第31話
◇
「ようやく目が覚めましたかぁ」
「夢世に残っているかと思いましたぁ」
二人の呑気な声が聞こえて、結の意識は戻った。目の前に広がる暗闇。ああ、ここは現世か。
「おかえりなさい、結さん」
「……ただいま、獏さん」
いつも夢診を終えた結はどこか不機嫌そうに眉を顰めていたのに、彼女は初めて夢から覚めたことにとても残念そうな表情を浮かべて返事を返した。
いつもと違う結の表情に獏はからかうこともせず、ぽんと軽く彼女の肩を叩いた。
「さて、立派な夢香が沢山出来たことですし勘定をしに戻りましょうかぁ」
「いつもより多めにしてくれると嬉しいですねぇ」
獏は機嫌良さそうに出来上がった夢香が乗った盆を持って立ち上がった。
夢世に入る前は茶色に近かった筈の木が、吉夢の夢香木の証である真っ白な色になっていた。
上機嫌そうに鼻歌を歌う獏の後を福寿も追いかけた。
「結さん、早く戻りますよ」
「――……あ、はい」
まるで夢世に残ろうとしている結を引き戻すように獏は声をかけた。
俯いて呆然としていた結はふっと我に返ったように返事をすると、慌てて立ち上がった。
そしていつものように細い廊下を手で伝いながら歩いていく。いつもと同じ変わり映えのない暗闇。だがその瞼の裏にはいつまでもあの星空が映し出されていた。
「ふふふ……これでまた上質な夢香が作れそうですねぇ」
店内に戻った途端獏はすぐさまそろばんを弾き出した。
今時電卓という便利な機械があるというのに獏はそろばんを使い続けていた。しかしその計算は電卓よりも早く、寸分違わない正確なものであった。
ぱちぱちとそろばんを弾く心地よい音を聞きながら、結と福寿は獏の勘定が終わるのを待ち続けていた。
「遠渡さん。貴女も僕のように夢に関する特殊な力をお持ちだとか」
「……え、ええ」
先に沈黙を破ったのは福寿であった。突然話しかけられて結は驚いたもののゆっくりと頷いた。
再び二人に沈黙が流れる。決して話が途切れたのではなく、福寿が結の答えを待っているものだった。
しかし結は素直に答えるべきかどうか迷っていた。吉夢を見てそれを香として売ることで誰かの役に立つ福寿と違い自分は一歩間違えれば最悪の事態を招きかねない力を持っている。
だが迷っていてはいつまでもこの沈黙は消えることはないだろう。結は唾を飲み込むと、意を決して口を開いた。
「――……私自身、獏さんに教えてもらうまで気づかなかったんです」
「奇遇なことに、それは僕も同じですよぉ」
福寿は話を急かすことなく、ゆっくりと結の言葉を待った。
聞きなれたゆっくりとした口調。まるで獏と話しているかのように錯覚して、結は自分でも無意識のうちに言葉を紡ぎ出した。
「あの……信じてもらえないかしれないですけど。私はみた夢を、話すことで……夢を正夢に。現実にしてしまう、力があるみたいです」
獏以外の人物に、しかも初対面の人物にこんなことを話すなんて思ってもみなかった。
福寿がなんと答えるか恐ろしくて、無意識のうちに握った拳は小刻みに震えていた。
「……そうですかぁ。それは凄いですねぇ」
福寿は驚きはしたものの、優しそうに微笑むだけで馬鹿にすることは決してなかった。
どこか獏と似た口調で話す福寿の声はとても穏やかで、胸がぽかぽかと暖かくなるような気がした。
「――実はさっき僕たちが目覚めてから遠渡さんが目覚めるまで十分程の差があったんです」
「嘘、そんなに」
驚いて結は眉を上げた。あの時福寿が指を鳴らしてから夢世を後にするまでそう時間は掛からなかったはずだ。
現世と夢世の時間はそこまで感覚が違うらしい。そしていつの間にかそろばんの音が止んでいる。意識を集中させると明らかに獏の視線を感じた。
恐らくそろばんを弾く振りをして二人の会話を伺っているのだろう。
「ひょっとして僕と獏さんが見ていない夢を見ていたりしませんかぁ」
「――――」
図星だった。結は驚きのあまりひゅっと息を飲み込んだ。その沈黙がなによりもの証拠だった。
