。
「何の御用ですか。今日は休業ですし、かりんとうもまだ頼んではいませんよ」
明らかに苛立っている獏の殺気立った声に、店の前に立っていた二人は思わず身構えた。
「こ、こんにちは。あの……結、いますか」
あからさまな不機嫌さを醸し出す獏に、流石の鈴も恐る恐る問いかけた。
現在進行形で問題が起こっている彼女の名が聞こえたことが余計腹立たしくて、益々獏の眉間に皺が寄った。
獏はいつものような余裕綽々な笑みを張り付けることすら忘れていた。
「――……寝てますよ」
面倒ながらも、獏は言葉を返した。
何も嘘はついていない。多少問題は起きてはいるが、彼女が今眠っていることは事実なのだ。
「寝てるって、もう昼だぞ。アンタじゃあるまいし……」
「こちらも今忙しいんです。遊びに誘いに来たならお引き取り願います」
詰め寄ってきた松笠の言葉にかぶせるように、獏は冷たく口早にいい切った。
いつものように松笠を小馬鹿に苛めるのではなく、正真正銘の拒絶の言葉だ。
その獏の圧に圧されて、二人は思わず足を一歩後ろに引いてしまった。
獏はいつも松笠を虐めて楽しんではいたが、ここまであからさまにそして鈴に対しても拒絶の言葉を投げ捨てたことはなかった。
あのいつも嘘のような笑顔を張り付けている獏が、ここまで感情をむき出しにしている。
何も言わずとも、彼や結になにかあったことは明らかだった。
「結、占いのこと気にしてるんじゃないかって思って」
後ずさりしていた鈴が拳を強く握りしめて意を決したように口を開いた。殺気に満ちていた獏が一瞬固まった。
「……商店街の占い師さんに占ってもらった時に“死相が出てる”っていわれてたんです」
心配そうな表情をしている鈴の隣で、不満げに獏を睨みつけている松笠がいた。
その視線に気づいた獏は真顔のまま冷たく松笠を見下ろした。
「……なにか」
「ついでに結は“傍にいる男に気をつけろ”ともいわれてたよ、それってアンタのことだろ」
「……結さんの近くにいる男はなにも俺だけではなく、貴方のことも当てはまると思いますが」
この間まで苗字で呼んでいたはずなのに、急に名前で呼ばれていることに気が付いて何故だか無性に腹が立った。
ふっ、と嘲笑うように松笠を鼻で笑い飛ばすと松笠が獏の胸倉を掴みかかった。
鈴が小さく悲鳴を上げて、松笠の腕を引いた。だが、獏は一切動じることなく冷たい瞳で二人を見下ろした。
「結が……アイツがアンタのこと好きだったの、アンタだって気づいてただろう」
長く生きていると、人の特に若者の感情や心を読むことは意図もたやすかった。
だから松笠が結に好意を寄せていることも、そして結が自分に好意を寄せていることも、獏は全て知っていた。
だが自分と彼女では流れる時間が、流れていた時間は圧倒的に違う。
自分と結ばれたとて、姿が変わらない自分といることはいずれ彼女の重みになる。
彼女と結ばれたとて、彼女が老いて先に逝ってしまうと自分はまた一人になる。
彼女を傷つけないために、自分が傷つかないために、お互いが不幸にならないために俺は彼女の想いに答えるわけにはいかなかった。
ならばせめて、傍で支えてくれる彼と結ばれることが彼女にとっての幸せだと、思っていたのだ。
しかし、共に流れる時間が増えるにつれ、結の傍にいたい、大切にしたい、誰にも渡したくない――そんな想いが膨らんできていることも、何よりも自分が一番気づいていた。
「――……俺は、彼女とは生きられない」
嘲笑するように悲し気に肩を竦めた獏を見て、松笠は思わず手を離した。
手が緩んだ隙を見て鈴は獏と松笠の間に割り込んで松笠を制した。その目には怯えた様に涙が溜まっていた。
「結さんは貴方たちと出掛けた翌日から、今まで目覚めていません」
その言葉に二人の目は大きく見開かれた。
「そ、それってどういう……」
目の前の二人は本気で結を心配しているのだろう。
彼らには事実を伝えても良いのかもしれない。しかしきっと結は大切な友人を巻き込むことを嫌うだろうと思った。
それで彼女が悲しむのも嫌だったし、獏個人も彼らを巻き込むのは嫌だった。
「……貴方達はなんの役にも立ちません、どうかお引き取りを」
冷たくあしらって、無理やり店の外に追いやり扉を閉め、鍵を閉めた。
そう。これでいい。どうせ彼らには彼女を助けに行くことなど不可能なのだから。
「おい、獏さん。結が目ェ覚めたら四人で飯食いに行くからな! 連絡しろよ」
どんっ、と景気づけのように松笠が扉を叩いた。
扉に凭れかかっていた獏は思わずふっと笑みを零した。
「それもいいですねぇ。その際は松笠さんにご馳走になりますので、御覚悟を……」
「お、おう、任せろ!」
「なにか手伝えることがあったらなんでもいってくださいね!」
そうして二人は名残惜しそうに店から離れていった。
自分がこんなに人間に関りをもつなんて、丸くなったものだ――いや、自分を変えてくれたのは彼女の存在、か。
獏はくつくつと肩を動かして笑いながら、彼女が待つ夢見の間へと足早に戻っていった。
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