第25話
◇
「――……結さん」
獏の声で結は我に返った。一瞬長い黒髪の男が心配そうな表情を浮かべているのが見えたような気がした。
目が見えるようになったのか思ったがどうやら気のせいだったようだ。目の前は相変わらず底のない暗闇が広がっているだけであった。
「魂が抜けたように呆けていましたよぉ。死んだかとおもいましたぁ」
「……どのくらい、ですか」
「なぁに、ほんの数分ですよ」
いつものようにおどけたように皮肉を零す獏。結は寝起きのような掠れた声で問いかけながら頭を押さえた。
確か自分達は友里達の帰りを待ちつつ閉店の後片付けをしていた。それも一段落付き、一休みしようといつも座っているカウンターに腰を下ろした。
そこまでは憶えているのだが、獏が話しかけてくれるまでの数分の記憶が一切ない。
眠っていたわけではないようだが、目が見えていたということは一瞬でも自分は夢を見ていたようだ。夢香を使わずに座ったまま夢を見るなんて――白昼夢でも見ていたのだろうか。
はっきりと覚えていた筈なのに、見ていた夢を思い出そうとするほどその映像に霧がかかりどんな夢を視ていたかが分からなくなる。
ただ一つだけはっきりといえることはまるで今まで自分の目で実際にその光景を見ていたような感覚になる夢だったということ。
その証拠に長時間目を使った後ののように、頭と目の奥が酷く痛んだ。
思い立ったように慌ててポケットの中から以前獏に貰った匂い袋を取り出した。
驚いたことに、その匂い袋は先ほど見た夢と同じ百合の強烈な香りがしていた。
「匂い袋がどうかしましたか」
「いえ、この匂い袋。あのお香と同じ匂いがしたので……」
どれ、と獏は匂い袋を手にして匂いを嗅いだ。ふむ、と居心地が悪そうな声が返ってくる。
獏が作った夢香の匂い袋が匂いを放つということは、自分は先程まで夢を見ていたという確たる証拠だ。
しかし獏に相談しようにもなんて相談したらよいかもわからない。それに自分が見た夢をあまり口にはしたくなかった。
自分が見た夢のせいで、うっかり口を滑らせてしまったことで、誰かの人生や未来が変わってしまうことを結はとても恐れているから。
「恐らく先ほど見た栞那さんの夢が影響しているのでしょう。もうしばらくすれば元に戻りますよぉ」
試しにもう一度匂い袋を鼻に近づけてみると、彼のいうとおり匂い袋の香りは徐々に弱まっていた。
自分の気にしすぎだ。あれはただの気のせいだったのだといいきかせ、僅かに脳内に残る光景を振り払うように数度頭を横に振ってポケットの中に匂い袋をしまった。
「それにしても店長が元凶だったなんて」
「それは人聞きの悪い。俺は客人に夢香を売っただけですよぉ。彼女がどう使うなんて俺には知る由もありませんでしたぁ」
カウンターを挟んで結の前に座り、煙管を咥えながら白々しく答える獏を結はむっとした表情を浮かべながらため息をついた。
すると獏は店の奥からどす黒い香木を持ってきてカウンターの上に置いた。その香木は栞那が使用したからか大分削り取られて小さくなっていた。
「さぁて、彼女たちが返ってくる前に香木を隠さなければなりませんねぇ」
「燃やすんじゃ……」
「俺は匂い袋を燃やしてくれといわれただけですよ。貴重な夢香木燃やす馬鹿がどこにいるんですか」
この悪徳店主どこまであくどい商売をするつもりだ。きっと友里達が帰ってきたら適当な灰でも見せて、香木はもう燃やしたとでもホラを吹くのであろう。
どうせ止めても彼は聞く耳を持たないだろう。友里達には申し訳ないが自分には手を付けられないと結は申し訳なさそうにため息をついた。
「そういえば、さっき凶夢とかってちらっといってましたけど……悪夢と凶夢ってどう違うんですか」
「悪夢は縁起の悪い視る夢です。簡単にいうと直接的な嫌がらせですね。今回の場合の凶夢は……精神的にじわりじわりと苦しませるものです」
物騒な話を獏は嬉々とした表情でとても楽しそうに説明している。
きっとこの性悪店主は自分の嫌いな人間をこの香をつかって苦しめたことがあるに違いない。
「その、物凄く酷い臭いがするのに悪夢とかって需要あるんですか?」
「それが意外と呪う夢は特に女性に需要があるのですよぉ。俺はお客人が望まれたものを売るだけで、その後はどう使おうが俺の知ったことではありませんけどねぇ」
「だからって……」
「それに、本当に人を殺してしまうようなものは売りませんのでご心配なく。あくまでこの夢は悪戯程度ですよ」
一応この男でもきちんとした倫理観は備わっているようだ。
しかし言葉を返せば売らないということは、この店のどこかに人を殺せるほどの夢が存在しているということ。
どうやってその夢を集めたかは分からないが、人を殺すほどの夢とはどんなものだと想像して結はぞっと鳥肌を立てた。
「でも友里ちゃん達の周りには体調不良で休む人が増えたって……」
「それは個人の精神力の問題です。悪夢を毎晩見れば誰でも参る。しかしそりゃあ俺の責任じゃあない」
確かにその通りだ。見た夢なら、直接身体に影響はない。でもやっぱり怖い夢を見たら誰だって気が滅入るだろう。
獏だって栞那がこんな風に夢香を使うとは思っていなかったはず――いや、獏ならばもしかするとこうなることも分かっていたかもしれない。
