第34話

◇第五章/夢にせ



「結さん、危ないですよ」

「へ、うわっ!」


 獏の声が聞こえた瞬間、結が段差に躓いて転びそうになった。

 大切な商品を抱えていたため両手は塞がっている。このままでは顔面から床に強打してしまうが、大切な商品を手放す訳にはいかない。

 身体が傾いて固い床に体を強打するイメージが頭を駆け巡る。結は咄嗟に香を守る様に抱え、衝撃に耐えるようにぎゅっと固く目を瞑った。

 しかしいつまで経っても衝撃は来ない。肩に感じる力強い男の手の感触と傾いたまま止まっている自身の身体。獏が寸でのところで受け止めていたのだ。

 

「そこ段差になっているので気を付けてください」

「――……知っ、ていたならもっと早く教えてください!」


 女性の物とは違う力強さで結の身体を支えながら可笑しそうに笑っていた。動揺したながらも結は次の瞬間にはいつものように毒づいていた。

 どうやら最初から結の目の前に段差があることを知っていて敢えて伝えなかったようだ。相変わらずの捻くれた台詞に結の眉間の皺が深くなった。

 獏は笑いながら結の身体をゆっくりと元の体勢に戻した。細身ながらも力強い腕に、結はやはり獏は男なのだと改めて思い知らされる。

 確かに転びかけていた自分を助けてくれたのは事実だ。どこか腑に落ちないながらも体勢を戻した結は獏に小さく礼を述べた。


「いやぁ、貴女が躓く姿が見るのが可笑しくて可笑しくて」


 礼を述べた自分が馬鹿だった。

 一瞬彼がいった言葉が信じられず、あんぐりと口を開けた。そしてゆっくりと息を吸い込んで、腹から声を張り上げた。


「……ふっ、ふざけないでください! 珍しく店長が真面目に起きているから調子が狂うんです!」


 基本的に獏は一日の半分程を寝て過ごしている。そして何より働きたくない性分なのか、仕事はいつも怠けてばかりだ。

 そんな獏が珍しく規則正しい時間に起きて、自ら外に暖簾を出して、あまつさえ店番を買って出ているのだ。

 いつも結がやっていた仕事を悉く獏がやっているため、結は朝から調子を狂わされ続けていた。

 そのお陰で普段は躓かないところに躓いて、打ち身や擦り傷など小さな傷を幾つも負っていた。このままでは閉店時間までに骨の一本や二本折れてもおかしくはないだろう。


「おや、そこまでいうのであればもうひと眠り――」

「ああああ! もうごめんなさい、私が悪かったです、起きててください」


 結が不満を零すと、獏は待ってましたといわんばかりに二階に上がろうとする。

 結は血相を変えて彼の着物の袖を引っ張って引き止めた。確かに獏が珍しく仕事をするなんて調子は狂うし、気味が悪いし、明日の天気はきっと大荒れになるに違いないと思う。

 だが目の不自由な結にできる仕事はあまり多くない。ましてや接客など、この店に来るまで香に触れてこなかった結にとってはあまりにも難しすぎることだった。

 だから普段は客が来る度に、結が獏を全力で叩き起こす。そうだ、あの作業がないだけ幾分か楽だろう。自分が転んで怪我するくらいマシじゃないか、と結は必死に自分にいい聞かせ続けた。 


