第35話
◇
襖を開くと古びた本の少しかび臭い香りと、様々な香の匂いが混ざった不思議な香りを感じた。
「汚い部屋ですが、どうぞ」
お世辞にも綺麗とはいえない程、相変わらず獏の自室はあまりにも汚かった。
直接その惨状を目にしたことはないが、見えなくてもその部屋のありさまは感じ取れる。なにせ一歩足を踏み出すたびに必ず畳以外の感触が足の裏に感じるのだ。ゴミが散乱しているというよりは、収まりきらない程の膨大な書物が部屋一面に散乱しているのだろう。
「それ、大切な書物なんで踏まないでください」
「あっ、すみません……でも、踏まれたくないならちゃんと片付けてください。獏さんの部屋に入ると必ず転んじゃうので」
不服そうな声でそういわれても一体どこに足を置けば本を踏まずにすむのかが全く分からない。第一大切な書物だといっておきながら、当人はそれらを足で適当に乱雑に避けて仕方なく結が歩く道を開けている始末だ。道なき道を進み、ようやく本と畳以外の感触を足の裏に感じた。どうやらこれは布団のようだ。
「布団くらい畳んだ方がいいですよ」
「どうせ夜には寝るんです。こちらの方が都合がいい」
基本的に部屋を片付けない獏。万年床になるのもまた自然なことで。獏の発言はまさに“掃除ができない人”そのもので、結の小言に苦言を零しながらどかりと机の前に敷かれたままの布団の上に座った。
「さて、俺は今からこの夢香らしきものを観ます」
「大丈夫なんですか」
「嗚呼、結さんは見ない方が良い。万が一何かあったら危ないですからね」
恐る恐る隣に座る結を諭しながら獏は箱から夢香を一本取りだすと半分に折った。
「折るんですか」
「ええ、万が一何かあったら面倒ですからね。逃げ道ですよ」
そういいながら、獏はマッチを擦ると香に火をつけ香炉に置いた。
マッチの独特の焦げ臭い匂いの次に、香の作り物のような甘い匂いが漂い始める。ふわりと最初は安らぐような良い香りがすると感じたが、徐々にまるで安物のアロマ屋にいるかのような鼻にこびり付くような甘ったるい不快な香りへと変わっていく。
「甘ったるくて鼻が曲がりそう」
「おやおや、結さんも少しは分かるようになってきましたねぇ」
思わず袖で鼻を隠した結を見て獏はなんとも満足そうに笑った。
そこでふと結は我に返る。このままここにいたら二人とも夢に入ってしまうのではないか。ふと獏に声をかけようとすると、座っている結の膝にずしりと重みを感じた。
「……獏さん。何してるんですか」
「何って膝枕ですよぉ。丁度いい所に枕がありましたので」
真下から声が聞こえる。どうやらこの膝の上に感じる重みは獏の頭のようだ。手を動かすと指先に触れる獏の髪。あまりにも突然のことに恥ずかしさを通り越して呆れてしまう。
「……もうこの際膝枕は良いとして、このままじゃ私も一緒に夢を見ることになると思うんですが」
「ここは夢見の間ではありませんから、眠りにつく俺しか観ることができませんよぉ。万が一何かあれば俺を叩き起こしてください」
これから得体のしれない夢を観るというのに獏は余裕そうな表情を浮かべて結を見上げている。
夢見の間と違い現世で夢香を使う場合、眠らなければ効果はない。だから獏はこうやって布団に寝ころんで今にも眠りにつきそうな体勢を取っているのだ。
「普段絶対起きないくせに」
「あれ実は起きてるんですよ。結さんがあまりにも必死に俺を起こすのが面白くて」
「狸寝入りですか!」
客が来た際いつも結は必死に中々起きない店主を起こしている。しかしこの男はあろうことか“実は起きていて、貴女が慌てるさまを楽しんでいました”と白状した。
自分の今までの苦労は何だったのだと思わず目の前の男の顔面を殴ってやろうかと震える拳を固く握りしめた。だが真下からけらけらとあまり聞くことができないなんとも楽しそうな男の笑い声が聞こえるものだから、つられたように笑ってしまって行く先が無くなった拳を仕方なく降ろした。
「にしても固い枕ですねぇ。結さんはもう少し肉をつけた方が良いですねぇ」
「嫌なら普通の枕使えばいいじゃないですか」
中年オヤジのようなセクハラじみた台詞を平然と吐く男。その発言にむっと結は眉を顰めながら、思わず手近に触れた獏が愛用している枕を彼の顔面にぼふりと置いた。
結の思わぬ反抗に枕に顔を埋められた獏が不意を突かれ驚いたようなくぐもった声を漏らした。
「……ぷはっ。ったく、酷いことをしますねぇ」
「いつもの仕返しです。セクハラで訴えますよ」
「何も貶しているわけではありません。俺はこれくらいの方が好きなので」
