第五話「夢贋る」
第33話
突然夢から追い出されたようにふと夜更けに目が覚めた。
夢の残り香を感じながら視界に広がったのは今にも崩れそうに積み重ねられた桐の箱。その中には今まで集めてきたおびただしい数の夢香木が収められている。
徐に体を起こすと布団の近くに重ねてあった本の山が倒れてきた。あちこちに散らばる数えきれないほどの古い古い書物に埋め尽くされたこの部屋はお世辞にも綺麗とはいえない状況だった。
しかし獏はこの足の踏み場もない場所で永い永い時を過ごし、膨大な夢を鑑賞してきた。
もう一度眠りにつこうにも変に目が冴えてしまった。
眠気が訪れるまで読書でもしようかと、崩れてきた本の中から適当な一冊を手に取ると蝋燭に火をつけた。
今の時代はとても便利になったもので、紐を引くだけで明かりが灯る。しかしずっとこの蝋燭のぼんやりとした灯りで過ごしてきた獏にとって蛍光灯の光は眩しすぎて目に堪えた。
暫く読み進めたがどうも集中できない。まあ、今まで暇つぶしを兼ねて何度も読みつぶした本だ。読み飽きるのも当然だ。
夜行性の動物の様に爛々と冴えてしまった頭をどうしようかと獏は悩んだ。取り合えず水でも飲みにいくことにしよう。
隣の部屋で眠る結を起こさないようにそろりと歩くが、本の山にぶつかってしまったようにばさばさと派手な音を立てて崩れ落ちてしまった。
時折自分を起こしにこの部屋に入る彼女はいつもどこかに足を引っかけて本なり箱の山を最低二つは崩していくのだが、これでは人のことはいえないなと僅かに肩を竦めた。
彼女が崩した本を足で避けながら部屋の外に出ると、隣の部屋から呻き声が聞こえた。
どうやらまた夢に魘されているようだ。起こさないようにそっと扉を開けて様子を伺うと、彼女は脂汗を流し布団を握りしめ苦悶の表情を浮かべていた。
最近彼女は毎日のように魘されている。恐らく以前いっていた目覚めると忘れるという夢のようなものを見ているのだろう。
あの女は自分だけでなく、どこまで彼女を苦しめれば気が済むのだろうか。
思わずぎりりと歯を食いしばり、彼女の机の上に置かれている福寿の夢香を焚いた。香皿の上には真新しい灰が落ちていた。恐らく彼女も眠りにつく前に焚いていたのだろう。
しかし香が切れれば夢も終わる。そして今彼女は再び魘されている。ならばまたその悪夢を吉夢で上書きすればよいのである。
福寿の香は上質で、その心地よい香りに思わず頬が緩み香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
暫くすると彼女の苦悶の表情は和らいで、布団を握りしめていた手も力が抜けた。それを見てほっと一息つくと手ぬぐいで流れる汗をぬぐい静かに部屋を後にした。
彼女を起こさないようにと静かに、そっとみしみしと音を小さく鳴らしながら急すぎる階段を下りた。
そして夢見の間に通じる長い廊下の端、床から天井まで並ぶ引き出しの一つ一つの中には今まで集めてきた膨大な数の夢香木が入っている。
この夢香木こそ獏の宝であり、獏の生きがいであり、獏の生きてきた証でもある。
長い時間をかけて何百何千もの夢を集めてきた。膨大な数があろうとも集めた夢、観てきた夢は全て覚えている。
整理下手な獏だが、この夢香木に関しては時系列順に寸分の狂いもなく綺麗に正確に並べられていた。
獏はどこにどの夢香があるか熟知しているかのように、下段の引き出しを数個開けた。
開かれた引き出しの中は何も入っていない、空っぽの状態だった。
「――……どこにいったんでしょうねぇ。わりと気に入ってた夢なのですが」
空いた引き出しを見つめ獏はぽつりと呟いた。
貴重な夢香木の損失は惜しいが、獏が作った中でも最も古い夢香木だ。無くなっていたのは遥か前から気づいていたし、今さら探したところで到底見つけられないと踏んでいた。
しばらくぶりに開いてみるとひょっこり夢香木が戻ってきているのではないかと期待していたのだが、やはり戻らないものは幾ら待とうと戻らないものだ。
今更別の夢香木を入れる気にもならず、無くなったことに気づいて以来ずっと空っぽのままにしていたのだ。
「遠い昔に鼠でも入ったのでしょうかねぇ」
含み笑いを浮かべながら、獏は建付けが悪く少しだけ固くなった引き出しを閉じたのであった。
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