 結は自身では気づいていないだろうが、怒ったり焦ったりと先程から表情がころころと変わり続けている。

 そんな結を獏は面白がって毎日のようにからかって遊んでいるのだ。


「結さんがそこまでいうなら仕方がないですねぇ……かりんとうでも食べてのんびり店番でもしますかぁ」


 どうせ最初から自室に戻るつもりはなかったのであろう。獏はすんなりと了承して、カウンターに座った。

 結も先ほど壊しかけた商品をどうにか倉庫に置き終わると、獏の隣に腰を下ろした。

 隣ではサクサクと、獏が何か食べる音が聞こえている。ふわりと香る黒糖の匂い。獏の大好物であるかりんとうだ。


「店長って本当に好きですよね、かりんとう」

「ええ。大好きですよ、かりんとう」


 確か夢の中であった時も胸やけしそうになるほどかりんとうを食べていた気がする。獏の身体は水分とかりんとうで出来ているのではないかと思う程だ。

 確かにかりんとうは美味しいし、一度食べると中々止められなくなるのも分かる。


「食べたいのですか、かりんとう」

「いえ、別に……」


 別に結はかりんとうを食べたいわけではなかった。だが隣で絶えず美味しそうにサクサクサクサクと食べ続けられれば、食べたいという欲望が出てきてもおかしくはないだろう。

 しかし獏は結の気持ちを知ってか知らずか、結に一つもかりんとうを渡すことなく袋を抱えて食べ続けていた。


「結さんは乳臭い西洋の菓子が好きでしたよね」

「美味しいでしょうケーキとかクッキーとかパフェとか、あとパンケーキとか」

「名前が珍妙すぎて理解できませんし。それに餡子の方が美味しいです」


 和菓子党の獏、洋菓子党の結。この二人は菓子の話になると相容れない関係となる。

 結がケーキを食べていても獏はこの世のものとは思えない顔をして決して一口も口にしようとはしない。

 食わず嫌いだと結は何度も一口だけでも食べてみるようにと薦めてみたが、この捻くれた男がそう簡単に折れる筈もなかった。


「――――」

「そりゃ和菓子も美味しいですけど、私はやっぱり洋が――むぐっ」


 二人は暫く睨み合い、先に反撃に出ようとした結の口を黙らせるように獏はかりんとうを突っ込んだ。

 口の中に広がる優しい黒糖の甘み。口の中の水分は幾分か奪われるが、確かに美味しい。


「かりんとう、美味しいでしょう」

「美味しいですね……かりんとう」


 突然飛び込んできたかりんとうを咀嚼しながら、結はこれ以上なにもいわなかった。

 味を占めたと、獏はしたり顔で親鳥が子に餌付けするかのように結の口の中からかりんとうが無くなるのを見計い絶えずかりんとうを差し出し続けたのであった。


「……よぉ、遠渡。元気そうじゃん」

「松笠――」


 そんな時店の扉を蹴り開き、どかどかと大きな足音を立てて不服そうな表情を浮かべた青年――結の大学時代の友人である松笠がやってきた。


「おや、賑やかな方々がいらっしゃったぁ」

「朝からかりんとう喰って呑気なヤツらだな」


 呑気にかりんとうを頬張っていた結は驚いて、ごくりと噛み砕いていたかりんとうを飲み干した。

 まだ大きな塊が残っていたようで、喉元を塊が通っていく不快感に僅かに眉を顰めた。しかしその表情を見て、自分の来訪が迷惑だったのではないかと思わず狼狽えた。

 獏はまたうるさいのがやってきた、と若干迷惑そうに目を細め松笠を睨みつけた。

 結の表情に狼狽えていた松笠は獏の顔色を使がうどころか、あからさまに敵意を向けながらドスドスと態と大きな足音を立てて結に歩み寄った。

 そして結の前で足を止めるが、何故か彼女を見下ろしたまま頑なに口を開かない。奇妙な沈黙が流れたのち、思わず口元を緩めた結が口を開いた。


「スズ、後ろにいるんでしょ。足音、二つあった」

「気づかれた……こらぁ、ダメ松。もっと足音大きくしなさいよ」


 結が声をかけると松笠の後ろに隠れていた友人の鈴が元気よくひょこりと顔を出した。

 こっそりと結を驚かせるつもりだったのだろう。しかし目が見えないが、その分音に敏感な結には松笠の足音に紛れもう一つの別の足音が聞こえていた。

 作戦が上手くいかなかったのは松笠のせいだと、鈴は不服そうに松笠の二の腕を拳で思い切り叩いた。


「いってぇ! あんだよ、十分やったろ。これ以上大きくしたら不審者じゃねぇか」

「そんな大きな足音で歩かれたら店が潰れてしまうので止めて頂けますか。まあ、どちらにしろ普通に歩いても貴方は十分騒がしいですが」

「あんだと!」


 松笠の後ろになにやらこそこそと息を潜めてついてきている鈴の姿が見えていた獏は成り行きを見守り、ようやく口を開いた。

 自身が煽ると面白い程に食い掛ってくる松笠の反応を見るのが楽しいのか、二人は顔を合わせる度にいい合いをしていた。

 最初に喧嘩を売るのは獏だが、松笠が食いついてくるとすぐに興味を無くして相手にしない。それがまた松笠の怒りを買い、最終的にはいつも松笠が一人で喚いているという状況になる。