しかしもしここで自分が夢をみたと答えたら福寿はなんというつもりなのだろう。しかし少し考えるとその答えは簡単に出た。
「もし、何か見たのであればその夢の話をしてくれませんか」
福寿は結の能力について尋ねてきたのだから、こうなることは明白だった。
結はとても戸惑った。落ち着きなく首を震わせる。先ほど見たのは悪夢と呼ぶものではなかった。しかしそれでも安易に話してもいいものなのだろうか。
また自分のせいで。自分が見た夢のせいで誰かが不幸になってしまうのではないか。
先ほどまで胸を満たしていた暖かな幸福感が、冷たい不安と恐怖に覆いつくされていく。
「恐らく……どう転がっても悪い事態にはなりません。それに福寿さんはそう簡単に死ぬようなお人ではないでしょう」
口を挟んだのは獏だった。カウンターで頬杖をつき愉快そうに笑いながら自分は興味はないですとでもいいたげに再びそろばんを弾き始めた。
それでも結は戸惑ったように俯き続けた。
「ははっ、獏さんのいう通りだぁ。僕はそうは簡単に死なないよ。それに、なにがあっても僕は決して遠渡さんのせいにはしません」
獏の言葉に福寿は腹を抱えて豪快に笑った。その大きな笑い声に結は驚いて思わず顔を上げた。
福寿は結の閉じられている瞼の奥の瞳を見るように、じっと真剣な眼差しを送った。
「同じ夢に関する力を持つ者と出会えたことが嬉しかったんです。だから、どうか聞かせてくれませんか」
福寿の声は嘘をついているようには聞こえなかった。
結はもう一度あの時僅かに垣間見た夢を思い返した。確かにあれは幸せそうな、吉夢そのものだった。
そしてここはいつも獏に夢を話している夢見の間ではない。正真正銘の現世だ。ここで夢を話せば、本当にそれは現実になってしまう。
しかし、それでも。もし、もし本当に自分の力で福寿があんなに幸せそうに笑ってくれるのであれば――あの夢を#正夢__現実__#にしたいと思えた。
「――ほんの僅かしかみていないんですけど。福寿さんが……笑っていました。女の人と、小さな男の子に囲まれてとても、とても、幸せそうに」
その言葉に福寿は一度驚いたものの、次の瞬間にはとても嬉しそうに微笑んでいた。
「ありがとう」
福寿は微笑みながら結の手を両手で包み込んだ。
その手はこれまでの苦労を想像させるかのように骨張り酷く荒れていたがとても優しく温かい手だった。
「さて、この質の吉夢ならこれくらいでいかがでしょう」
「ふむ……」
獏が弾き終えたそろばんを福寿は顎に手を当てながらじっくりと覗き込んだ。
「獏さん、ここからこの着物の値段を引いてくださいませんか」
「あまり着なくなっていた着物なので一向に構いませんが、どうしたんですか急に」
突然の言葉に獏は驚きながらもすぐにそろばんを弾きなおした。
そして着物の代金を引いたとしてもかなり高額な札束をそのまま福寿に渡した。
「ふふ、いやぁ実はこれから長らくぶりに娘と孫に会うんです。獏さんのおかげでしっかりと身なり整えられたので良かったですよぉ」
思いもよらなかった言葉に結は驚きのあまり椅子から勢いよく立ち上がった。
「おやまぁ、それは良かったですねぇ。店に来たときの貴方は見るに堪えないナリでしたが……それならそこそこ身なりの良い紳士に見えますよぉ。着ていられた服はこちらで処分しておきましょうか」
「ええ、お手数かけますがよろしく頼みます」
福寿は札束を受け取ると手ぬぐいに包んで懐にしまった。
結は呆然と立ち尽くしていた。彼は今なんといっていただろう。聞き間違いでなければ娘と孫に会う、といっていた。
それならば、先ほど自分が見た夢は――。
「遠渡結さん」
店を出ていこうとしていた福寿は足を止め、立ち尽くしていた結に声をかけた。
「貴女の力のお陰で僕は幸せになれそうです。ですから、どうか自分自身に自信をもって。早くその目が見えるようになることを祈っておりますよぉ」
店の暖簾を上げながら福寿は極めて明るい口調で結に語り掛けた。
見えないはずの福寿の顔を見つめるように、結は真っ直ぐと彼の方を向いていた。何故だか瞼の裏に先ほど見た福寿の幸せそうな笑顔が映った。
