第28話



「すいませぇん……あれ、本当に獏さんどっかいっちゃったのかなぁ」


 獏を呼び続ける男の声が近づいてくると同時に、段々と声に不安の色が増してきていた。

 何度呼び掛けても中々呼びかけに応じない獏に店を開けたまま留守にしているのではないかと思っているようだ。

 普通なら店を開けたまま店を空ける店主なんてそうはいないものだが、この獏という男ならやりかねないということは未だ姿が見えない客も分かっているのだろう。

 この細い廊下ももうそろそろ出口だ。ここから声を発すれば相手に聞こえるというのに獏は頑なに声を返そうとしなかった。

 夢診の邪魔をされたからか、はたまた客の相手をするのが面倒なのか――兎も角彼が今とても不機嫌だということは明らかだった。


「……いないのかなぁ。折角いい夢を――」

「何か御用でしょうか」

「うわぁっ!」


 獏は気配を消したまま廊下を出て暖簾をくぐった。階段の上を覗いていた中肉中背の少し汚らしい男は漸く姿を現した獏に気づくことなくしょぼくれた様に肩を落として店を出ていこうと踵を返した。

 彼が諦めて隙を見せたのを見計うかのように、獏は背後から彼の耳元で声をかけた。

 すると男は絵にかいたように肩を震わせ驚きのあまり飛び上がった挙句、尻もちをついた。ものの見事に驚いた相手を見て獏は満足がいったようでにんまりとしたり顔で腰を抜かしている男を見下ろした。

 しかしその男の顔を見た獏は驚いて目を丸くさせた。

 

「おや。おやおやまぁ……」

「店長、お客さん驚かしちゃまず――」


 獏に送れること数十秒、彼の大きな背中からひょこりと結が顔を覗かせた。そしてその瞬間結は思わず顔を顰めた。

 臭い。この男酷く臭うのだ。勿論結に夢の匂いなんて感じられないのだから、これはこの男本人が放つ体臭による悪臭だろう。

 まるで何日も風呂に入っていないかのような、酷く不快で不潔な臭いが漂ってきていた。

 そして結が感じた臭いの通り、その男の身なりはとても汚らしいものだった。手入れを一切していないのか髪や髭は伸び放題で毛は絡まり合い、何日も洗っていないのか油で髪はてかてかと艶が出ている。

 服も使い古されているようで非常にだらしなく、サンダルから覗く靴下は親指部分がぽっかりと大穴を開けていた。


「もう獏さんいるならいるっていってくださいよぉ。驚いたじゃない」


 しかし獏を見上げて笑うその瞳はとても穏やかで優しい暖かさが感じられた。


「お久しぶりですね福寿さん。相変わらず無様で汚らしい格好をしていらっしゃる」

「あ、あはは……相変わらず獏さんは手厳しいですねぇ」


 人一倍鼻が利く獏は不快そうに着物の裾で鼻を覆いながら男に微笑みかけた。普通の人ならば口が裂けてもいわないような発言を一切の遠慮なく獏は吐いた。

 しかし男も獏の暴言には慣れているようで苦笑を浮かべながら肩を竦めた。

 なんというか身なりの割にはとてもめでたい名前。なによりも結は獏がその客の名前を覚えていたことに驚いた。

 しかも先ほどまであんなに煙たがりすぐに追い払おうとまでしていたというのに手の平を返したかのようにこの店主は上機嫌になっているのだ。

 

