第四話「夢託す」

第26話

最近結は夢を見なくなった。正確にいうのであれば、今まで自分がいつも見ていた筈の現実的な夢を見なくなった。

 両親の死を予見する正夢を見て以来結はずっと夢を見ることを拒み続けていた。その為に騙されたとはいえ夢魔に自身の目を引き渡したのだ。

 そこまでして見たくないと願った夢を見なくなったのだ。本来であればそれは結にとって心の底から嬉しいことなのだが、結は素直に喜ぶことができなかった。


 最初にも述べた様に結はいつものような夢を見なくなった。正確にいうのであれば、見る夢が変わったのだ。

 今まで見ていた現実的な夢は見なくなった。だからといって空を飛ぶとかそういった非現実的な夢を見られるようになったわけでもない。

 夢を見ているという感覚はあるのだ。だが、なにも起きない。それどころか目が覚めるとどんな夢を見ていたのか全く覚えていないのだ。

 

「――――!」


 暗い暗い闇の底に沈みかけていた意識が急に誰かに引っ張り上げられたかのように結ははっと目を覚ました。

 目の前を支配する闇に一瞬パニックに陥った。まるで今まで溺れていたかのように呼吸が苦しくて、必死に酸素を取り込んだ。

 布団が皺になるほど強く握りしめ、激しく脈打つ鼓動と荒い息を必死に整える。呼吸が整っていく中で、ようやく今自分は夢ではなく現実にいるのだと理解ができた。

 そして激しく鼓動する胸に手を当てながらふと、思うのだ。


――自分は今までどんな夢を見ていたのだろう、と。


 確かに夢を見ていた感覚はあった。だが、どんな夢を見ていたのかが全く思い出せない。

 今までも何度も夢を視てきたし、見せられたこともあった。しかし結は目覚めた直後は自分がどんな夢を見ていたかを鮮明に思い出すことができたのだ。

 経験したことのない感覚に酷く困惑した。激しく脈打つ鼓動、荒くなった息を整える。

 そうして思う。現在自身が感じているいい知れない恐怖の理由が分からないのだ。

 目覚めても固く閉じられたままの目を固く瞑った。眉間に深い皺を刻み、考えこむ。

 そう。確か、自分は眠りの中で恐怖を感じていた。しかし何かに追われるような恐怖ではない。

 まるで自分が何かに飲み込まれてしまいそうな。そしてこのまま飲み込まれてしまうと二度と目覚められないのではないかという恐怖。

 急いで夢から這い出ようと必死にもがいた。水底へ沈もうとしている意識を引き戻そうとした為まるで溺れたかのような感覚に陥っていたのだろう。

 

 そしてふと窓に叩きつける風の音が耳に入った。その瞬間夢から周りの音へと意識が向けられた。

 視覚を失った結は気配や物音にとても敏感になった。古い家が軋む音、外で降る激しい雨の音。遠くで聞こえる雷が唸る音。

 全ての音が頭の中に木霊する。小さな音のはずなのに、とてつもない爆音に聞こえて思わず耳を塞いだ。

 光すら見えない目の前に広がる果てしない暗闇。耳を塞いでも聞こえてくる音。

 落ち着き始めていた呼吸が再び早くなる。心臓が再び激しく脈を打つ。

 ここは現実ではなく本当は夢なのではないか。自分は本当は目が覚めていなくてこのまま一生深い深い闇の中に囚われてしまうのではないだろうか。

 疑念は恐怖を生む。そしてそのとき落ちてきた雷の轟音で結は混乱に陥った。布団を手繰り手を彷徨わせるが布団は見つからず、仕方なく両手で耳を塞ぎ蹲った。


「――……さん。結、さん」


 塞いだ指の隙間から、落ち着く間延びした柔らかな声が聞こえてきた。

 その声に耳を澄ませるように、手を僅かにずらして声がした方を向いた。


「こちらにいたのですねぇ。入りますよぉ」


 声をかけた者の結の返事を待つことなくその部屋に入ってきたのは獏だった。

 獏は蝋燭の灯りで手元を照らし結のもとに歩み寄ってくる。彼の足音は耳を塞いでいる結にも聞こえていた。

 子供の様に耳を塞いで蹲る結の姿を見て嘲笑を浮かべると、怯えた様子の彼女の顔を覗き込んだ。


「芋虫の様に蹲って。雷に怯えていたわけでは……なさそうですねぇ」


 耳を塞ぐ結の手をそっと取った。震えるその手を握りながら手持ち行燈を傍に置いて彼女の傍に腰を下ろした。

 

「魘されていましたが、怖い夢でもみましたか」

「分からない……おもい、だせない……」


 結は譫言のように呟いた。いつも獏の嫌味に不満そうな表情を浮かべている彼女とは別人だった。

 表情は恐怖や不安に歪み、どこか疲弊しているようにも見える。そして獏の手を縋る様に握る細い手は酷く震えていた。

 明らかにいつもと様子がおかしい結の背中を、獏は泣きじゃくる子供を宥める様に優しく摩った。


「夢なんて……みたくない」


 背中を摩る獏の着物の裾を強く握りしめた。変わらない速度で結の背中を摩り続けながら、獏はどこか困ったように小さく息をついた。


「……すぐに戻ってきます。少しお待ちくださいねぇ」

「どこに、いくんですか」

「大丈夫、ですよぉ。すぐに戻ってきますからねぇ」

 