なんとも心地が良さそうな声が聞こえるので、結は不服に思いながらもこれ以上反論することはなかった。
夢香を焚いて横になると寝つきは各段に早くなる。結の呆れた呟きに獏から答えが返ってくることはなかった。
「――……店長、寝たんですか」
芳香剤のような甘ったるい匂いが充満する部屋はやけに静かで、思わず結は小声で獏に声をかけた。やはり獏の返事はなく、規則正しい寝息を立てて眠っていた。
夢香で夢を観ている間は目覚めることはない。それを知っている結はそっと手を伸ばして獏の顔に触れた。
指先が瞼に触れると僅かにぴくぴくと震えているのが分かった。どうやら夢を見始めているのであろう。そしてそのままゆっくりと手を動かすと、眉間の皺に触れる。かなり悪い夢なのかその皺は指が挟まってしまう程深かった。
「どうか無事に目覚めますように」
こちらにいる自分が出来るのは彼が無事に目覚めるのを待つことだけだ。
現世にいる自分にはこれくらいしかできないが祈る様に、いつも獏が自分にそうしているように彼の傷み一つない髪を撫で続けた。
無事を祈るというのは聞こえがいいが、唯単に結が獏に触れていたいだけなのかもしれない。そして結は彼の傍に寄り添い続けながら、痺れ始めた足の痛みに耐え夢香が消えるのを待ち続けた。
「――……不快だ」
十分程経ち、思わず結が見張りの目的も忘れうとうとと微睡に身を任せようとしていたとき獏の声が聞こえてきた。
寝起きで掠れていて、とても不機嫌そうな声音だった。
「……おはようございます。大丈夫でしたか」
獏は寝ざめが悪いように頭を掻きながらゆっくりと起き上がる。
忌々しそうに夢香が入っていた箱を握りつぶして粉々にすると、先ほど使っていた香皿ごとごみ箱に捨てた。突然の物音に結は驚いて肩を揺らした。
「て、店長!?」
「この香は酷く不快だ」
「悪い夢だったんですか」
「悪い夢以前に色んな夢を適当にちぎって繋ぎ合わせて……つまり悪臭も悪臭。鼻がひん曲がりそうだ。誰ですかこんな糞みたいなもの作った塵みたいな香司は」
珍しく獏は笑みを忘れ、怒りを露わにしていた。彼がこんなに感情を露わにしたところを結も初めて目にしたためどうしていいか分からずおろおろと獏に触れていた筈の手を彷徨わせた。
獏はおもむろに着物を脱ぎ、桐箪笥の中から着物を取り着替え始めた。耳に入ってきた布擦れ音に、結は嫌な予感がしてぎょっと目を丸くした。
「ちょっと獏さん、もしかして着替えてます?」
「ええ」
「なっ、なんで私の目の前で!」
平然と答えた獏にかあっと結は顔を赤くした。目が見えないとはいえ、目の前で異性が着替えているなんて想像しただけで恥ずかしい。
「変態ですか、馬鹿ですか!」
「変態でもありませんし馬鹿でもありません。気になるなら外で待っていてください」
着替えていたのは獏なのに、まるで結が悪いといわんような口ぶりだ。
結は思わず反論の言葉すら忘れて呆然としながら、獏の指示通り部屋の外に向かった。ずっと正座をしていたため足が痺れて上手く歩けない。でもそんなことよりも早くこの部屋から出なければという一心で、足に走る痺れに耐えながら結は必死で足を動かした。
耳まで真っ赤にしてあからさまに動揺している結の様子を見て、獏は可笑しそうに笑いながら慣れた手つきで着物を素早く着付けた。
「きゃあああ!」
結が出て行って間もなく何かが転がり落ちる音と結の悲鳴が聞こえた。どうやら足を滑らせて階段から滑り落ちたらしい。獏は悠長に襟を整えると、やれやれとため息をついて部屋の外に出た。
「大丈夫ですか、結さん」
階段の下を覗くと、ものの見事に下まで転がり落ちた結が涙目になりながら腰を抑えていた。
「……い、いた。足が痺れて思ったように動かなくて……もう、店長のせいです」
「全く貴女も生傷が絶えませんねぇ。本当にドジな方ですねぇ……頭は打っていませんか」
「はい、なんとか」
人のせいにする余裕があるということは大きな怪我はしていないようだ。
彼女を笑いながらも心配はしているようで、階段を下りて声をかけながら直接怪我がないか確認した。右手に触れたところで、手の甲に切り傷が出来て血が滲んでいることに気づく。
「これだけ何度も転んで落ちて、骨折しないのが不思議なくらいですねぇ」
「丈夫なのが取柄なので」
「しかしきちんと手当てをしないと傷が残りますよぉ。貴女は一応女性なのですから」
呆れたように薬箱を持ち出して、結の手の甲に優しく塗った。しかし傷に染みるようで、僅かに結の顔が歪む。獏は母親の様に小言をいいながら今朝から散々転んでできた傷に丁寧に塗り薬を塗っていく。