 松笠は何度も獏と顔を合わせているというのに彼の対処法について全く学ばない。 今日も今日とて同じ手順を踏んでいる。

 獏の耳元で声を荒げる松笠を獏は冷めた目で笑い飛ばしながら、片手で耳を塞ぎもう片方の手で呑気にかりんとうを口に運んでいた。


「ダメ松も獏さんにいいように遊ばれてるの気づけばいいのに」

「はは……」


 いい年した男たちのまるで子供のような喧嘩を見ながら結と鈴は顔を見合わせて笑い合った。

 そして鈴は思い出したように持ってきたデパートの紙袋を結に差し出した。


「これお土産。結の好きなマカロンとかケーキとか、たっくさん買ってきたよ!」

「わあっ、いつもありがとう!」

「ふふふっ、結の好きなものなぞ手に取る様にわかるのだ!」


 差し出された紙袋を受け取ると、ずしりと重みを感じた。

 その中にはカラフルな箱が幾つも入っていて、マカロンやクッキー、ケーキやチョコレートなど結の大好物である甘い甘いお菓子が食べ切れない程入っていた。

 鈴と松笠は大学を中退した結に時折こうして会いに来て、中々買い物に行けない結を思ってのことかいつも結が好きな食べ物を土産として持ってくるのだ。

 甘いものを手にした結はとまるで少女のように嬉しそうに微笑んだ。

 視力を失ってからというもの、あまり笑わなくなった友人の笑顔を見て鈴と松笠は顔を見合わせて頬を綻ばせた。

 そんな三人の様子を見て、獏はかりんとうを口に運びながら小さく気づかれないように口元に弧を描いた。


「えっと……そしてこれ、獏さんのいつものやつ」

「いつもありがとうございます、鈴さん」


 鈴は松笠が持っていた結に渡したものよりも二回りも大きな紙袋を受け取り、それをそのまま獏に差し出した。

 松笠をからかって遊んでいた獏もこの時ばかりは鈴の方を向いて、心底有難そうに微笑みながら差し出された紙袋を丁寧に受け取った。

 結は思わず獏の方を二度見した。自分の聞き間違いでなければ確かに今彼は“鈴”と名前を呼んだはずだ。


「取り合えずいつものやつを五袋と、変わり種の抹茶味とかカレー味とかも少し買ってきました」


 紙袋の中には大量のかりんとうが鎮座していた。

 普段店の外に出ない獏がかりんとうを絶やさずに食べられているのは、鈴にかりんとうの買い出しを頼んでいるからである。

 獏がいつどのように連絡をしているのかは定かではないが、いつもかりんとうのストックが切れかかっているのを見計うかのように鈴達は店に訪れる。

 もはや結に会いに来ているのか、獏にかりんとうを届けに来ているのかが分からない状態である。

 獏は紙袋の中の大量のかりんとうを見てとても嬉しそうに微笑むと、機嫌よく鼻歌を歌いながらかりんとうをしまうために二階に上っていった。


「あいつ、本当にかりんとう好きだよな。そのうち絶対体壊すぞ」

「そういえば、かりんとう買うお金っていっつもどうしてるの?」

「ふっふっふっ、今にわかるさお嬢さんたち……」


 結の土産にしても、獏のかりんとうにしても学生の懐で買うにはそこそこ痛い金額だろう。一体どこからその金が来ているのか――。

 疑問を投げかけると鈴は不敵に笑っていた。その笑いの理由が分からず松笠と結は小首を傾げた。

 そして暫くすると獏は真新しいかりんとうを一袋手にして帰って、にこにこと笑みを絶やすことなく鈴に近づくと封筒を差し出した。


「こちらいつものお礼です。これからも宜しくお願いいたしますよぉ……鈴さん」

「ふふふっ、毎度有難うございます」


 封筒を受け取った鈴は嬉しそうににこにこと微笑んで頭を下げた。

 そう、金の出所は他でもない獏本人からだった。封筒の中には恐らくかりんとう代にしては多すぎる金額が入っているのだろう。

 友人に会うついでにかりんとうを届けるという簡単な仕事。あの嬉しそうな表情をみるからに下手なバイトをするより余程よい稼ぎになるのだろう。

 そして獏が人の名前を覚えるということは、その人物に関心があるということ。つまり獏は鈴を“かりんとうを買ってきてくれる人”という認識をしているのだ。

 鈴に感謝して名前を覚えているか、はたまたかりんとうへの底ならぬ愛が鈴の名前を覚えさせたのは定かではない。

 しかしそもそも嫌いな人間に自分がこよなく愛するかりんとうを触れさせることすらさせないであろう故、少なからず獏の中で鈴はそこそこ興味深い人間という位置にあるのだろう。

