第37話
◇
出掛けてから一時間も経たないうちに、夢倉という客人を連れて店に帰ってきてしまった。
「ここが夢見堂ですか……」
「今開けるので暫しお待ちを」
獏は懐から鍵を取り出して、扉を開けた。そもそも戸締りなどしなくてもコツが掴めなければこの扉はそう簡単に開けることはできないのだ。
しかし獏はまるでその扉の急所を知っているかのように、軽い一蹴りで簡単にあの建付けの悪い重い扉を開けて見せた。
夢倉は初めて入るであろう夢見堂に興味深そうに店内を見回していた。
「……とても古い店ですね。建付けとか直さないのですか」
「面倒なので直しません。蹴れば開きますしねぇ」
夢倉の問いかけにぶっきらぼうに答える獏。夢倉に無理やり買わせたかりんとうを自室に隠しに客人を一切気にすることなく二階に上っていった。
夢倉と結の二人きりになった店内はしんと静まり返った。結は店の入り口に立ち尽くしたまま、夢倉は興味深そうに店内の商品を手に取って見ていた。
「あ、あの……お茶でも飲みますか」
気まずい沈黙をどうにかしようと結は恐る恐る声をかけた。
香を手にしていた夢倉ははたと結の方に視線を動かして、獏に対する張り付いた笑顔ではない柔らかな笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます。でもお気遣いなく――」
「お茶なんかいいのでさっさと夢見の間に案内しちゃってくださいな」
会話を盗み聞きしていたかのようなタイミングでひょこりと二階から顔を覗かせて獏は冷たくいい放つ。
その言葉に夢倉の眉が反応するようにぴくりと動く、彼が獏の挑発に不快感を示しているのは明らかだ。
しかし必死で冷静を装っているように笑みを崩すことはない。とんだプロ根性だ。
獏の一挙一動が全て気に喰わないといわんばかりの夢倉。そして獏も夢香の件を除外したとしても夢倉雪見という男を苛めることを楽しんでいるようにしか思えない。
もしかしたらこの夢倉という男は松笠と同類かもしれない。
「あの……こちらへどうぞ。暗いので、ええと、これを持って下さい」
取り合えずいいつけ通り、夢倉に手持ち行燈を差し出して夢見の間へ案内する。
恐る恐る声をかけると、夢倉は結に対しては一切嫌悪感を見せることなく後についてきてくれた。
「あ、そこ段差がありますのでお気をつけて」
「っ……すみません。ありがとうございます」
いつもと違う人物がいて緊張しているのか、夢見の間に続く廊下にある僅かな段差に躓いてしまった。
いつもならばこんなところで躓いたりしないのに、どうも調子が狂う。
夢倉に支えて貰わねば今頃自分は客人の前であらぬ醜態を晒すところだった。想像しただけで結の顔はかあっと熱くなった。
「この廊下を真っすぐ進めばよいのですね」
「は、はい。突き当りの部屋になります」
「私が先行しましょう……さあ、手をどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
夢倉は押しつけがましいことなくあくまでも自然に結から灯りを受け取って、その手を引いた。
なんと純粋な優しさに満ち溢れた紳士的な男性なのだろう。あの捻くれた獏に爪の垢を煎じて飲ませたいと結は心の底からそうおもった。
それでもやっぱり夢倉のあまり慣れていない先導より、獏の方が安心感があって歩きやすかった。
「あの、店長が失礼なことばかりいってすみません。悪い人ではないんですけど……」
「いえ。変わり者だという噂は聞いていましたし……貴女も大変ですね」
「はは……慣れてしまったので大丈夫です」
他愛のない会話をしながら、暗く細い廊下を歩いていく。
夢倉は壁一面に並んだ引き出しを行燈で照らして興味深そうに見つめている。
「これ、全て夢香木なんでしょうか」
「全て店長が一人で管理しているので私が触れたことはないのですけど……この引き出し全てに夢香木が入ってるみたいですね」
「……何故、こんな膨大な量の夢香木が」
信じられない、という驚愕の感情がその声音から伝わってくる。
恐らくこの夢倉という男はどうやって夢香木が造られているか知らないのだろう。
「夢倉さん。もしかして夢香がどうやって作られているか、ご存じないんですか」