今時塗り薬かと思うが、獏が持っているこの傷薬は絆創膏を張るよりもなぜか治りがとても速いので重宝していた。そして薬を塗り終わった獏はどさくさに紛れて未だ痺れているであろう結の足を思い切り掴んだ。すると結は声にもならない悲鳴を上げて足を抑えて蹲った。
「な、何するんですか……っ」
「こうした方が早く治るので。いやぁ、足が痺れている人を弄るのは本当に面白いですねぇ」
獏はくすくすとなんとも楽しそうに肩を揺らす。結は涙を零しながら、鬼や悪魔を見るように恨めしそうに眉を潜めて獏の方に顔を向けた。
「さて、行きましょうか」
手当てを終えた獏は何事もなかったかのように薬箱をぱたりと閉じて立ち上がった。未だに痛む腰を抑えながら、獏に支えてもらって結は立ち上がり恐る恐る獏を見上げた。不思議なことに足の痺れはもう消えていた。
「行くってどこに」
「敵状調査です。偽物を成敗しに行きますよ」
「は?」
「夜に鈴さん達が迎えにくるのでしょう。ほら早く」
「ちょ、ちょっと……」
そうして結は獏に手を引かれる形で店の外に出た。
久々に感じる外の空気。おまけに獏と一緒に外に出たのは初めてではないか。これが現実なのか受け入れられなくて、思わず頬を抓った。
「……なにしてるんですか」
「いえ、その……店長も店から出るんだなぁと」
「一緒に出掛けたいといったのは結さんじゃありませんかぁ」
呆れたように微笑む獏に結は呆然と立ち尽くした。
確かに以前獏に外に出かけてみようといったことを覚えられていて、そしてその夢が今叶おうとしていることが結は嬉しかった。しかし念願叶えど、問題はあった。
「……でも、私一人では歩けませんよ」
結は悲し気に俯いた。
目が見えない生活にも少しずつ慣れてきたが、だがまともに外に出歩けるほどではない。いつもは松笠と鈴が両脇でしっかりとサポートしてくれているが、今回は獏が一人だ。彼を信頼していないわけではないが、この暗闇の中を歩くという行為が怖くて少しだけ足がすくんだ。
「俺が補助しますから大丈夫ですよ」
「ちょっ、ちょっと……」
結の返事を聞くことなく、獏は結の手を引いて歩き始めた。
最初の数歩は恐怖で足が竦んで上手く歩けなかった。しかし少し進んだところで変化に気づく。獏の先導はまるで自分の目が見えているかのようにとても歩きやすかった。まるで結の歩調に合わせるようなペースと、先が見えない恐怖を拭うような安心感。まるでとても手馴れているように思えた。女性をエスコートするという意味ではなく、盲目の人間のサポートがあまりにも手馴れているのだ。
「……慣れてますね」
「ええ、妻も目が不自由だったので……よくこうやって歩きましたよ」
突然耳に飛び込んできた衝撃の言葉に結は耳を疑った。思わず足を止めてしまいそうになったが、凍り付きそうな足を必死に動かした。
「お、奥さんいたんですか」
「なぁに、昔の話ですよぉ」
同様で震えそうになる声を必死に抑え、平静を装った。淡々と呟く獏は寂しそうで、結は僅かに衝撃を受けた。
「昔の話って……まさか寝てばっかりで仕事しなくて逃げられた、とか」
「……妻は、とっくの昔に亡くなりました」
冗談のつもりでいったはずが、返ってきた言葉の衝撃を受け止めきれずとうとう結の足が止まった。歩みを進めない彼女を不思議に思って獏も足を止める。
獏に妻がいたと聞いて悲しくなったのは確かだ。しかし、別れていると聞いて若干期待してしまった自分がいた。
だが決して喧嘩別れなどではなく、最期まで二人は寄り添い生きてきた。きっと獏は今でも彼女を愛しているのだろう。
彼の声はどこか寂し気で、愛情が籠っているように聞こえたから。
先ほどの膝枕もきっと妻と何度もしていたのだろう。きっとあの時なんとも楽しそうに笑っていたのは、懐かしい彼女の温もりと思い出を振り返っていたから。
結にとっては男性にあんなことをされるのは初めてで。それも好いている男性となれば尚更舞い上がるほど嬉しくて。
口では不服を漏らしながらも心の中ではずっとこの時が続けば、と舞い踊っていたのだ。そんな自分の浅はかな考えを思い返して、思わず悲しくなった。
「……変なこといって、すみません」
「結さんが謝ることではありませんよぉ。本当に、忘れてしまいそうになる程昔のことですから」
獏は気にした様子なくにこりと微笑んだ。
好きな人と手を繋いで歩くのがこんなに嬉しくて、同時に悲しい気持ちになるとは思いもしなかった。
それでも初めて獏の過去が聞けたことが嬉しくて、結は複雑そうな表情で微笑みながら獏と並んで歩いた。
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