第53話
◇
――そうして、あれから三日経つが結が目覚める気配は一向になかった。
獏が彼女を夢見の間で眠っているのを見つけて以来、ずっと彼女はこの真っ暗な部屋で眠り続けていた。
「結さん、そろそろ起きてくれないと本気で心配しますよぉ……」
彼女の頬をそっと撫でながら呟かれた囁きは、行燈の灯りが灯る薄暗い部屋の中に吸い込まれていった。
魘されることも寝がえりを打つことも、いびきすらかくことなく文字通り死んだように彼女は眠り続けている。
だから時折彼女が本当に生きていることを確かめるように獏は彼女の頬や手に触れた。
柔らかい感触と、暖かな温もり、そして僅かに上下する胸元を見てそこで彼女はまだ生きているのだと一安心する。
「何故こんなことに」
あの日、最後に結と言葉を交わした夜。彼女の匂いに違和感があった。
――何も匂いがしなかったのだ。彼女がいつも身に纏っている夢の匂いが、獏の鼻には一切感じることがなかった。
彼女が今夜どのような夢を見るのか、獏は大抵その匂いで感じ取っていた。だから彼女から悪夢の匂いを感じれば良夢の香を渡す。
だがこの間は何も匂いがしなかったのだ。悪夢でも、良夢でもない、鼻が利く獏にでも嗅ぎ分けることのできない――夢世そのものの匂い。
彼女が時折見ている暗闇に引きずり込まるような、恐ろしい悪夢。
彼女自身が気づかないうちに、夢遊病のようにふらりと夢見の間で眠っていること。
そしてふとした時に白昼夢のように、眠っているわけでもないのに自身の瞳に見える光景。
以前から幾つも前兆はあったのだ。
竜胆が、獏の時間を、結の瞳を奪ったあの夢魔が本気で彼女に介入し、彼女を夢世に閉じ込めたのだろう。
幾ら夢世に詳しい獏とはいえ、夢世の住人である夢魔に本気を出されればなんの抵抗もできないのが事実。
彼女がいずれこうなることは獏は予見していたのだ。だから先手を打ってあの夢魔に囚われないように自身の夢で彼女の夢を塗り替えていたというのに――。
予見していたというのに、いざその時になって彼女をこちらに引き止めきれなかった結果がこのザマだ。
「――……結さん」
彼女の名前を紡いで、悔し気に血がにじむ程唇を噛み締めた。
今のところ彼女は眠っているだけだ。それもギリギリ生きている、という状態で。
肉体的には三日も動かず、飲まず食わずなわけだただでさえ細い彼女の身体が少しずつ窶れていっているのは明らかだ。
そして肉体が睡眠に耐えられなくなり、死を迎えてしまえば名実ともに彼女は夢世に取り込まれ、永遠に覚めない眠りにつくことになる。
本当はこんな狭く薄暗い部屋ではなく、日が当たる明るい彼女の自室で横たわらせたかった。
しかし彼女の存在が夢世に傾いているというのに、肉体だけを現世に移動させてしまうとそれこそ目覚める確率が極端に低くなってしまう。
それに彼女が夢世に囚われたままの状態で、彼女が持つ“夢を現実にしてしまう”という能力がどう作用するのかも計り知れなかった。
今までは意識も肉体も現世にあり、見た夢を言葉に出すことで夢と現世を繋いでいた。
しかし今は結の意識は夢にある。その状態で肉体のみを現世に移すだけで原理的にはその力が作用してもおかしくはないのだ。
今まで近寄るなといっていた、この現世と夢世の狭間である夢見の間が今の結にとって最も安全な場所だとは――なんて皮肉なことだろう。
夢に囚われても必ず救うといった癖に、どうすればいいのか分からず彼女の傍で見守ることしかできない無力な自分に苛立った。
「――……相変わらず、なにも見えませんねぇ」
この四畳半の狭く暗い空間で、たった一つだけいつもと変わっていることがあった。
それはいつも固く閉じられていた、部屋の大きな丸窓が開け放たれているのだ。
遥か昔、獏の母が生きていた時はその大きな窓からは手入れされた中庭の景色が見えた。今ではその中庭は潰され、真新しい建物が建ってしまったのだが。
しかしいつしかこの窓からは中庭の景色も、息が詰まるような隣家の壁も見えなくなった。
見えるのは、果てない闇。朝が来ても太陽は上らず、三百六十五日夜のような暗闇の世界が広がっている。
竜胆と出会った時のような、結と出会った時のような、果てしない闇の世界――そう。この窓の外に広がっているのは夢の世界だった。
獏がそれに気づいたのはつい五十年程前のことだった。
ようやく夢の景色が見られるのだと、初めは胸躍らせてその窓の外をじっと眺めていたものだがあまりにも代わり映えのしない景色に飽きて窓を閉めてしまったのだ。
気分転換のためにも何十年振りに窓を開けたが、やはりそこに広がっているのは果てしない闇だった。
果てしなく奥まで続いているのか、はたまた目の前に大きな黒い壁が置かれているのかよくわからない漆黒の世界。
眠る彼女の為に空気の入れ替えでもと思ったのだが、そこからは何の風もなければなんの匂いも、なんの気配もしなかった。
唯この暗闇の世界のどこかに結がいるのだと考えると、今すぐこの暗闇の中に飛び込んでしまいたい衝動にかられた。
そっと手、窓の外に手を伸ばせば見えない壁のように阻まれた。獏はその体ですらも夢世に入ることを拒まれているのである。
「夢世に囚われた彼女を、夢世に入れない俺がどう助ければ良いのか」
滅多に使わない頭と体をこの三日間不眠不休で全力で酷使していた。流石に獏の顔にも疲労の色が浮かんでいる。
元より老いもせず、死なない身体だ。飲まず食わずでも多少の飢えを感じるだけでどうということはなかった。
しかし滅多に動かさない頭を必要以上に糖分を寄こせと騒ぎ立てる。獏の足元には空になったかりんとうの袋が山のように転がっていた。
窓枠に腰を掛け、静かな空間でサクサクとかりんとうを齧る。好物なのに全く味がしない。
獏は酷く不味そうに、眉を顰めながら気を紛らわすようにかりんとうを唯々咀嚼して飲み込む作業をしていた。
「――……ん、獏さーん。ゆいーっ」
ふと耳に聞き覚えのある声が聞こえてきた。
獏は気だるそうにゆっくりと視線をそちらに移した。
声の元は扉の向こう、長い廊下のずっと先――店の入り口から聞こえていた。
あまりにも小さい声だがその声の主が何者かは分かる。結の傍から離れない、二人の賑やかな友人達だろう。
「この忙しい時に」
獏は癖になっていた笑顔を張り付けることすら忘れ、不愉快そうな表情を浮かべながら立ち上がった。
苛立ちを覚えながらも横たわる彼女の傍を通る時、そっと膝を降ろして彼女の髪にそっと触れた。
「すぐ、戻りますからね」
自分でも驚く程の優しい声だった。
そして獏は自身では気づかないくらい、寂しそうな自然な笑みを結に向けると名残惜しそうに一旦夢見の間を後にしたのだった。
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