「――あ、りがとう、ございました」
心の底から湧きあがってくる感謝を述べるように結はゆっくりと頭を下げた。
福寿が今までどのような人生を過ごしてきて、あのようなみすぼらしい格好をした浮浪者になっていたのか。そしてそんな彼が何故この後家族に会うことになっていたのかは分からない。
それでも夢で見た通りの福寿の幸せを願わずにはいられなかった。結自身、彼が見せてくれた夢に魅せられて初めて夢を見て幸福感を感じたのだから。
ふとポケットの中の匂い袋を取り出して鼻先に近づけてみる。その臭い袋はまるで福寿の幸福を体現するかのように、暖かな陽だまりのような優しい香りを放っていた。
その匂いを大きく息を吸い込んで胸いっぱいに閉じ込めると、結は獏の方を向いた。
「店長」
「はい?」
廊下の戸棚を開けながら何かを探している獏に結は声をかけた。
獏は目的のものを見つけたようで、戸棚を締めるとゆっくりと結を見た。
「私の力は……役に、立つのでしょうか」
「だから最初からいっているではないですかぁ。貴女の力は素晴らしい、と」
穏やかな言葉を聞いて結は腰を抜かしたように椅子にとすんと腰を落とし両手で目を覆った。指の隙間からは涙が数滴零れている。目が開くことはなくても不思議と涙は流れた。
初めて、この力を誰かの役に立てることができたのかもしれない。呪い続けたこの力を初めて生かすことができた。
福寿の夢に、獏の言葉に救われたように心が軽くなったような気がして、思わず涙が零れてしまった。
「……どうぞ」
「これは?」
静かに涙を流す結に歩み寄ると先ほど戸棚から取り出したものを結の手に握らせた。
「先ほどできた福寿さんの夢香ですよ。今夜は存分にイルカたちと戯れてきてください。きっと良い夢が見られますよ」
涙の痕が残る結の目の下にはくっきりと隈ができていた。
連日連夜原因不明の悪夢に魘されていた結はすっかり寝不足になっていた。
「とても酷い顔してますよ。店に立つ者としてはあまりにも酷すぎる」
「……本当に平気でひどい事をいいますよね、店長は」
獏の皮肉に結は溜まっていた涙を零しながら笑った。この毒舌も獏なりの心配なのだ。
結は何度も笑いながら、握らされた香を大切そうに握りしめた。
「腹が減りましたね。出前でも取りましょうか」
「え、もうお昼ですか」
ふと獏が時計を確認すると時刻は正午を回っていた。
感覚的には半日程夢をみていた気がするが、福寿がこの店に来てから一時間程しか経っていなかった。本当に現世と夢世の時間の流れは曖昧である。
「俺は天そばにしますが、結さんは」
「同じもので」
獏は慣れた手つきでいつも頼んでいる定食屋に電話をかけ、二人でのんびりと茶を啜りながら出前が届くのを待つ。
昼時ともなれば、皆飲食店に赴いてこの店に客が来ることは恐らくないだろう。きっと昼過ぎまでのんびりと店番を続け、時折獏は昼寝に勤しみいつもと変わらない日常が続いていくのだろう。
店の中は様々な香の匂いで充満している。結は獏が渡してくれた湯飲みを両手で包みながら、漂う匂いの一つ一つを確かめるように香りを堪能していた。
ずっとこの穏やかな気持ちが、獏と口喧嘩をしながらものんびりと続いていく平和な日常が続いていけばいいと思った。
「結さん、貴女の視ている夢ですが――」
穏やかな沈黙を破ったのは獏だった。
そういえば福寿が来る前結は夢診をしていたことを思い出した。あの時いいかけた話の続きをするつもりなのだろう。
「貴女の目は夢魔と繋がっているのかもしれませんねぇ」
「――……は」
世間話でもするかのように、獏があまりにも平然というものだから一瞬そのまま言葉を鵜呑みにするところだった。
意味を理解するようにもう一度ゆっくりと獏の言葉を繰り返す。結の目と、夢魔が繋がっているとは一体なんのことだろう。
そもそも“夢魔”という言葉を聞くことが久しぶりすぎて一瞬その言葉の意味すら理解できなかった。
「夢魔が結さんの目を通じて色々と盗み見ているのかも、しれません……断定はできませんが」