 二人が突然訪れて、結を連れ出すことを獏が許してくれるのはこうして鈴が彼の好きなかりんとうを買ってくるから。結と松笠には目の前の二人が時代劇に出てくる悪代官と庄屋のように見えてならなかった。


「さぁて今日は結さんがお出かけするみたいなので、一人寂しく店番していますかぁ」

「……どうせ私が出たら店閉めて寝るんでしょう」


 結の言葉に獏はなにも答えず肩を竦めた。どうやら図星の様だ。

 鈴達が店に来るということは結を外に遊びに連れ出す合図のようなものだ。

 きっと今日もそのつもりなのだと、結は小さくため息をつきながら出掛ける用意をするために立ち上がった。


「その前にちょっと聞きたいことがあるんだけど」

「この店、支店とかだしてねぇよな」

「……は?」


 松笠の言葉に獏と結は同時に首を傾げた。

 二人の反応に松笠達はやはり違うんだと顔を見合わせ頷いた。そして松笠はポケットから小さな小箱を取り出して結の手の上に乗せた。


「さっき行ったデパートで見たんだけどよ。夢香って書いてあったから、委託販売でもはじめたのかと思って」


 獏がぴくりと眉を動かして素早く立ち上がると、結の手の上に置かれた小箱を奪い取って鋭い目つきでその箱を睨みつけるように注視した。

 その剣幕に思わず結達はごくりと息を飲み込んだ。毒を吐くものの、基本的にはいつも温厚で笑みを絶やさない獏の表情から笑みが消えているからだ。

 豪華な装飾が施された小箱には確かに“夢香”とかかれてあった。獏が眉を潜めながら箱を開けると、中からは濃い紫色のスティック状の香が出てきた。


「――……夢香はこの店……いいえ、俺しか扱っていません。どこの馬の骨とも知らない人間に売らせるどころか触らせもしません」

「だよなぁ……じゃあ、これ偽物なのか?」


 先ほどまで機嫌良くかりんとうを頬張っていた獏の表情が一変した。

 突然現れた偽物の夢香を怪しむ様に、難しそうな顔をして香を一本手に取ると鼻先に近づけて匂いを嗅いだ。


「見た目は普通のお香だけど」

「見た目はね。ですが、酷い臭いだ……」


 香の香りを嗅いだ獏は忌々しそうに顔を顰めた。

 結も一本香を手にして匂いを嗅いでみる。焚いていないため詳細な匂いは分からないが、ほんのり甘いような香りがする。

 顔を顰める程の悪臭はしない――が、獏がいっているのは香の香りではなく香が放つ夢の香りのことをだろう。

 夢の香りがするということは、つまり獏が手にしているこの香は紛れもない“夢香”だということだ。


「お代をお支払いするので、こちら頂いてもいいでしょうか」

「いや、金はいいよ。元々渡すつもりだったし――」

「教えて頂いてありがとうございます」


 珍しく獏が松笠を挑発することなく素直に礼を述べたことに一番驚いたのは他でもない松笠本人だった。

 ここまで率直な礼を述べられるとは思っていなかったようで、困ったように視線を泳がせている。


「い、いや……その、うん。役に立てたみたいで、よかった、です」

「……ええ。賑やかな方もたまには役に立つものですね」


 しどろもどろで返事をした松笠につけこむ様に、獏は挑発するように微笑んだ。

 一瞬唖然とした松笠を見て、くすりと笑いながらもう一度再び礼を述べるとその後松笠も獏に食って掛かることはしなかった。


「遠渡、お前今日どうする?」


 話題が一度途切れ、最初に口を開いたのは松笠だった。

 どうする、というのはこれから三人で出掛ける予定をどうする、という意だろう。

 結は迷ったように若干俯いて考えた。正直にいうとこの偽物の夢香のことが気がかりだった。


「結さん、俺に構わず遊びに行ってきてください」

「――……」


 獏は一切気にするな、というように優しく微笑んで結に声をかけた。

 しかし結は素直に頷くことはできなかった。自分がこのままここに残っても獏の役に立てることはほんの僅かだろう。

 折角会いに来てくれた友人達二人には申し訳ないが、自分はどうしても――。


「うん、松笠。今日は二人で遊ぼう」


 そんな結の迷いを鈴は全て見切っていた。結は驚いた顔で鈴の方を向くと、鈴は結が見えていないにも関わらずにっこりと満面の笑みを浮かべていた。

 鈴は言葉を発した次の瞬間に行動に移っていた。少し驚いている松笠の腕を引いて店の外に向かおうとする。


「ほらほら偽物の夢香の原因つきとめなきゃならないし、これから忙しくなるんでしょう。私たち帰ろうは帰ろう」

「遠渡に会うの楽しみにしてたんだろ。いいのか」


 笑顔を浮かべたまま外に向かう鈴に松笠は困惑気に声をかけた。

 

