第38話


「――――」


 結は目の前に広がっていた光景に言葉を失った。

 真っ暗な空間に、無理やり引きちぎられたようなネガフィルムが幾つも空中に浮いている。よく見ると全てのフィルムに別々の映像が断片的に写されている。

 まるで映画館で同時に何十もの映画を見ているかのように、様々な音、映像、情報が視界に、耳に、頭の中に無理やり流れ込んできてとても気持ちが悪い。

 状況が理解できず呆然と立ち尽くしていると、フィルムが徐々にこちらに近づいてくる。否、自身があのフィルムの中に。あの夢の中に吸い込まれようとしている。


「ば、獏さんっ!」


 あの不安定な夢の中に自分が入っていってしまったらどうなってしまうのだろう。

 溜まらなく不安になって先ほどまで隣にいた獏の名を呼んだが、声は闇に吸い込まれるのみで誰の返事もない。勿論獏の姿も見えない。


「いやだっ、いやだ――!」


 駄々をこねる子供の様に涙を流して頭を振り乱して、必死に抵抗した。

 助けを求めるように握ったままの匂い袋に必死に力を込めた。これさえあれば獏が助けに来てくれる。きっと彼なら来てくれる。そう思っていた。

 しかし抵抗の余儀なく、あの散らばったフィルムの中に結の身体が吸い込まれた。


「―――っ」


 逃げないと決めたはずだった。

 以前福寿に見せてもらった夢はとても幸福で、ずっとみていたいと思っていたのに。

 目の前に広がる光景はあまりにも見たいとおもえる光景ではなかった。


 まるで自分が高速道路にでも立っているかのように、いや、自分以外の全てが何十倍もの速度で動いているかのようだった。

 色んな情報が頭の中に廻り廻って何が起きているかわからない。唯々とても酷く気持ちが悪くて、気分が悪い。


 例えるなら――いや、事実。色んなジャンルの物語りを適当に切り刻んで、無理やり雑に繋げて作ったような見るに堪えない酷い夢だった。

 なんの物語り性もなく、脈絡もなく、もはやどんな夢かもわからない。


 瞬きをするたび、シャッターを切ったように景色が変わる。

 賑わう町に立っていたと思ったら、次の瞬間には空から落ちている。

 浮遊感が怖くて目を閉じれば、今度は誰かに追われている。

 見るも耐えない夢だと思って目を閉じれば夢が変わる。ようやく幸せな夢だと思って幸せを噛み締めようと目をとじれば、また夢が変わる。


 ぐるぐると夢が回る。見る夢も、視ている夢も全てがごちゃ混ぜになっているため自分が今立っているのか座っているのか、はたまた本当に夢を見ているのかも分からなくなる。

 景色が回っているのか、自分が回っているのか分からない。こんな夢見たこともない。

 すぐに夢から覚めたい。こんな夢ならば見たくない。吐き気に襲われて思わず蹲る。


「気持ち悪い……」


 夢の中の人物はホラー映画のように、体の節々がかけて居たり顔が気味悪いくらいに伸びていたり。とても直視できたものではない。

 自分が見る悪夢なんて笑えてしまう程、夢倉が作った夢香モドキはとても酷い。

 塵という言葉がまだ褒め言葉に聞こえてしまう程、あまりにも有害で酷いものだった。


