第30話



「き、きゃああああああ!」


 ぽかぽかと日向ぼっこをしているかのような心地よさを感じていた結は、ゆっくりと目を開けた。

 暗闇だったはずの瞳に光が差し込む。目が見える。つまりここは夢なのだろう。

 ぼやける視界を幾つか瞬きをしてゆっくりとピントを合わせる――そして、目の前の光景をはっきりと見た瞬間結は悲鳴を上げた。

 自分でもこんなに甲高い悲鳴が出るなんて思っても見なかった。


「おやおや、ようやく来ましたねぇ。結さん」

「なんとも幸せそうな表情をしていましたよぉ。目を開いたところをはじめてみましたが……とても素敵な瞳をしていらっしゃる」


 慌てふためく結を余所に、和服を着て並んでいる獏と福寿は楽しそうに目の前の光景を眺めていた。

 藍色の着物を着る獏。辛子色の着物を着た福寿。体格は違えど、二人の緊張感のない話し方は殆ど同じで。

 仲良さそうに笑い合うこの二人実は血の繋がった兄弟なのではないのかと思ってしまう程だ。


「な、なななななななっ……なんなんですかっ、これっ!」


 愉快そうに目の前の光景を眺める二人とは対照的に結は驚き慌てふためいて、思わず二人の背中に隠れた。

 夢かと思って一度獏の背中に顔を埋めた後、恐る恐る獏の肩越しにもう一度状況を確認したが何も変わっていない。夢ではなかった――というか、この場が夢であった。

 そう、三人の前には巨大な巨大な白蛇が三人をじっと見つめていた。


「こ、これのどこが吉夢なんですか」

「おや、白蛇……それも大蛇は吉兆の象徴ですよ。金運が上がるとんでもなく高価な吉夢です」

「そ、そうなんですか……」


 獏の説明を聞きながら白蛇の真っ赤な目を見つめた。

 蛇はこちらに危害を加えるでもなく、静かな瞳でじっとこちらを見つめていた。

 蛇のつるつるとした滑らかな鱗が鮮明に見える。一つ一つが淡く光り輝いて、どこか神々しくも思えた。

 こんなに巨大な蛇の登場に驚きはしたものの、不思議と恐怖は感じなかった。それどころか胸に幸福感が芽生えるような、暖かい夢だった。


「ふふふ、まだまだありますよぉ」


 福寿は大蛇を撫でながらとても楽しそうに微笑んで、指をぱちんと鳴らした。

 元はといえば福寿が見ていた夢。獏と結はあくまでも傍観者、ある程度の夢の操作権は福寿が持っているのであろう。

 福寿が指を鳴らすとまるでフラッシュでも焚かれたかのように目の前が真っ白になった。目が潰れてしまいそうな輝きに結はきつく目を閉じる。

 瞼を閉じても真っ白な光が透けているような気がした。そうして暫くすると光が落ち着いたことに気づき、結は状況を確認するために恐る恐る目を開けた。


「うわああっ!」

「結さん驚きすぎですよぉ」


 またしても驚いて叫び声をあげた結を獏はけらけらと笑った。

 こんな状況でこの二人はなにを笑っているんだと、結はこれでもかと目を大きく見開いて目の前の状況を確認した。


「いや、普通驚きますよ!」


 結論からいうと、三人は火の海に飲み込まれていた。

 目の前の建物のようなものが激しく燃えて、すぐ近くでは爆発音が聞こえ激しく炎が上がっている。しかしこれほど目の前に炎が広がっているというのに熱さは一切感じなかった。


