第11話
◇
「――何故、こんなところに」
聞き覚えのある声が聞こえた気がして、ゆっくりと目を開けた。
そこには少し驚いたような表情を浮かべている、和服姿の長髪のあの男性――獏さんが立っていた。
私と目が合うと、尚更驚いたようで細い目をこれでもかと丸く見開いていた。
あの余裕綽々な微笑みはどこへやら。眉を顰め、怪訝そうな表情で私を真っ直ぐと見つめていた。
「――……貴女。俺の姿が見えるのですか」
「それ毎回聞くつもりですか? 貴方の姿はしっかり、はっきり、くっきりと見えていますよ」
今度は私の方から歩み寄った。
すくいあげるように長身の彼の顔を見上げると、その長い前髪に隠れた瞳は動揺したように揺れていた。
ふと周りを見回すと、私達は一面真っ黒な空間に立っていた。夜のように真っ暗なその場所は行き止まりも見えず果てしなく広がっている。
しかし暗いという感覚はなく、光に照らされているかのように獏さんの姿ははっきりと見ることができた。
天も地もないが、地に足がついて立っているという感覚もない。寒くもなければ暑くもない。この曖昧でなんとも表現できないこの感覚――そう、ここはきっと夢の中だ。
普段私が見る夢は学校の教室だったり、自分の家だったりと身近な場面ばかり。こんな夢見たいな異空間にいるなんて、今回と前回初めて彼に会ったときと合わせて二度目だ。
「……私、変な夢は見ないのに。なんでこんな変な場所で、会ったこともない貴方を夢でみるんでしょう」
普段、見ず知らずの人にここまで話しかけることはできないのだがここが夢だと分かっているとつい大胆になってしまう。
尋ねるように獏さんの顔を見ると、驚いていた筈の表情がいつの間にか微笑みに変わっていた。
この人はいつもどんな時でも、怪しげな薄ら笑いを浮かべているのだろうか。
「――……ここは夢世ですからねぇ」
「……ゆめ、よ?」
聞きなれない言葉に首を傾げた。
私の顔を見た獏さんはまるで人を小馬鹿にしたような眼差しを向けながら口角を上げた。
するとどこからか風が吹いたように、獏さんの長い髪がふわりと揺れた。
「ここは夢の世。俺達が普段生きる
「つまり私は夢を見ているってことですよね」
「違います。夢世で夢を視ているんです。まあ、正確にいえば夢を視る直前といった方が正しいですかねぇ……」
「は、はぁ……」
そんな馬鹿にした目で見下されても、私には貴方がいっていることがまるで理解できない。
急に現実がどうだの、もう一つの夢の世界がどうのこうだの。見るだの視るだのいわれても分かるわけがない。
「貴女、馬鹿ですねぇ」
「し、失礼な……」
眉を顰めながら首を傾げる角度をさらに深めると、獏さんは心底呆れたように大きなため息をついた。
オブラートに包むことなく放たれた毒の刃は真っ直ぐと私の胸を抉るように貫いた。
あれ、この人こんな性格が悪そうな人物だっただろうか。
「普段、夢を見るときは夢の中の出来事が実際に起こっている出来事だと思っていますよねぇ」
「……いわれてみれば、確かに」
「今この状況を夢だと認識しているということが、貴女が夢世にいるという証拠です」
いつも夢をみているときは、夢の中で起きていることが現実だと思っている。そして目が覚めた時“ああ今夢を見ていたのか”と実感することが殆どだ。
現在のように“今私は夢を見ている”なんて夢の中で気付くことなんてあまりないだろう。
「簡単に説明すると、夢世という大きな屋敷の中にある部屋の一つが“夢”というものになりますねぇ。俺達は今その屋敷の玄関に立っている、というような形です」
「ああ、なるほど。ようやく理解できました。私は今夢世に立っているだけで、夢の部屋を扉を開けていないから“まだ夢は視ていない”ということ……なんです、よね」
「――だから、最初からそういっているではないですかぁ」
なぜこの男は先程からさも人を馬鹿にしたように見下して、ほくそ笑んでいるのか。
現実とは違う夢の世界にいるなどと非現実的な空想のような話をすんなりと理解できているのか自分自身でも分からなかった。
恐らくこれを夢だと分かっているからこそ、多少おかしなことが起きても頭が理解するように処理してくれているのだろう。