「鈴、有難う。今日は二人でゆっくり楽しんで」

「この問題片付けたら三人で出かけるんだからね! せめて晩御飯は一緒に食べたいから夜までには片付けてくださいね、獏さん!」

「善処しましょう」


 鈴の言葉に、獏は肩を竦めた。

 松笠はどこか寂し気に結を見つめている。そしてその松笠を鈴が彼以上に寂し気な表情で見つめていたのを獏は見ていた。


「おい、遠渡――」

「いつも会いに来てくれてありがとう。二人で存分に楽しんで」


 松笠に微笑みかけながら、鈴に向かって手を振ると結は二人を店から締め出すかのようにぴしゃりと扉を閉めた。

 そして扉に背を預けると小さく息をついた。カウンターでは獏が何事もなかったかのように松笠に渡された夢香を様々な角度から眺めていた。


「本当に賑やかな方たちですね」

「騒がしくしてすみません」

「いかなくてよかったんですか」

 

 獏は一瞬香から結に視線を写した。その問いにぴくりと結の肩が揺れる。


「いいんです。この偽物の夢香のことが気になりますし。それに……あの二人の中から私は早く消えた方がいい。あの二人にはいつも笑っていてほしいから」

 

 結は鈴が松笠のことを好いていることを知っていた。そして松笠が自分のことを想ってくれていることも知っていた。

 鈴は松笠の想いを利用して、結と遊ぶ口実でこうやって出掛けていることも知っていたし、結も鈴の恋路を応援していた。

 大学を辞めて離れた自分より、近くにいる鈴の想いに気づいてほしい。そして願わくば二人がいい方向に進んでくれればよいと結はいつも願っていた。

 だから、これでいい。今日からこうやって少しずつ二人で時間を共有して、そしていつか自分の存在が彼らの中から消えてどうか幸せに過ごしてくれればと。

 自ら距離を置けばきっと彼らは結のことを忘れてくれるだろう。今すぐにでは無理でも、まるで眠りにつくようにゆっくりと確実に彼らの中から消えてしまいたいとそう思っていた。

 もしまたあの時のような夢を見て、大切な友人を失うときが来れば今度こそ自分自身が壊れてしまうような気がしたから。


「俺はあの二人が来てくれると嬉しいですよ」

「あれだけうるさいとか面倒だとかいっててですか」

「まあ、俺にとってはうるさい人達ですが。でも彼女たちが来ると、結さんが笑ってくれますからねぇ――」


 獏の言葉に一瞬結は動きを止めた。


「――……それにかりんとうも手に入りますからねぇ」


 前言撤回だ。獏は確実にかりんとうの為に二人をこの店にいれているに違いない。

 先ほどまで食べていたかりんとうはすでに空になっていた。そして鈴が買ってきてくれた新しいかりんとうの袋を開ける。

 かりんとうを口に運びながらも視線はカウンターの上に置かれた夢香らしきものに注がれていた。

 そう。かりんとうよりも、友人達と遊ぶよりも、“偽物の夢香”という大きな問題が二人の前に現れた。


「夢香の偽物、ですか」

「俺以外の人間にこの夢香が作れるわけもない」

 

 獏もまさか夢香の偽物が出回るとは予想もしていなかったのだろう。その言葉の節々からは静かな殺気が伝わってきた。

 確かにこの店の夢香はちょっとした人気があるのは事実。そんな噂を聞きつけて、どこか別の香屋が夢香紛いのものを作ったのだろう。

 焚くと夢を見れる香なんてものはそうやすやすと真似できるものではない。

 しかし獏は確かにこの夢香は酷い臭いがするといった。夢の匂いを感じるということは、確かにこれは夢香であることには違いないのだろう。

 獏はその香を手にして立ち上がった。


「ちょっと見てみましょう」

「夢見の間でなくていいんですか」


 てっきり夢見の間へ行くのかと思われたが、獏が向かったのは二階だった。

 恐らく自室で夢香を使うつもりらしい。


「……得体のしれないものをあの部屋で見ない方がいい」

 

 そうして二人は獏の自室へと移動した。

 表に下げられている札が、営業中から“準備中”へと変えられた。

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