「こ、これも吉夢だっていうんですか! 思い切り災害でしょう、これ」


 半ば発狂しながら呑気に笑っている獏の着物襟を掴み、僅かに揺さぶった。

 結に揺さぶられて肩から上ががくがくと揺れても獏は微笑みを崩すことがなかった。


「あー……そういえばこれ昔住んでた家ですねぇ」

「――――は」


 まるで他人事のようにとんでもないことを呟いた福寿に結は顎が外れそうな程あんぐりと口を開いた。

 騒いでいたがあまりの衝撃に言葉すら失ってしまったようだ。そんな結の反応を見て福寿は「遠渡さんって本当に面白い人ですねぇ」と可笑しそうに笑っていた。


「自宅が燃える夢は……確か一家繁栄の吉夢でしたねぇ」


 獏が思い出すように顎に手を当てながら呟いた瞬間、福寿の家らしき燃え盛る建物が大爆発した。

 漫画の様に空に炎が上がり、煙がもくもくと立ち上る。爆発してほぼ炭と化した家の破片が飛び散っている。

 三人を避けるように飛び散っていくそれらを横目に、もう結はなにに驚いていいのかも分からず呆然と佇むしかできなかった。


「おまけになんて見事な大爆発……いやぁ、本当に福寿さんは素晴らしい」

「お褒めにあずかり光栄ですよぉ」


 見事な花火でも見ているかのように、獏と福寿は呑気に手を叩いて笑い合っていた。

 二人の様子を見ると、一人で喚いている自分が馬鹿らしく思えてきた。そうだこれはどうせ夢なのだから、大丈夫だ。

 結は胸に手を当ててすっかり混乱していた自分の頭を落ち着かせた。その間に福寿は再び指を鳴らした。


 それが合図に再び光景は変わる。

 今度は結達は海の中に浮かぶ大きな岩に座っていた。リアルに打ち付ける大波に結は一瞬息を飲み込んだが、もう驚くことはなかった。


「おや、もう驚かないんですねぇ」

「……獏さん達を楽しませるだけですから」

「それは残念。結さんの驚き慌てる顔はとても愉快だったのに」


 そう結が慌てふためく程獏はとても愉快そうに笑う。これ以上笑いものになることは御免だ。結の不機嫌そうな声に獏は残念そうに僅かに肩を竦めた。

 それに二人があまりにも暢気に構えているので慌てることが馬鹿らしく思えてきたのである。

 炎の海から一変、目の前に果てしなく広がる大海原を眺めているときゅい、と可愛らしい鳴き声が幾つも聞こえた。


「きゃあ、可愛い!」

「おやおや、これはぁ」


 結は驚きではなく歓喜の悲鳴を上げた。三人の座っていた岩に近づいてきたのは何頭ものイルカだった。

 結が恐る恐る手を差し伸べてみると、イルカたちは人懐っこく口先を摺り寄せてきた。その中にはシロイルカの姿も見て取れた。

 最初に見た二つとは対照的に、この可愛らしいイルカたちに囲まれる夢はいわれずとも吉夢であることは伝わってきた。


「イルカの夢は……人間関係に関する吉夢、でしたねぇ」


 結は獏の説明なんて耳にも入れず、集まってくるイルカと楽しそうに触れ合っていた。

 兼ねてから一度イルカに触れてみたいとは思っていたが、まさか夢の中で夢が叶うなんて思ってもみなかった。

 結は夢を見ることを拒んでいたことなんて忘れて福寿の夢の中を楽しそうに満喫している。昨夜の恐怖なんて忘れて無邪気に笑う結を見て、獏はどこか安心したように小さく笑みを零した。


「そういえば、その昔イルカは食料としてよく食べられてたみたいですねぇ」

「……そういうの、ここでいうのやめてくれませんか」


 それでも獏は結をからかいたいようで、イルカをじっと見つめながら結の耳元でぽそりと呟いた。

 イルカを撫でていた結の手が止まり、きっと獏を睨みつける。不満そうなその表情を見て獏はいつものように結を小馬鹿にするような、しかしどこか楽しそうに口元を緩めた。


「獏さんは本当に意地悪ですねぇ」

「おやぁ、こんなに面倒見がいい人間もそうはいませんよぉ」


 さっさと獏を無視してイルカと戯れる結の後ろで、獏と福寿は顔を見合わせた。

 お互い深く語らずとも腹の内は分かっているようで、数言交わしただけでにこりと口に弧を描き似たような笑顔を浮かべた。


「さて、結さん。イルカと戯れるのもそこまでにして、時間がないので先に進みますよ」

「……残念。でも仕方ないですね」


 獏の言葉にイルカと戯れていた結の表情が曇る。しかしいつまでも遊んでいるわけにはいかないと、結は名残惜しくもイルカと別れた。

 最後に頭を撫で、別れを告げるように手を振るとイルカ達も楽しそうに鳴き声を上げながら綺麗な大海原を元気に優雅に泳ぎ去っていった。


「すみません、お待たせしました」

「いえいえ。動物と戯れたくなる気持ちはよくわかるので。では次々行きますよぉ」


 結の了承を得ると、福寿は指を鳴らした。

 それから三人は様々な吉夢を見た。一体福寿はどれほどの数の吉夢を見たのだというくらい豊富な夢だった。

 目の前に並ぶ豪華な食事、勢いよく流れる荘厳な滝、雲一つない青空にかかる七色に輝く虹。

 そのどれもがとても暖かく、幸福な夢だった。こんなに幸せな夢ならばいつまでも、見ていたい。結は羨望の眼差しを福寿に向けた。

 結の視線に気づいた福寿は子供を見守る父親のように優しく笑みを浮かべたのであった。


「……さて、これが最後の夢ですねぇ」

「――……きれい」

 