「――――」
「あ、あの?」
会話が途切れたと思ったら、獏さんは腕を組み真剣そうな眼差しで私の頭から爪先までなめまわすように見回していた。
この行動は見覚えがあるぞ。ふと脳裏に前回会った時の彼の行動が過って、思わず身構えて目を固く閉じた。
着物の裾が擦れる音がして彼が動く気配がする。
あの綺麗な顔が私に近づいてきて、首筋の匂いを嗅がれ耳元で囁かれる――ああ、何度思い出しても恥ずかしい。
「なに身構えているんですか」
「……え」
しかし彼が近づいているような気配はなくて、その声は先程と変わらない距離から聞こえた。
確認するためにゆっくりと目を開けると、獏さんは物凄く呆れたように腕をこちらに突き出していた。
また馬鹿にされると思ったが、そんなことはなかったようで何故か彼はとても楽しそうに口角を上げた。
視線を降ろせば、差し出されてた指先に小さな巾着袋が下げられているのが見えた。
「どうぞ、差し上げます」
「……とってもいい匂い」
おずおずと両手を差し出すと、手の平の上に巾着袋をぽとりと落とされた。
薄紫色の布地に白いカスミソウが描かれた可愛らしい巾着袋だった。
受け取るとふわりと石鹸のようないい香りが漂ってきた。
「俺が作った匂い袋です。また話したいときはそれを枕元に置いて眠ってください」
「で、でも……夢の中で貰ったものは覚めたら消えてしまうでしょう」
夢は現実ではないのだから、物を受け取ったとしても目が覚めたら消えてしまうはずだ。
欲しかった物が手に入って喜んでいたら、目が覚めてしまってなんだ夢かと嘆いたことは一度や二度じゃない。
不安げに手の中の匂い袋を握りしめると、気味が悪いくらいにその匂い袋の布の肌触りや質感が手の平に伝わってくる。
そもそも夢の中だと感覚が曖昧になるはずなのに、まるで現実で物を受け取ったかのように匂いまでもしっかりと感じることができる。
視線を上げると獏さんはなにかを企んでいるかのように怪しい笑みを浮かべた。
「ここまでこれた貴女なら大丈夫ですよぉ。それでは次は夢の中でお逢いできるといいですね――」
次の瞬間突然どこからか突風が吹いてきて、獏さんは煙のように忽然と姿を消してしまった。
ちょっと待って。まだ聞きたいことは山ほどあるのに――。
伸ばした手は彼がいた場所の宙をかいて、彼の声が段々と遠くに聞こえていった。
◇
「――おい、いい加減起きろよ。風邪ひくぞ」
松笠の声で目が覚めた。
視界の端でカーテンが大きな風に揺られている。
ゆっくり体を起こし辺りを見回すと授業をしていた筈の教授の姿はなく、教室にいる学生たちの姿もまばらだった。
「――……あ、れ」
「どんだけ熟睡してんだよ。もう授業終わったぞ」
松笠が机に座って、腕を組みながら呆れたように笑っていた。
ぼんやりとした頭で時計を見ると眠り始めて一時間以上が経っていた。ほんの十分程しか経っていないと思ったのに、授業中の居眠りで熟睡するなんて。
「スズたちは?」
「声かけたんだけど、お前全然起きなくてよ。この後合コンがあるつって先帰ったよ。つーか、授業中に爆睡するってお前どんだけよ」
「うそ、そんなに寝てるつもりなんかなかったのに」
友人たちが帰ることにも気が付かないなんて。
呆然としながら慌てて立ち上がると、手からなにかがぽろりと床に落ちた。
「おい、なんか落ちたぞ。なんだこれ、お守りか?」
「――う、そ」
松笠が拾いあげ、私の手の平に乗せてくれた物をみて目を見開いた。
驚くべきことに夢の中であの人が渡してくれた匂い袋が、確かにそこにあった。
――嘘だ。確かにあれは夢だったはずなのに。眠る前はこんなもの持っていなかったのに。なぜ、これを私が持っているんだ。
「獏さん……?」
「あ? バクサン……爆散?」
夢だと思ったがあれは実は現実で、今も近くに彼がいるのかもしれない。
匂い袋を握りしめながらあの長身の和服姿を探し教室中を見回すが、教室には私と松笠しかいない。
あんな目立つ格好だ。あの格好で校舎を歩いていたらすぐに噂が広がるだろうし、あんな美形をスズが見つけようものならすぐに私に連絡が来るはずだ。