 きっと現世でこの香を焚いてもあまりにも夢の内容が曖昧だから、何度焚いても夢は見られない。

 夢倉がこの夢香を試しても夢が見られなかったのは、この香にはあまりにも様々な夢が詰まりすぎているから。

 この香自体もこの膨大に詰め込まれた夢の中から自分の夢を見せようと、全ての夢がぶつかり合っている為相殺されて結局は何の夢も見れないで終わる。

 文字通り“夢も見ないで眠る”ことができるわけだが。きっと目覚めた時の不快感と疲労度は想像を絶するものだろう。


 こういう状況になっているのは、この香を“夢見の間”で焚いているからだ。

 夢世に近いあの場所では、夢はなんの遠慮もなく全力で力を発揮できる。だからこの香に混ざっている夢達が自分の存在を訴えようと必死にアピールしているのだ。

 だからここまでぐるぐると夢が回り、とても不快で、気持ちが悪い空間が出来上がってしまったわけだ。

  獏のいうとおりよくもこんな香を商品として店に並べられたものだ。蹲りながら結はそこで初めて夢倉に対し怒りを覚えた。


「うっ……」


 とうとう吐き気を堪えきれず嘔吐してしまった。

 しかし嘔吐物は出てこない。口から出てきたものを見て思わず目を丸くする。

 結が吐き出したのは夢のネガフィルムだった。ジグソーパズルのピース程細かなフィルムを気味が悪い程何度も何度も吐き出した。

 そこには獏との想い出。鈴と松笠と過ごした日々。そして亡き両親が写されている。


 ――嗚呼、これは自分の、記憶だ。

 力が抜けた手の中から、匂い袋が吐き出したフィルムの上にポトリと落ちた。


「……っ、だめ。やだ。だめ」


 大切な小さな匂い袋が、ずぶずぶと自分が吐き出したフィルムの中に飲み込まれていこうとしている。

 いやだ。自分と彼を繋ぐ大切なモノが、記憶に、夢に変わってしまう。

 結は狂ったように呟きながら匂い袋を拾うために、フィルムをかき分け探した。

 しかし自分の身体はその匂い袋を夢に変えようと、壊れたロボットの様に何度も嘔吐を繰り返した。


「げほっ……っ、は――」


 身体の中の全ての内容物が無くなって、吐こうにもこれ以上はなにも出てこなかった。そこではたと結は動きを止めた。


 ここは、どこだ。

 なんで、自分はここにいるのだろう。

 自分は今まで何を必死に探していたのだ。

 そもそも自分は誰なんだ。


 体内にあった夢を、記憶を全て吐き出して憔悴しきった結はもう自分が何者かも判断できなくなってきた。

 あれほど恋焦がれていたあの長髪の美しい男の顔が、徐々に消えていく。

 その代わりに思い浮かんだのは、自分の目を奪った狡く美しい女の顔だった。


 嗚呼、そうか。自分も夢の一部だったのか。

 なあんだ。自分は生身の人間ではなく、夢の中の住人だったのだ。

 ふっとそんなことを考えると、気分が少しだけ楽になった。


 意識が遠のいていく。夢世で意識を無くしてしまったら自分は一体どうなってしまうのだろう。

 このまま意識を失ってしまったら目覚められないような気がする。

 こんな夢を前も――いや、何度も見たことあるような気がする。


 もがこうにも、は体が動かない。

 抵抗しようにも、瞼はいうことをきかない。

 

