第27話

◇第四章/夢託す



 翌朝。すでに開店時間を過ぎているはずの夢見堂店内には不思議なことに誰の姿もなかった。

 いかにも歴史を感じる門構え。そして更に香屋という店のせいか、中々新規の客は入りずらいようで常連か余程の物好きしかこの店を訪れることはない。

 とうの店主である獏は一切商売に興味がないようで、客が来なければずっと寝てられると笑う始末。本当に夢香を集めることにしか興味がないようで金にはあまり執着がないようだ。

 平日の午前中ということも相まってか、店員の二人が店番をせずとも店内は客一人入ることなく静寂に包まれていた。


 二人も今日はどうせ客も来ず暇を持て余すことは分かっていた。店の奥の奥、客が大声を出さないと聞こえない場所にある夢見の間にいた。

 今日は雲一つない晴天で、既に日は相当高いはずなのにこの狭い和室には光が一切差し込まない。獏が持ってきた行燈の灯りがなければこの部屋は夜の様に真っ暗だ。

 獏と結は行燈を挟んで向かい合うように座っていた。


「店長がこんな朝早く。それも私よりも先に起きて……しかも二人で朝っぱらからこんな部屋に閉じこもって何をするつもりですか」

「決まっているでしょう。結さんの夢診ですよぉ」


 行燈の橙色の灯りが獏の微笑みを下から怪しく照らす。

 獏は昨夜見た結の夢の原因を探る為、この夢見の間で夢診を行おうとしていたのである。

 静かに結を見据える獏とは対照的に、結はどこか落ち着きなく膝の上に置いた手を動かしていた。

 不気味な程静かなこの部屋に聞こえる音は蝋燭が燃え、蝋が受け皿に垂れる音のみ。耳をすませばお互いの息遣いまでも聞こえそうな程の静寂な空間。

 おまけに窓などない密室空間だというのに、まるで地下室にいるかのようにひんやりとした冷気を感じた。何度この部屋に来ても結は不気味な居心地の悪さを感じていた。

 まるで昨夜目覚めたときの背筋が凍るような恐怖を不安を感じる。居心地の悪さは感じていたが、この部屋に恐怖や不安を感じたのは初めてだった。

 自分の身体は一体何が起きてしまったのだろうか。結は不安に思いながら膝の上で小刻みに震える手をもう片方の手で握りしめた。


「それで、結さん。昨夜どんな夢を見ていたんですか」

 

 獏の言葉に結は困ったように言い淀んだ。

 勿論結は自身が昨夜この部屋で眠っていたことなど覚えてもいない。

 獏もこれ以上彼女を不安にさせないためか、敢えてそのことを伝えることなく結を安心させるように極めて優しい口調で諭した。


「大丈夫ですよ。何度もいうようにこの部屋は現世でも夢世でもありませんから。口に出しても結さんの夢が現世に影響を及ぼすことはありませんよぉ」


 結が此処で夢診を行うのはこれが初めてではなかった。

 しかしいつも結は自分が見た夢を話すことをいい淀んでいた。それは結の能力のせいである。

 自身が見た夢を言葉として発することで、見たはずの夢が正夢となって現実の世界に影響を及ぼす、ということ。

 結自身無意識に使っていた能力だが、以前獏に諭されたことと両親の事故の一件から自身が見た夢の話を口に出すことを恐れているのである。


「違うんです。そういうことじゃなくて……」


 毎度のように結を安心させるように優しそうな笑みを浮かべる獏。

 しかしその声音は新しい夢香を作りたいという魂胆がみえみえだ。

 初めて会う客ならともかく、この半年近く片時も離れず一緒にいる結には獏の考えていることはなんとなく分かっていた。

 結は呆れたようにため息をついて首を横に振ると、獏が微笑んだまま表情を固めた。


「思い出せないんですよ。どんな夢をみたのか。そもそも見たのか視ていたのか、本当に夢をみたのかも思い出せないんです」

「……夢世を認知している結さんが見た夢を忘れるなんて珍しいこともあるんですねぇ」


 獏は顎に手を当てながら不思議そうに唸る。その声音はどこかつまらなそうにも聞こえた。


「しかし結さんが覚えていなくても、どんな夢を見ていたかはわかります。取り合えず診てみましょう」

「……結局私が話しても話さなくても見るんじゃないですか」


 獏は全く諦めていることはなかった。夢香を作ることが生きがいとでもいいたげにとても楽しそうに微笑んで、呆れる結を尻目に木に火をつけた。

 いつもの夢診のときのように部屋中に煙が充満し、結は小さく息をついて身構えるように僅かに顔を俯かせた。

 いつもであれば夢の放つ独特な香りが漂ってきて、意識が吸い込まれるように夢に誘われる――筈だった。

 