 結は迷子の子供のように不安げな表情を浮かべて獏の袖にしがみついた。

 獏はそんないつもと別人のように慌てふためく結を手馴れた様子で宥めると、自身の裾を掴む手が緩んだことを見計い一度部屋を後にした。

 離れてしまった獏の手を再び掴む様に手を伸ばしたが、その手は宙を掴んだだけだった。

 みしみしと獏が歩くたびに軋む床の音を聞きながら、先程まで握られていた獏の手の温もりを感じながら、結は徐々に落ち着きを取り戻していった。


「お待たせしました……少しは落ち着きましたか」

「はい……いつもすみません」


 獏が戻ってくる頃にはいつもの結に戻っていた。彼に失態を見せた恥ずかしさか、まだ心の隅に残る恐怖のためか結は項垂れながら僅かに頭を押さえていた。

 ようやく落ち着いた彼女を見て獏はどこか安心したように笑みを零しながら、湯飲みが乗った盆を持って再び結の近くに座った。


「いつもこうやって素直に頼ってくれれば可愛いというのに」

「みっともないのは分かっていますから、好きなだけからかってください」


 いつものように強くいい返してこない結に獏はつまらなそうに肩を竦めた。しかしこれ以上いつものように彼女をからかうこともなかった。

 お盆に乗せた湯飲みをそっと結の両手に握らせた。両手に心地よい暖かさが伝わってきて結は驚きに僅かに身を固めた。

 ほのかに柑橘系の安らぐ香りが漂ってきて、結はその香りを楽しむ様にその香りを嗅いだ。

  

「これは」

「柚子と蜂蜜を入れた甘酒です。寝る前に飲むと落ち着きますよ」


 火傷をしないように念入りに息を吹きかけて、十分に冷ましたところで恐る恐る湯飲みを口に近づけた。

 一口飲むと柚子の香りと、ほのかな甘みが広がって肩の力が緩んだ。


「……美味しい、です」

「それはよかったぁ」


 結が微笑むと獏もつられるように微笑んだ。


「……眠るのが怖いんです。また、おかしな夢を見てしまいそうで」 

「……悪夢は俺が食べましょう。さあ、眠って」


 空になった湯飲みを彼女の手から抜いて、獏はまるで洗脳するかのように優しく囁きながら結を横たわらせた。

 確か自分は布団の上に横になったはずなのに、なぜか背中に感じるのは畳の感触。そういえば自分は布団をどこに追いやってしまったのだろう。

 寝相は悪くないと思うのだが、例え幾ら寝相が悪いとしても布団の存在を消し去るようなことはできないはずだ。

 疑問を述べようとしたが、眠気と混乱からか上手く頭が働かない。酷く思考がぼんやりとして何も考えられないのだ。

 唯瞳を閉じて、頭を繰り返し撫でる獏の手に身を委ねた。


「なんだか……今日の獏さんは気持ち悪いくらいに優しいですね」

「気持ち悪いとは失礼なぁ。俺はいつでも結さんには優しいですよぉ」


 普段は仕事を全部結に押し付け、眠っているばかりの獏。こんな気遣いをされたことは殆ど初めてに近く結は少し戸惑い気味に苦笑を零した。

 獏は肩を竦めながら彼女が寝入るまで子供を寝かしつける母親のように結の頭を撫でながらずっと傍に寄り添い続けた。


「おやすみなさい、結さん」


 獏は極めて優しく結に話しかけ、赤子を寝かしつける母親の様に彼女の傍に寄り添い続けた。

 そして彼女が完全に眠りについたことを確認すると獏は彼女の身体を抱きあげた。


「――……何故こんなところで」


 獏は眉を顰め、不審そうに部屋の中をぐるりと見回した。

 最近結が夜魘されていることは気づいていた。だから今夜もこうして彼女の様子を見に来たのである。

 だが、彼女の姿は部屋にはいなかった。水でも飲みに起きたのだろうと居間を見たが、姿がない。家の中、店の中全てを隈なく探しそうして辿り着いたのはこの部屋。

 きっと彼女自身も自分がこの部屋で眠っていることなんて分かっていなかったのだろう。彼女は何かに操られるようにこの場所にやってきた――まるで結を夢に捕らえようとでもいわんばかりに。

 そう。この場所は夢見の間。結はこの場所で眠っていたのである。


 獏は急いで結をこの部屋から連れ出した。

 そして彼女の部屋に連れ帰ると布団に横たわらせた。布団はすっかり冷えていて彼女が布団から抜け出して大分時間が経っていることを表していた。

 獏は自室からとある上客から買い取ったとびきり上質な吉夢香を持ってきて、結の部屋で焚いた。


「おやすみなさい。今度こそ、良い夢を――……」


 結の身になにかあればすぐに気づけるようにと、獏は部屋の入口に背を凭れた。

 甘い花の香りが部屋に充満していく。これならば彼女も魘されることなく良い眠りにつけるだろう。

 獏は瞳を閉じる最後まで結から目を話すことはなかった。安らぐ香りに身を委ねるように、こうして二人は夢世へと誘われたのであった。

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