第2話

◇第一話/夢香る



「今回の企画は佐倉のアイディアでいくわ! 期待してるわよ、エース」

「はい、頑張ります!」


 会議室。緊迫した空気の中で社長の声がしんと静まりかえる室内に響き渡る。

 社長からの期待の眼差し。そして社員の視線を一身に受けながら由乃は椅子から立ち上がり大きな声で意気込みを述べた。

 今日の会議は新しい雑貨製品の企画会議。各自持ち寄ったアイデアの中でプレゼンを行い、その中で由乃が考案した企画が通ることとなったのだ。


 由乃が勤務するのは小さなデザイン事務所。社員数十数名程の小さな事務所ながら、ロゴデザイン等のグラフックをはじめ雑貨等のプロダクトデザイン等多くの仕事を手がけているその手の業界ではそこそこ有名な事務所である。

 この会社の社長である津山蘭つやまらんは由乃が学生の頃から尊敬していたデザイナーの一人であった。

 そんな憧れのデザイナー、津山から期待をされているということが何よりも喜ばしく、由乃はこの仕事にとても誇りを感じていた。


 祝福と期待が籠った沢山の拍手を受けながら由乃は深々と頭を下げた時、奇妙な感覚に襲われた。

 この光景を自分が一度体験した事があるような既視感――デジャヴというものだろうか。

 自分を指名する社長。上司部下たちの鳴り止まない拍手。喜び張り切る自身の姿。まるでコマ送り映像のように断片的に頭の中で再生される。

 そう、自分は確かにこの光景を見た事がある。確証はないが、確信があった。


 由乃は深々と降ろしていた頭を上げて目を疑った。

 拍手は永遠と鳴り止むことをしらない。その音はどこか遠くに聞こえた。いや、自分の耳元のすぐ傍で聞こえたり、どこで音が鳴っているのかが分からない。

 止まない拍手を送る同僚達の様子を不安げに窺うと突然彼らの顔がぐにゃりと歪んだ。そもそも目の前にいる彼らが先ほどまで会議を行っていた社長や同僚達だと認識できなかった。

 正しくはきっと自分の知る同僚達の筈なのだが顔がはっきりと識別できないのだ。人物だけでなく、空間自体が歪みはじめて足元が覚束ない。そもそも自分はいまきちんと立てているのかも分からなかった。

 これは自身の体調不良が原因なのだろうか。混乱する頭の中で由乃は必死に考えを巡らせた。

 この状況を考えれば考えようとするほど頭の中はぐるぐると回り始めた。いや、頭の中が回っているのではない。視界が――いや、この世界自体が回っているのだ。

 歪んでいた空間が由乃を中心に猛スピードで回転している。四角い部屋なのか、丸い部屋なのか。まるで泥酔しているかのように三半規管がおかしくなり吐き気に襲われる。


 これは現実なのだろうか。いや、こんな事が現実に起こるわけがない。

 それならば自分は夢を見ているのだろう。それならば一体いつから? どこからが現実でどこからが夢なんだ。

 込み上げてくる吐き気を口元を抑えながら必死に抑え、自問自答を繰り返していた時ぴたりと拍手の音が止んだ。

 突然静寂に包まれた空間は回転を止めた。目の前にいた同僚や社長は忽然と姿を消し、会議室に立つのは由乃一人だけだった。


「――ゆ、夢」


 そうだ、これは夢だ。夢でなければ世界が回るわけもないし、あんな気味が悪い世界が現実にあるわけがない。漸く現実に戻ってこれたことに由乃は安心したように息をついた。

 腕時計を見ると、時刻は正午を過ぎているような気がした。気がした、というのは時計の針がぼやけてはっきりとした時間が読み取れないからだ。

 ああ、もう昼休みできっと皆昼食を摂りにいったのだろう。だから会議室はもぬけの殻なのだ。

 早く自分も休まなければ、と会議室を出ようと扉に手をかけたところで目の前が突然真っ暗になった。


「――先輩大丈夫ですか?」


 目を開けると、眼前には心配そうな表情をした桃川が立っていた。

 次に視界に入った時計は十二時半を指していた。なんということだ、貴重な昼休みが半分も過ぎてしまっている。

 ゆっくりと身体を起こし自分の状況を確認する。自分のデスクに突っ伏して暫く眠っていたようで、両腕の痺れがそれを物語っている。

 確か先ほどまで企画会議が行われていた筈だというのに、その後の記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっている。自分がどうやってデスクに戻ってきたのかも思い出せない。