「今日も夢を売りに来てくださったので?」

「ええ、買っていただけるのであれば是非」

「福寿さんであればいつでも大歓迎ですよ……しかし、その前に」


 福寿という男はこの店の常連であるようだ。そしてこの店が夢を売買する場所であるということも熟知しているようだった。

 獏は福寿を見下ろしながら、頭の先から足のてっぺんまで嘗め回すように見回して今一番の作り笑顔を浮かべた。


「そんな汚らしいナリでは夢見の間に入って頂きたくないので、風呂でも入って綺麗にしてきてくださいなぁ」

「ははっ、そういってくれると思ってましたよぉ」


 二人は目を合わせ合って似たような緊迫感のない間延びした口調で話しながら、微笑みあった。

 冷たい作り笑顔の獏とは対照的に、福寿の笑顔は少年の様に人懐っこく柔らかなものであった。


「おや……新しい店員さんですか?」

「は、はじめまして……遠渡結といいます」


 あの獏が珍しく自ら、それも甲斐甲斐しく客である福寿の相手をしている。

 着替えを持ってきますから待っていてください、と一旦獏が二階に上がった時福寿は結に声をかけた。

 女性である結を前に自身の身なりを気にしているのか、福寿は一定以上の距離から近づこうとはしなかった。

 一瞬顔を顰めてしまったことが失礼だったと思ってしまう程に福寿は身なりからは想像つかない程、丁寧で優しい人物だった。

 

「こんな身なりですが、福寿といいます。仲間からは福さん、なんて呼ばれてますよぉ。それにしてもあの意地悪な獏さんがこんな素敵なお嬢さんを雇うなんてぇ」


 福寿は結がこの店に来る前から通っているようだった。あの獏の性格を見抜き、散々嫌味をいわれながらもこの店に訪れるなんて余程の物好きなのだろう。

 獏と似た口調でおっとりと僅かに毒を吐く福寿に結は思わず笑みを浮かべた。するとタイミングを見計うかのように福寿の頭に着物が降りかかってきた。


「俺がいない間に陰口とはいい度胸ですねぇ、福寿さん。買取価格引き下げますよぉ」

「おやおやぁ、相変わらず獏さんは地獄耳ですねぇ」


 腕組みをし、獏は冷たく微笑みながら下に降りてきた。

 視界を覆う着物を剥がしながら、福寿は参ったように肩を竦めた。


「そんなものしかありませんが、着てくださいなぁ。風呂入っている間に準備をしておきますので、どうぞごゆっくりぃ」

「ありがとうございます。それじゃあ遠慮なくお湯頂きますよ」


 どうやらこの店に来る度福寿はいつも風呂に入っているようだった。

 着物を腕にかけながら住み慣れた我が家の様に福寿は店の奥へと消えていった。彼がいることがあまりにも自然すぎて結は呆気に取られていた。


「くくっ、面白い人でしょう。あの人本人の臭いはあまりにも嗅げたものではありませんが……彼が放つ夢の匂いはとても良い香りですよぉ」


 獏は結の隣に立ち、風呂に行く福寿の背中を見ながらくつくつと楽しそうに笑った。


「色々と驚いてますけど、なにより獏さんが福寿さんの名前を覚えていたことが一番驚いてます」

「それは憶えますよぉ。何故なら、この店で売られている上質な吉夢香の半分は彼から仕入れたものですからねぇ」

「え、嘘――」

「あの福寿という男は、吉夢を見続ける逸材ですよぉ」


 獏の言葉に結は絶句して口をあんぐりと開けた。

 この店に来てから様々な香を店に並べてきたが、やはり客が多く買っていくのは良い夢のお香。誰も自ら悪夢を買っていく人はいないだろう。

 今まで売ってきた吉夢香がまさかあの福寿という男の夢を元に作られたとは素直に信じられず、結はまさか、と獏を疑った。


「いやぁ、今日はどんな夢が見られるか楽しみですねぇ」


 ふふふと獏は笑いを堪えきれないようで、盆にいつも以上の香木の元となる木を乗せて細い廊下を歩いていった。

 暗がりの廊下の奥から獏の怪しすぎる笑い声が聞こえてくる。ネジが狂ってしまったかのように可笑しそうに笑い転げている獏の声を聴きながら、結は呆れる様にいつものように壁伝いで彼の後を追いかけたのだった。

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