「――……おかしい」


 先に異常に気付いたのは獏だった。白く漂う煙を手で仰ぎながら深いそうに眉間に皺を寄せた。

 煙は相変わらず無臭で、意識が吸い込まれるどころか目は冴えたままである。

 その異変には結も気づいたようで、不安げに眉を潜め顔を上げた。


「夢を診られない……いや、夢世に入れない」


 珍しく獏の表情から笑みが消えた。

 困惑したように顎に手を当てながら、その瞳は動揺に揺れていた。

 

「……結さん。本当に夢をみていないのですか」

「目が覚めた時はちゃんと夢を視ていた感覚はあったんです。でも……みたのか、みていないのかも覚えていないんです」


 困ったように視線を彷徨わせる獏を見て、結は自分がなにか悪いことをしたのではないかという罪悪感に襲われた。

 この沈黙を打破しなければと必死で結は自身の記憶を手繰り寄せた。

 今までこの夢見の間で夢を見られないなんてことは一度たりともなかった。夢世に近いこの空間で夢を見られないなんてことはおかしすぎる。

 恐らくこのことに一番驚いているのは獏に他ならなかった。いつもはなにがあろうと怪しい笑みを崩すことはなかったが、この時ばかりはとても深刻そうな顔で原因を必死に探していた。

 獏の表情が直接伺えない結も、彼の放つ気配が変わったことには気づいたようだ。そして結はふとなにか思い出したように口を開いた。


「あ、あの……獏さん」

「――……はい」


 彼女が悪いわけではないのに、結は獏に恐る恐る声をかけた。

 それに対し獏はあからさまに不機嫌な声音で、返事を返す。


「えっと、あの。このことと関りがあるかどうかは分からないのですけど……」

「なんですか」


 獏は案外気が短いようで、口ごもっている結を急かすように言葉を返した。

 自分はなにも悪いことをしていないのに何故彼はこんなに不機嫌そうなんだ、と結は心の中で悪態づきながら膝の上の拳を強く握った。


「昨夜見ていたらしい夢とは多分違うんですけど……この間、変な夢を見たんです」


 獏は話を続けるように、と無言で促した。

 結が今話そうとしていることがこの事と関りがあるかどうかは分からない。だが、この気まずい状況を打破するには意味があろうとなかろうと話す他ならなかった。 


「その、詳しくは思い出せないんですけど。まるで自分の目で見ているような……不思議な感覚の夢、でした」

「それは夢を視ているのでは?」


 獏の言葉を否定するように結は大きく首を横に振った。

 彼と出会ってから、結は自分がみている夢が“見ている”ものか“視ている”ものなのかを区別するようになっていた。

 そして結がみていた夢はその二つのどれにも該当していない――ように思えたのだ。


「違います。視た夢のように私自身が経験しているわけではないんです。その、上手く説明できないんですけど……私の目が、まるで他の誰かの目になっているような不思議な感覚で」

「――――」

「そういう夢を見た後はとても目が疲れるんです。実際の私は見ていないのに」


 結の言葉を最後まで聞いた獏からは不機嫌な気配は微塵もなくなっていた。自身の作戦が成功したことに結はほっと息をついた。

 しかし獏は何かを考えこむ様に顎に手を当てたまま、止まった機械のように微動だに動かず何も言葉を発しなかった。

 長い長い沈黙が続く。あまりにも静かすぎる空間に、結の息が詰まりかけたところで漸く獏が再起動した。


「――……それは、もしかすると」


 再起動した獏が独り言のように呟き始めた時だった。


「――……あのぉ、すみませぇん」


 微かにだが、はっきりと男性の野太い声が聞こえてきた。

 二人はなにも言葉を発さず、ぎぎぎと鈍い動きで声がした方向を向いた。


「すみませぇん、獏さぁん。いらっしゃらないんですかぁ」


 ここまで聞こえる声だ。店にいる人物は余程大きな声で叫んでいるのだろう。

 そして獏の名前を知っているということは常連客なのだろう。

 それも店内に獏がいない時は大抵二階の自室で眠っていることを知っていて下から呼びかけて彼を起こそうとしている相当の常連客だ。


「……お客さんですね」

「普段はこの時間に客が来ることなんてないのに。このような重要な時に限って何故……」


 獏はとても不機嫌そうに眉を顰めて舌打ちをした。

 あまりにも予想外の出来事が起きたからか、獏は笑みを作ることを忘れていた。


「結さん、話は後にしましょう。これ以上邪魔が入らないように客を早く一掃しなければ」

「は、はい……」


 怒気が籠った声で首の関節を鳴らしながら部屋を出ていく獏。

 少ない客が来たのであれば喜べばいいというのに、相変わらず獏は自身の邪魔をされることが一番嫌いの様だ。

 不機嫌そうに先に歩く店主の後を結は慌てて追った。


 四畳半の狭い部屋の中には行き場を無くした白い煙が充満しつづけていた。

 誰もいなくなった闇と静寂に包まれたその部屋から、僅かに若い女の笑い声のようなものが結の耳に聞こえたような気がした。

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