第59話
◇
瞼が軽いような気がした。
恐る恐る、ゆっくりと瞼をこじ開けた。その直後に目が眩む程の光が差し込んできて、思わず目を細めた。全身が気だるくて指先一つも動かす気力が起きない。ちかちかと痛む瞳を必死に動かして周囲を見回した。
普段は閉じられているはずの大きな丸窓から光が差し込んできた。窓に頭を向けて仰向けに眠っているため、窓の外に見える景色が反転している。その窓の外には春でもないのに満開の桜が咲き、格子の隙間から風に吹かれて花弁が入り込んできた。
嗚呼、自分はまだ夢を見ているのだとぼんやりとした頭で考えながらゆっくりと手を自身の頬に近づけた。
この場が現実か夢か確かめる古典的な、しかし確実な方法。頬を摘まんだ指先にゆっくりと力を籠める。
「……いた」
頬にひりひりと走る痛み。確かにここは現実だ。つまり、自分が今見ている景色は紛れもない現実で――自分の目が見えるようになったという証拠だ。
しかしまだどこか夢心地なのは、眠っていたのが夢見の間で、夢かと思う程の綺麗な桜が目の前に広がっているからだろう。
何故光が差し込むはずのない部屋に光が指して、春でもないのに桜が咲いているのかと問われれば、この部屋は現世であるが一応まだ夢の中にいるという曖昧な答えしか出せない。
先程まで見ていた夢はあまりにも鮮明に頭に、身体に刻み込まれている。恐らく忘れろといわれても、一生忘れることはできないだろう。
ふと指先に柔らかい感触を感じて、視線を右に動かした。すると、そこには毎日傍にいた彼であろう人物が眠っていた。
彼は自分の手を強く握って寝息を立てていた。思わず安堵したように自然と笑みが零れ落ちた。
これだけの時をずっと共に過ごしていた。夢でも何度も顔を見ていた。しかし現世に戻る度その顔は酷く曖昧に、霧がかかったように不鮮明だった。
しかし自分はこの手の温もりを知っている。何度も触れた髪を、彼の感触を知っている。例え顔を見るのが初めてだとしても、これが愛しい男だということははっきりと分かっていた。
「獏、さん…………」
眠る彼の頬を撫でながら、彼が初めて自分に名乗った名を紡ぐ。
ふわりと風が吹いて彼の黒髪に花弁が一枚舞い落ちた。
早く目を覚ましてほしい。早く、自分を見て、聞きなれた声で名前を呼んでほしい。その手で、触れてほしい。
しかしようやく見えるようになった瞳で、彼の無防備な寝顔をいつまでも見ていたい。彼の髪を撫でながら、なんて自分は我が儘なのだろうと嘲笑を浮かべた。
「……かすみ、さん」
確かめるように、呼び慣れない彼の真の名を呼んだ。
自分なんかが呼んでいいのか分からなかったけれど。その綺麗な響きの名前を、愛しい男の名を呼ばずにはいられなかった。
そしてその瞳はゆっくりと開かれた。
「――――」
彼は目を開き、何度か瞬きをした。彼がどんな反応をするのか怖くて、固まった。だが彼から目を離すことはできなかった。
彼も状況を確かめるように、ゆっくりと視線を彷徨わせた。そうして自分の瞳と焦点があった時彼の瞳も動きを止めた。見つめ合って沈黙が続く。何か言いたいはずなのに、言葉が出てこない。
すると彼は今まで見たことのないくらい優しい笑みを浮かべて、こちらに手を伸ばしてきた。
彼の大きな手に包み込まれるように引かれた手は、彼の胸に当てられた。物音一つない静寂の空間で、彼の心臓の鼓動がその手を通して全身に伝わってくる。
互いが生きていることを確認する。目の前にいる相手と同じ時を刻んでいる。止まった時計の針が動き出したように、止まった彼の時間もまた動き出したのだ。
彼は自身の鼓動の音を聞きながらも、こちらから一切目を離すことはなかった。自分も彼の目を見つめすぎて、彼の瞳に映る自分の姿まで鮮明に見えてしまった。
久々に見る自分の姿は、酷くやつれていて他人が見たら笑ってしまう程生傷だらけで間抜けな表情をしていた。でもこれが今まで自分がもがき続けてきた証。彼と過ごした確かな証拠。
思わず笑ってしまうと、彼も同じことを思っていたのかつられたように笑ってゆっくりと口を開いた。
「……俺が、俺の姿が、見えるのですか」
「勿論です。しっかりはっきり、くっきりと見えていますよ――……ば……いえ、霞、さん」
ずっと一緒にいた、初めて見た男の顔は夢で見た通り見とれてしまう程美しく、意地悪で、とても優しかった。
「結さん、ようやく会えましたね」
彼に腕を引かれしっかりと抱きしめられた。
彼の腕の中はとても暖かくて、ゆっくりと息を吸い込むと色んなお香の匂いが混ざった彼の香りがする。とても落ち着く、優しい彼の匂いが体中に染みわたっていく。
彼が耳元でくすりと笑ったと思うと、初めて会った時のようにくんくんと首筋の匂いを嗅がれた。
驚いて恥ずかしくて離れようとしたが、彼ががっちり背中に腕を回しているため離れることはできなかった。
もがくこと数分――ようやく離れたと思うと、彼は意地悪そうに満面の笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「やはり、貴女はとても良い匂いだ……――」
どこかで聞き覚えのある台詞が聞こえた。
そして彼は私の頬に手を添えると、ゆっくりとこちらに近づいてくる。一瞬、何が起こったか分からなくなった。
久々に見えるようになった視界は彼がいっぱいで、唇に当たる柔らかい感触と共に再びむせ返りそうになるほど彼の匂いが身体の中に充満していた。
◇第七章/夢見る 「夢見堂」 完
夢見堂 松田詩依 @Shiyori_Matsuda
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