 果てない夢旅行の終着点は満天の星空だった。

 現世でもこの様な綺麗なものはみたことがない。星の一つ一つがまるで宝石の様に輝き、今にも零れ落ちてきそうな程の雲一つない満点の星空だった。


「これは見事ですねぇ」

「気に入って頂けましたかぁ」


 その見事な星空はあの獏が感嘆の声を漏らした程であった。

 思わず漏れ出す二人の声を聴いて、福寿はしたり顔で腕を組んでいた。


「獏さ……いえ、店長。この夢にはどんな意味が?」

「大願成就ですね。誰かと共に星を見ていると、その者たちにも幸福が訪れる……という一説もありますねぇ」


 空を見上げながら説明を続ける獏の横顔をちらりと結は覗き見た。

 とても綺麗な星空。これが現世で見られればなんて幸せなことだろう。だが一度夢から覚めてしまえば、結の瞳は再び暗闇に覆われてしまう。

 隣に立つ意地悪な店主の顔も見られなくなってしまう。結はあの時以来初めて夢から覚めたくない、と思ってしまった。


「この夢から覚めたくありませんか」

「――え」


 心を読んでいたかのような獏の言葉に結は驚いて目を丸くした。その瞳は動揺と迷いで揺れていた。

 今まで散々夢は嫌いだ、夢なんて見たくないとのたまってその挙句に夢魔に目を奪われた自分が何をいっているのだろうと結は申し訳なさそうに俯いた。

 自分は今までこんな夢に溢れた夢らしい夢を見たことがなかった。いつも皆が騒いでいた楽しそうな夢を、今初めて見たのだ。

 こんなに夢が楽しく、暖かなものだとは思わなかった。だから、つい。つい、もっと見ていたいと思ってしまった。


「何をしょぼくれた顔をしているのですかぁ。このような良い夢を見ているのなら、目覚めたくないと思うのは至極当たり前のことですよぉ」

「――――」


 獏は微笑みながら俯く結の頭に手を乗せた。彼女のタンポポの綿毛のような柔らかな髪の感触を楽しむかのように撫でる。

 そうして笑う獏の表情はいつもの作ったような笑みとは違っていた。その表情を見て福寿は驚いたように僅かに眉を動かした。


「しかし、いつか必ず夢は覚めてしまうものです。そろそろ現世に帰らなければ――」

「そうですねぇ。そろそろ帰りますかぁ」


 獏が目配せすると福寿は同意したように頷いた。もう一度福寿が指を鳴らせば夢は覚めてしまう。

 現世に戻れば明けることのない闇が果てしなく広がり続けるだけ。だが、選んだのは自分だ。その責は自分自身で背負い続けなければいけない。

 ならばせめて夢世で目が見えることに感謝しよう。夢を視られたことに感謝しよう。この夢のような満天の星空を見られたことを忘れないでおこう。

 瞼の裏に焼き付けるように結は最後まで星空を見上げ続けた。


「結さん」

「はい」


 獏に声をかけられても結は星空から視線を離すことはなかった。


「俺を、この場所に連れてきてくれて、ありがとう」

「――――え」


 思いもよらない感謝の言葉だった。一瞬何かの聞き間違いだと思ったが、そうではなかった。

 思わず視線を獏に向けた瞬間に福寿の指が鳴った。

 

――ぱちん。

 

 その音で夢がしゃぼん玉のように弾けて消えていく。

 満天の星空も、何もかもが遠く離れていく。結がその目に最後に焼き付けたものは星空ではなく、獏のなんともいえない笑顔であった。


 結の意識も弾け、現世へ吸い戻されていく。

 光が消え、徐々に視界はいつものように闇に包み込まれていく。その直前、遠くから笑い声が聞こえた。

 闇が覆う前にその笑い声の元を見たい。必死に目を見開いてそちらの方を見る。

 そこには、幸せそうに笑っている福寿が見えた。そしてその隣には、二人の人影が見える。小柄な影と、子供のような小さな影。

 それが何かを確かめる前に視界は完全に闇に覆いつくされた。そしてぱちんと意識が弾け、現世へと戻っていった。

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