「お前寝ぼけてんのか? ほら、早く帰ろうぜ」
呆れたように笑いながら松笠はいい加減起きろよ、と私の頭を軽く小突いた。
手の中の匂い袋を鼻に近づけたが、夢の中ではあれほど感じていた匂いがなにもしない。
荷物を持って急かすような表情を浮かべる松笠の後を慌てて追いかけた。
あれは夢だったのだと、はっきりと分かっているのに。私の手の中にあるこの薄紫色の匂い袋は、あれは夢ではないのだと私に伝えているかのようだった。
◇
ぼんやりと考え事をしながら松笠と共に駅への道を歩いていた。
駅への近道となる大きな噴水がある公園を並んで歩く。夕方の公園の中は無邪気に駆け回る子供や、噴水の周りに座って愛を囁く学生カップルで溢れかえっている。
「……なあ、おい。聞いてるか? 結」
松笠の声でふと我に返る。
匂い袋を握りしめ先程の夢のことを考えていたため、松笠の話を全く聞いていなかった。
「え、ごめん。全然聞いてなかった」
「…ったく。いや、今日スズ合コン上手くいったら彼氏できんのかなぁって」
「行ってほしくないなら止めればよかったのに」
「別に、んなことねぇよ。そういや、お前は合コンとか興味ねぇの?」
「んー……騒がしいのは苦手だからなぁ。そんなに急いで彼氏欲しいわけでもないし……今のところは行きたいとは思わな――」
他愛のない会話をしていたとき、ふと視界の端に黒い塊のようなものが見えた気がして思わず足を止めた。
ゴミ袋にしては大きすぎるし、何かもがくように動いている。よく見てみるとベンチの前に黒いローブを被ったお婆さんが、杖をついて立ち上がろうとしていた。
先程から何人もお婆さんの前を通り過ぎているのに、まるで彼女の姿が見えていないように誰も手を差し伸べていなかった。
「大変!」
「おい!」
急いで立ち上がろうとしているお婆さんに駆け寄って、その体を支えた。
お婆さんの手は皺くちゃで死んだ人の様に冷たくて、その背中は酷く丸い。まるで昔の童話に出てくる魔女のようだった。
私が体に触れると、突然のことにお婆さんの身体が驚いたように震えた。
「大丈夫ですか!?」
「……私のことが見えるの?」
おかしなことを聞く人だ、と思った。同じ言葉を一日で二度も聞くなんて思いもよらなかった。
その言葉の意味を深く考える前に座り込んでいたからどこか怪我をしているのではないかと心配してお婆さんの顔を覗き込んだ。
お婆さんは目が不自由なようで、その目は固く閉じられている。彼女の身体を支えながら目の前にあったベンチに座らせた。
「ご親切にどうもありがとう」
「いえ、どういたしまして」
「ふふ……とても優しい香りがするお嬢さんに、幸せが届きますように」
お婆さんはお礼をいいながら私の身体を優しく抱きしめた。
人を助けてお礼をいわれるのはとても気持ちがよくて、私は堪らず微笑んだ。
ベンチに座って落ち着いたようににこにこと微笑むお婆さんと手を振って別れて、足を止めてこちらを訝し気に見ている松笠の元に戻った。
黙ってみているなら少しは手伝ってくれればいいというのに、困っているお婆さんを放っておくなんてなんて薄情な男なんだろうか。
「……お前、やっぱ寝ぼけてるだろ」
「松笠こそ黙って突っ立ってないで少しは助けてくれたって――」
松笠は信じられないものを見るような目で私を見つめていた。そのいつもと違う雰囲気に思わず押し黙る。
彼はなにかを振り払うように大きく首を横に振り、私の腕をつかんで大股で歩き始めた。
「早く帰るぞ。お前、疲れてんだよ、早く帰って体暖めて早く寝ろ」
「ちょっとなによ急に!」
松笠はお婆さんが座るベンチを一切見ることなく、まるで一秒でも早くその場から立ち去りたいような速足で歩く。
私はわけが分からずなすすべもなく松笠に引っ張られるだけだった。
帰り際、もう一度あのベンチを見るとお婆さんは目が見えないとは思えない程ぎょろりとした大きな目を見開いていた。
まるでご馳走を前に舌なめずりするように、恍惚とした不気味な表情を浮かべて私に向かって手を振り続けていた。
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