 でも、これでいいのかもしれない。

 結は夢を見たくなかった。今思えば簡単な話だった。

 夢を見たくなければ、夢の中で、この暗闇の中で眠り続ければいいだけの話だ――。


「――……間に合った」


 夢に意識を飲み込まれる寸前、聞き覚えのある声聞こえた。

 そして今にも倒れようとしていた意識を鷲掴みにして思い切り引き上げられたかのように衝撃が結を襲った。

 重い瞼をこじ開けて、ゆっくりと視線を動かすと見覚えのある男がそこに立っていた。

 この男の顔は知っている。このよく分からない男のことを、結はよく知っていた。


「しっかりしてください。ここで眠ったら夢に飲み込まれます」

「――……ば、くさ……」


 蹲り倒れかけた結の腕を掴んで支えていたのは獏だった。

 いつもの笑みは消え必死そうに、心配そうに結を見下ろしている。 

 結が掠れた声で返事をすると獏は安心したように、いつものような柔らかい笑みを浮かべた。


「この男はすぐに見つかったのですが、思ったより結さんは夢の奥深くまで沈んでいて探すのに時間がかかってしまいました……さっさとこんな夢出ましょう」


 よく見ると、獏は放心状態でぐったりとしている夢倉を小脇に抱えていた。

 何故こんな夢の中で彼はこんなにも平然としていられるのだろう、と回らない頭の中でぼんやりと考えた。


「いいですか、何があっても現世に戻るまで意識を保っていてくださいね。これ以上深く沈まれると、幾ら結さんがいるとはいえ俺が踏み込めなくなりますので」

「は、い」


 獏が何をいっているかの半分も理解できないまま結は返事を返した。

 獏は背に結を背負い、片手で結の身体を支え、もう片方の手でぐったりしている夢倉の襟元を掴み引きずっている。

 流石の彼も同時に大人二人を抱えることはできないようだ。

 あまりにも夢倉の雑な扱いに、結は少しだけ同情した。

 しかし無知とはいえこの夢を作り出したのは他でもない夢倉なのだから、ざまあみろ、と小声で呟いた。


「おやおや、結さんもいうようになりましたねぇ。全くもって結さんと同感ですねぇ」


 獏はくつくつと肩を揺らして笑った。悪態づいたことを聞かれていたことが恥ずかしかったのか、結は顔を隠すように獏の肩に頭の乗せた。

 

「二人も運ぶとなると、いささかキツいですねぇ」

「獏さんは大丈夫だったんですか」

「少々手こずりましたが、結さんが一緒に夢に入ってくれたお陰でこの馬鹿や貴女も助けられたので丁度よかったです」


 緊張感のない間延びした声音に、結はようやく自分が助かるのだとほっと息をついた。

 獏の背中に凭れながら、彼の首に回した腕に力を籠める。


「なんで……たすけにきてくれたんですか」

「いったでしょう。貴女が悪夢に囚われても、俺が必ず助けると」

「……ありがとう」


 人の名前は憶えられないのに、何故そういうことはしっかりと覚えているのだろう。

 覚えていてくれたことが嬉しくて。自分を見捨てず助けに来てくれた。例え利用価値があるから助けているだけだとしても、結の胸はいいあらわせない幸福感に包まれた。

 涙を悟られないように獏の肩に顔を埋めた。そして自分が生きていることを、獏の存在を確かめるように彼の体温を全身で感じた。

 とくん、とくん、とお互いの鼓動を感じる。ああ、自分たちは確かに生きている。

 この夢はとても居心地が悪いが、ずっと獏の背負われている時が続けばいいと思った。


 ふと自分の手を見ると、先ほど飲み込まれたはずの匂い袋がしっかりと握られていた。

 ああよかった。失くしていなかった。彼が初めてくれた大切なものを、なくさないでよかった。

 ふとその匂い袋を鼻先に近づけると、ふわりと心地よい香りがした。この酷い夢の中にも、こんな良い香りを放つ夢が紛れていたんだ。


「――いい香り」


 煙管の匂い。薬のようなツンとした香り。そして幾つもの香が混ざった甘いような酸っぱいような、表現できない香り。

 それら全てが絶妙なバランスで混ざり合ってできた心地よい独特な香り。ああ、この匂いは獏の香りだ。

 獏は結は“いい匂い”だといっていたが、結にとっては獏も“いい匂い”がする相手だった。


「もうすぐ現世につきますよ。結さんよく頑張りました」

 

 折角夢の中では目が見えるのに、獏の顔が見えずその大きな背中しか見られないのはとても残念だ。

 でも恋しい男の香りに、体温に包まれていられるとはなんて幸福なことだろう。

 

 このまま帰りたくないな、なんて後ろ髪引かれていると、ふと後ろからふふふと聞き覚えのある笑い声が聞こえた。

 ちらりと背後を確認したが、そこは暗闇が広がっているのみで誰の姿も見えなかった。

 その瞬間視界が光に包まれたかのように真っ白になった。

 嗚呼、ようやく現世に戻った。いや、帰ってきてしまった。そして張り詰めていた意識の糸がぷつんと切れて目の前は底知れぬ闇に包まれた。

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