夢魔とは夢世に住む夢を操る者のことである。
絹糸のように光り輝く長い白髪の、幻想の様に美しく残酷な夢魔に結の目は奪われた。そして同じ人物に獏もなにか大切なものを奪われたという。
「獏さんもあの人になにか奪われたんですよね。一体何を取られたんですか」
「夢世を出入り禁止にされたんですよ」
獏は苦虫を噛み潰したような苦い顔をした。過去を思い返すように、何かを憎むような怒りを含んだ瞳で歯を食いしばった。
「夢世に行くだけでなく夢を見たり、視ることもできません。俺は夢香をつかって夢を観ることしかできないのです」
「じゃあ、獏さんが夢を集めてる理由ってあの人に会って夢世に入れるようにする為ですか」
自分を嘲笑するように鼻を鳴らした獏は握っていた湯飲みに力を込めた。
今にも割れてしまいそうな程ミシミシと湯飲みは軋み、力が籠った獏の手は小刻みに震えていた。
湯のみの振動し、カウンターに当たりカタカタと音が鳴る。珍しく獏が感情的に怒りを露わにしている。だがそれでも獏は笑みを絶やすことはしなかった。
「何度もいうようですが奪われたものを取り戻すためですよ。その為には俺を夢世に連れて行ってくれる……現世と夢世を繋いでくれる貴女の力が必要なんです。これからも期待してますよぉ」
結局獏は夢魔に奪われたものを答えることはなかった。
しかしその僅かな怒りと優しさが籠った獏の言葉は結の心に衝撃を与えるのに十分だった。
そもそもはその夢魔から奪われたものを取り戻すために互いに協力するという形でこの店に住み込みで働くことになったのだ。
それだというのに結は当初の目的を忘れかけ、平凡な日常が続けばいいだなんて願っていた。
当たり前のように獏に名前を呼んでもらって、当たり前の様に会話をして自分は人間嫌いの獏に少しだけでも近づけていると自惚れていたのだ。
だが改めて思い知らされた。獏が結を傍に置くのは、夢世に入れない自分が結の力を借りて夢世に入り夢魔と会うため。
獏は決して結に優しいのではない。その力を利用しようとしているから。悪夢に魘される結を優しく介抱するのは、目的を果たす前に壊れられたら困るから。
あくまでも自分は獏の道具の一つでしかないのだと、思い知らされて結は悲しくなった。幸福に包まれていた胸が悲しみで上書きされていく。
あの夢魔と同じように、美しい獏もひょっとしたら夢魔と同じような存在で。自分の目を奪った夢魔と同じように、自分も獏に利用されているだけなのではないのかとも考えた。
結は俯いてぐるぐると回る思考を整理した。
本当に獏に利用されているだけなのか。獏は自分のことをなんとも思っていないのだろうか。もし獏に面と向かって貴女は俺の道具です、といわれたら自分は泣くだろうか、怒るだろうか。
――でも、そんなことはじめから分かっているじゃないか。
「……獏さん」
ゆっくりと名前を呼んだ。
その声に獏はいつも通りの間延びした優しい声音で返事をした。
「私は夢が嫌いです。いい夢だとしても、やっぱりできることなら夢は見たくない。でも。それでも、この力が少しでも……貴方の役に立つなら、好きに使ってください」
――利用されている。それでも十分だった。
たとえ道具だとしても。獏が結を利用しているだけだとしても。彼が自分を見てくれることなどなくても。
絶望の淵に落ちた結を救ってくれた。好いてしまった人の役に、こんな自分の力が役に立つのであればそれで十分だと、思った。
そう結論づいた途端、まるで憑き物が取れた様にすとんと肩が軽くなったような気がした。
獏に渡された香を握りしめて、結は久々に心の底から自然と笑みを浮かべられたような気がした。
その結の表情を見た獏は、一瞬驚いたものの結と同じようにどこか複雑そうな、しかしとても嬉しそうな自然で柔らかな笑顔を浮かべた。
普段客人には決して見せることのない、その人間らしい笑顔は結の目に映ることはなかった。
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