栞那が考えていることを知った上で、この夢香にある程度の危険がないことが分かっていたから栞那の自由にさせていたのだろう。
しかしあの夢の中では最終的に見た者が黒百合を抱いた女子高生から逃げ切れることなく掴まっていた。あれが見る夢でなく。視るものだったとしたら――。
「もしあれが悪夢で、あの女の子に掴まっていたら……夢を視ていた人はどうなっていたんですか」
「……最悪夢に囚われたままでしょうねぇ。一生目覚めることはない……夢は甘くみているととても恐ろしいものですから」
今回は凶夢――見る夢であったからよかったのだ。あのまま恐ろしい少女に囚われたまま、ずっと夜が明けない校舎の中で永遠と過ごす。あの夢を思い出して結はぞくりと背筋が凍った。
それにしても彼は客であろうと人をからかうことを楽しんでいる。今回の栞那達に対する態度は目を見張るものがあった。
あれだけ獏に憧れを抱いていた友里でさえも、最後には明らかに怒りを含んだ眼差しを獏に向けていた。
「獏さん、いつか誰かに呪われますよ」
「あはは……綺麗な女性に呪い殺されるなら本望ですよぉ」
鼻の下を伸ばしたように愉快そうに笑う獏の声を聴いて、彼も男だったのだと結は呆れたようにため息をついた。
しかし彼なら例え呪われようとも飄々と笑顔でかわしそうなものだから、心配するだけ無駄ということだ。
「……もう最悪。まだあの嫌な感覚が残ってる。だから悪夢なんて嫌なんです」
「ここで悪夢を見ても大丈夫じゃないですかぁ」
「なんでそういいきれるんですか」
カウンターに突っ伏して項垂れる結の頭上から、珍しく優しそうな獏の声が降り注いだ。
獏の優しい言葉には裏がある。客は騙されても自分は騙されてなるものかと、決意を込めてゆっくりと顔を上げた。
「貴女が夢に囚われても、俺が必ず救いにいきますから」
「――――」
なんでこの人は平気でこういうことをいうのだろう――結は唖然として思わず言葉を失った。
当人は何の気なしにいっているのだろう。しかし、一度でも獏に見惚れてしまったこの身としてはどうしても、その甘い言葉を真に受けてしまう。
しかし表面上はこちらを気遣うように優しく接してくれていても腹の中では何を考えているか分からない。
この獏という男は心底意地が悪く、酷く歪んだ男だ。それは日常一緒に過ごしている結が一番理解していた。理解しているはずだった。
今まで散々馬鹿にされて、見下されて、笑われてきた。それでも彼は決して結を嘘をついたり裏切ったり見捨てるようなことを決してしなかった。だから、きっと彼のこの言葉は本心なのだろう。
そんな獏のことを結は呆れながらも信用していた。それはきっと初めて出会った時から。
「しかし、いつの時代も女性というものは怖いですね……結さんは大丈夫ですかぁ」
「……呪われるほど友達いませんから」
「そういいながらも、外に連れ出してくれるご友人がいるじゃないですかぁ。この間は楽しかったですか?」
「……ええ。まあ」
視力を失い、大学を休学してから結は自分から鈴や松笠といった大学の友人に連絡を取ることをしていなかった。
ところが結が連絡を寄こさないのであれば直接会いに行けばいい、と時折二人は予告もなしに突然店に訪れて結を無理矢理外に連れ出していくのだ。
目が見えず一人で外に行けない結にとってはいい息抜きになった。なにより、結の特殊な力、その悩みを知った上で腫れ物に触るでもないいつもと変わらず接してくれる二人にとても感謝していた。
そして獏もそんな二人を呆れたように馬鹿にしながらも、苦言一つ零さず結を見送ってくれている。そういえば獏が店の外に出ている所を結は今まで一度も目にしたことがなかった。
「……獏さんもどこか遊びに行きたいんですか」
「ははっ、俺には結さんみたいに外に連れ出してくれる友人なんていませんからねぇ」
皮肉を込めて獏は肩を揺らして笑いながら煙管の煙を吐き出した。笑ってはいるものの、その声はどこか寂しそうな気がした。
「獏さん、寂しそうな顔してますねぇ」
「見えていない人がなにを根拠にいっているのやら」
「見えてなくても、視えるんですよ。心の目です、心眼ってやつですよ」
獏の声真似をしながら、彼に触れるように手を伸ばすと獏の髪に触れた。
結の言葉に獏は一瞬虚を突かれた表情を浮かべたが、ふっと力が抜けた様に微笑むと結の額を軽く小突いた。
結には見えていないがその笑みはいつものような張り付けた作り笑いではなく、張り詰めていた糸が緩んだようなとても柔らかな笑顔だった。
「……ふっ、馬鹿ですね結さんは」
「外に出たいなら、今度一緒に買い物でも行きましょうよ。きっと楽しいですよ」
ぽつりと呟いた結の言葉に獏は返事を返すことなく煙管の煙を吐き出した。
心地よい沈黙が続いていたとき、扉からけたたましい音が聞こえてきた。
「はぁ、煩わしいのが帰ってきましたねぇ」
面倒臭そうに溜息をつくと、獏は煙管を置いた。そしてタイミングを見計らったように店の扉が開かれる。
そこには吹っ切れたように明るく笑う友里と、その後ろでどこか開き直ったように優しく友里を見つめて微笑む栞那が立っていた。
第三章◇夢想う 完
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