「――……お恥ずかしい話ですが。私が作った夢香は、受け継がれていた夢香木を使用したものです。何度調べても自作で夢香を作ることなんてできませんでした」
獏が話していた“夢がつぎはぎになっている”というのは、夢倉が幾つもの夢香木を削りそれらを混ぜ合わせて無理矢理に一つの夢香を作り出したからだろう。
本来夢は一つの物語だ。そこに無理やり他の夢を混ぜ合わせたら、たとえ吉夢だったとしても悪臭になってしまうのは当然だろう。
夢香木の作り方は至ってシンプルだが、普通の人には決して真似できない。獏のいうとおり、正真正銘この現世で獏にしか作れない香なのだ。
しかし獏しか作れないはずの夢香木が何故夢倉の店に受け継がれているのであろうか。
「ここがその部屋ですね」
「はい。夢見の間といいます」
襖を開けてその先に広がった光景に夢倉は驚き目を丸くした。
そこに広がるのは灯り一つない暗い暗い四畳半の狭い和室。暗所恐怖症の者が入ろうものならすぐに卒倒してしまいそうな程の息が詰まりそうな暗い、暗い部屋である。
本当にこの部屋は違う世界に入ったかのように空気が変わる。冷たいときもあればじっとりと生暖かい。
そして今日は冷蔵庫の中にでもいるかのような冷気が流れている。夢倉の名を表すかのようにしんしんと雪が降り積もっているかのような、静かで、暗く、重い。
ポケットの中の匂い袋を取り出すと、ほのかに冬の香りがした。
「ここで夢香を作っているんですよぉ。どうぞお座りになってください」
振り返ると、入り口に凭れかかり不敵に笑っている獏が立っていた。
二人を通り過ぎて、中央にどかりと座る。そして獏に促されるままに、向かい合う形で夢倉も座った。
「作るって……香木もなにも見当たりませんが」
「はっ、夢香を作るのに香木は必要ありません。必要なのは、そこそこ太く大きさのある木材のみです。下手をすれば海に流れ着く流木、林から拾ってきた木でも作れますよ」
手に持っていた木材を夢倉に投げ渡す。
いつもはもっとそれらしい木を使用するよいうのに、今回は態々人工的な角材を持ってきたようだ。
「貴方達にこんな出来損ないの香を作らせてしまったのは元はといえば俺の責任です。
仕方がありませんが、貴方の出来損ないを使って夢香の作り方を教えて差し上げましょう。それを知った上で作れるものならどうぞ作ってみてください。まあ、不可能でしょうが」
冷たい表情で挑発するように笑う獏に、夢倉は笑みを消し眉間に皺をよせ鋭く獏を睨みつけた。
覚悟を決めるように膝の上で拳を握り、一度大きく息をついた後、分かりました。と真っ直ぐと獏を見据えた。
「結さんは出て行ってください。今の貴女にはいささか刺激が強すぎる夢ですから」
獏は隣に座っていた結の身を案じるように声をかけた。
しかし結は立ち上がろうとはせず、なにか決意をしているように頑なに動くことはなかった。
「結さん?」
「ここにいます。ここで一緒にその夢を見ます。私は貴方の役に立つと決めましたから」
利用されるなら、その道具としての役目をしっかりと果たすのみ。
いつの日か来るであろう、獏が奪われたものを取り戻す日の為に自分は少しでも多くの夢を見る必要がある。
夢は見たくない。でも、獏の役に立つと結は固く決心していた。
どのような形であろうと、自分のこの力を隣にいるこの男が認めてくれたのだから。
結の言葉に獏は驚いたように目を丸くした後、嬉しそうに微笑んだ。
「宜しいでしょう、ならば共に」
獏はそれ以上結を止めることはなかった。そして夢倉が作った夢香に火をつけた。
煙があがり、白い煙が部屋中に充満し始める。初めての経験に夢倉は驚いたようにあたりを見回す。
そして煙はいつものように火事だと思われるくらい部屋の中を真っ白に包み込んだ。しかし不思議なことに息苦しさは感じない。
白い煙の向こうから漂ってくるのは、酔ってしまいそうな甘い甘い匂い。度数のきつい果実酒を飲んで酔っぱらってしまったかのような、目が回る香り。
目が、いや頭の中がぐるぐると回る様にとても気持ちが悪い。逃げるように目を固く瞑って、お守りのように獏がくれた匂い袋を握りしめて、夢の世界に吸い込まれていった。
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