「……桃ちゃん。私どれくらい寝てた?」

「寝てたのは三十分位ですけど……会議が終わって、デスクに戻ってきた途端に倒れこむみたいに寝てました。汗酷いですけど、大丈夫ですか」


 桃川にいわれ額に触れてみると、じんわりと汗が滲んでいた。

 会社で眠った上に悪夢に魘され汗を滲ませていたなんて酷い醜態だ。誤魔化すように笑いながら額に滲んだ汗をハンカチで拭った。

 頭の中には先ほどまで見ていた夢が鮮明にこびり付いている。正直どこまでが現実でどこからが夢なのかの判別ができていない。


「……酷い夢見てた気がする」

「疲れてるんじゃないんですか? 全然動かないから死んでるかと思いましたよ」

「うーん、最近寝ると疲れるんだよね」


 桃川は無事に由乃が眼を覚まし生きていたことを確認すると由乃の向かいにある自身のデスクに戻った。

 桃川は由乃にとても懐いており由乃も彼女の教育係として面倒をよくみていた。

 先輩後輩という関係でありながら、二人はとても仲が良い。なので休み時間はこうして向かい合っていつも昼食を一緒に食べているのだ。


「それヤバいやつですよ。寝て起きて疲れてるって、まだ体が睡眠を欲してるってネットで見ましたよ」


 女性らしい可愛く小さな弁当箱を開けながら桃川は心配そうに言葉を漏らした。

 由乃は小さく欠伸をしながら、寝ぼけた頭を起こすためにコーヒーを飲んだ。


「これでもちゃんと寝てるんだよー。ほら、私睡眠第一だから」

「えー、絶対働きすぎですって。次のプロジェクトも先輩がリーダーでしょう? 忙しくなる前に有給とって休んでくださいよぉ」


 この業界は寝る間を惜しんで仕事をしろというけれど、由乃は何より睡眠を大事にしていた。

 寝なければいいアイディアは生まれない。やるべき時はきっちり働き、休む時はしっかり休む。

 無論デザイナーという職業上休めない時もあるが、それでも必要最低限の睡眠はしっかり取っているつもりだった。

 それだというのに、なんなんだこの日に日に増していく気だるさは。

 桃川のいう通り、実は本当に疲れていて。今の睡眠量では足りず体はまだ休息を欲しているのだろうか。自分は過労死してしまうのだろうか。

 そもそも桃川と話しているこの状況は現実なのだろうか。先ほどの妙に現実らしい夢が鮮明に甦り、疑心暗鬼になってしまう。

 そんな考えが頭の中をぐるぐると巡り、桃川の問いに答え終わった由乃はうーと唸りながらデスクに額をぶつけながら再び突っ伏した。

 額にじわじわと痛みが広がっている。その痛みがああ、これは夢ではなく現実なのだと教えてくれてようやく由乃は安堵した。


「由乃先輩お昼食べないんですか? 卵焼き食べますか」

「んー……食欲ない。ありがとねー桃ちゃん」


 桃川は可愛らしい手作り弁当から卵焼きを摘むと由乃に差し出した。後輩の好意を無下にするのは申し訳ないが、食欲などなかった。

 断られた桃川は酷く心配そうに肩を竦め、食べられなかった卵焼きを口に運んだ。

 突っ伏しながらデスクに置かれた朝コンビニで買ったおにぎりが目に止まる。

 食べることがなによりも好きなはずなのに、食欲が全くわかない。とうとう自分は本格的におかしくなって来たようだ。

 忙しくなる前に桃川の忠告通り有給を取ってゆっくり休もう。そう考えていると瞼が重くなってきた、今日の昼休みは睡眠時間で潰れそうだと思いながら由乃は目を閉じた。


 次に目を覚ました時には時計は休み時間終了の五分前を指していた。

 時間的には二十分ほどの睡眠だが、不思議と身体が軽くなっていた。僅かだが久々に夢を見ずにぐっすりと眠れたような気がする。

 身体を起こすとデスクの上には見覚えのないコンビニ袋が置かれていて、思わず首を傾げた。


“疲れた時には甘い物ですよ! 無理せず頑張ってください! 桃川”


 袋に張られた付箋を取り袋の中身を確認する。

 その中には栄養ドリンクやチョコレート菓子、コンビニスイーツやおにぎりなど沢山の食料が入っていた。


「ありがとー……桃ちゃん」

 

 向かいの桃川はポッキーを一本咥えながらピースをしている。

 僅かの睡眠と後輩の気遣いで少し元気を取り戻りた由乃はおにぎりと栄養ドリンクで昼食を取り、午後からの業務に向かうのであった。

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