第29話



「お待たせしましたぁ。いやぁ、相変わらず暗くて不気味な廊下ですねぇ」


 夢見の間で待つこと三十分程。風呂上りの福寿が部屋に入ってきた。

 ここぞとばかりに、自力で髪を切りそろえ髭を切り落とし、身なりを整えてさっぱりとした様子で獏たちの前に腰を下ろした。

 獏の着物をしっかりと着こなした福寿は先程の浮浪者とはまるで別人のように見違えていた。若干白髪交じりの髪に優しそうな顔立ち、着物姿で正座するいでたちはどこか紳士的にも見えた。

 結に見違えた福寿の姿は見えなかったが、彼が入って来たときにふわりと香るお香のような甘い香りにふっと安らぐように息をついた。


「獏さんが貸してくれたこの着物とても良い香りがしますねぇ」

「ええ、匂い袋で着物に香りを染み込ませておきました。お気に召して頂いたようでよかったですよぉ」

「はは、いつも手厚いお気遣い痛み入ります」


 目の前で繰り広げられる物腰柔らかな会話に結はどこか戸惑いを感じていた。

 薄暗い部屋で繰り広げられるあまりにもほのぼのとした世間話。まるでお茶とお茶菓子を用意した方がいいのでは、という気分に感じられる。

 今まで不気味で薄ら寒く感じていたこの部屋が、福寿が入ってきた途端に暖かな日差しでも差し込むかのようにほんわかと暖かく、安らぐような空間になったように思われた。


「ふふっ、この部屋の雰囲気が変わったように感じますか?」


 結の心を読むかのように隣の獏はぽそりと言葉を零した。結はこの状況を上手く飲み込めないまま、獏の言葉に唯々同意するようにゆっくりと頷いた。


「結さんが夢を現世に渡す力があるに、福寿さんも吉夢を呼び寄せる特殊な力があるのです。彼の力の影響でこの場も吉夢――非常に居心地の良い夢世の空間に変わっているんですよぉ」

「ははっ、褒められる程のことでもないのですけどねぇ。僕の取柄なんて、良い夢を見るくらいしかないんですよ」

「俺にしては結さんも福寿さんも喉から手が出るほど欲しい力をお持ちなんですけどねぇ」


 獏が人を褒めることなんてとても珍しいことだった。

 気恥ずかしそうに頭を掻きむしる福寿を結はゆっくりと見た。獏がここまでいうのだろう。福寿はきっととてつもなく吉夢に恵まれた能力を持っているのだろう。

 結は夢に関する力を持っているのは自分しかいないと思っていた。所が、今目の前に自分と同じように夢に関する能力を秘めた人物がいるということが少し嬉しく思った。


「準備、終わりましたよね。私はこれで――」


 あまりの居心地の良さに悠長に座っていたが、今回は夢香を作るのみ。夢診をするわけではないから、自分はこの場にいる必要はないのだと結ははたと我に返った。

 準備といっても木を幾つか運び、蝋燭の灯りをつけるのみ。その準備も殆ど獏が行っていたため、正直なところ結が態々ここに出向く必要もなかったのだ。

 福寿が来たお陰で居心地がよくなったことは事実であるが、やはり夢はみたくないものだ。

 自分の力が不要なのであればさっさとここを後にしようと立ち上がった時、獏に腕を掴まれた。

 そのまま腕を引っ張られると虚を突かれて、力なく結は腰を抜かしたようにすとんと畳に尻もちをついた。


「いった……何するんですか店長」

「折角の機会ですから、結さんもご一緒に」

「夢香を作るだけなら私がいなくてもできるでしょう」


 結は不服そうに眉を潜めた。

 獏が夢に入って直接事を解決しなければならない時は、夢世に入れない獏を結が夢世へと繋ぐ役目を果たす必要がある。

 しかし通常の夢香を作るのみであれば、獏が夢世に入らずともできること。つまりこの場に結がいなくてもなんら問題はないのだ。

 恨めしそうに獏を睨むようにできるはずもない視線を送るが、獏は頑なに結の腕を放そうとはしなかった。


「いったでしょう。福寿さんの視る夢はとても良いものだと……近頃夢見の悪い貴女も少しはマシになるはずですよぉ」

「悪夢に魘されているなんてそれは可哀想に。僕の夢がお役に立つのであれば、どうぞ遠渡さんもご一緒に」


 二つの声が重なった。どうもこの二人に挟まれると断るものも断りにくくなる。

 なにより口では優しく話す獏だが、結の腕をつかむ手は強く決して緩まることを知らない。

 いつも何か企んでいるかのように笑う獏と対照的に、福寿は心底結を心配しているように思えた。

 視覚で相手の感情を読み取れない分、相手の声音や気配で感情を察することができるようになっていた。


「わかりましたよ。いればいいんでしょう」

「ははっ、遠渡さんも苦労しますねぇ」


 諦めたように結は改めて座りなおしたところで漸く獏の手が離された。

 小さくため息をつくと福寿の愉快な笑い声が聞こえてきた。この人達といると本当に調子が狂う、呆れかえっていた結も福寿の笑みに釣られるように肩を竦めた。


「それでは参りましょうかぁ、吉夢の旅へ」


 嬉々とした表情で獏は持ってきた木を小指の爪の先程の大きさに切った木片に火をつけた。

 三人の中央に置かれているのは沢山の木材。ほんのわずかな木片に火をつけただけだというのに、盆にのっている大量の木から黙々と煙が立ち上った。

 白い煙が部屋一面を包む。しかし火事のような煙の臭いは一切感じないし、むせ返ったり息苦しくもならない。


 福寿の見た夢が煙となってこの部屋に充満しようとしているのだ。暫く経つと煙の匂いが徐々に変わってきた。

 まるで高級な質のいい香水のような柔らかで豊潤な香り。かと思えば干したての布団の心地よく暖かなお日様の香り。

 福寿が見た様々な吉夢の香りが代わる代わる鼻を刺激する。色んな匂いがするのだが、しかし匂いは混ざり合うことなくどれもずっと嗅いでいたいような良い香りを放ち続ける。

 何も考えられなくなって、その香りだけを堪能する。福寿の眼差しのように暖かく、微笑みのように柔らかい、なんて安らぐ幸せな香りだろう。

 そうして意識は香りたちの中に吸い込まれていく。頭の先から足の先まで今まで味わったことのない幸福感に満たされた。


――嗚呼、なんて幸せな夢だろう。


 結はふと自然に笑みが零れた。夢の匂いを、夢世の感覚を感じても不快にならないなんていつ以来だろう。

 体中が幸福で満たされるのを感じながら、結は安らかな気持ちで夢世の中に入り込んでいった。

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