第16話



 暗い、暗い暗闇の中。

 どこからかふわりと落ち着くような甘い香りが流れてくる。

 何も見えない暗闇の中。香りを辿るように手探りで暗闇を進んでいく。


「――……聞こえますか」


 あの人の声が聞こえた。まるでこちらに向かって手を差し伸べているようだ。

 あれ、姿が見えない。あんなに見とれる程綺麗だった顔が、見えない。思い出せない。なんで、どうして。

 私は涙を流しながら差し出された手に触れるように、手を懸命に伸ばした。


「ばく、さ――……」

「……嗚呼、良かった。目が覚めた」


 獏さんの声が聞こえる。ああ、ここはきっと夢の中だ。

 声が聞こえるが目の前は真っ暗で、彼がどこにいるか分からない。

 ああ、あの女性がいった通り夢は見えなくなったんだ――よかった。


「おい、大丈夫か」

「ずっと大学来ないから、心配で家にいったら倒れてて。病院にいっても原因が分からなくて、ずっとずっと眠ってたんだよ」

「どれくらい……」

「一週間。ずっとずっと寝てたんだよ」


 心配そうな松笠と涙を流しているスズの声が聞こえる。

 二人の声が聞こえるということはここは現世なんだろうか。

 それなのに、意識ははっきりしているし目は冴えているのに、なんで私の目の前は夜のように真っ暗なんだ。


「ここは、夢?」

「いいえ。ここは現世です」


 徐々に色んな感覚が戻ってきて、自分が目を閉じたままだということに気が付いた。

 目を開こうと力を籠めるが、まるで縫い付けられたように瞼を開くことができない。

 ここは現実の世界なのに、なんでなんで私の目は開かないんだろう


「ここは……」

「俺の店です。ご友人のスズさんが眠ったまま目覚めない貴女を助けてほしいと連れてきたのです。若干一名うるさい馬鹿な男がいますが」

「なんだと!」


 松笠が胸倉を掴まない勢いで獏さんに食って掛かる。

 ゆさゆさと揺さぶられているのか、僅かな振動と布が擦り合う音が聞こえる。

 止めるスズを無視して、獏さんはくつくつと笑っている。きっと松笠をからかうのがとても楽しいだろう。


「……あとは俺にお任せください。お二人はお帰りを。貴女たちはこの部屋にあまりいない方がいい」

「アンタ。結をどうするつもりだ」

「――本当に貴方はうるさいですねぇ。帰れといっているんです」


 目が見えなくても分かる。松笠達に話しかける獏さんの声はとても冷たいものだった。


「コイツになんかされたらすぐ呼べよ。助けに行くからな!」

「ほら、駄目松。帰るよ! 獏さん、よろしくお願いします」


 松笠はスズに半ば無理やり引きずられるようにして離れていった。

 二人の足音と声が遠くなっていく。最後まで松笠はこちらに戻ろうとしている声が聞こえてきた。

 

「……あの、うるさくてすみません」

「なんなんですかあの青年は。一緒にいるといずれ鼓膜が破れそうですよぉ」


 参ったようにため息をつきながらぱたりと襖のような扉が閉められた。

 鼻を鳴らして匂いを嗅いでみる。僅かに畳の香りと、お香の香りが混ざっている。

 ここはきっと和室なのだろうか。手を彷徨わすと布団から出た手はすぐに畳に触れた。きっと私は今和室で布団に横になっているのだろう。

 

「――……貴女は馬鹿ですか」


 布擦れの音が聞こえて、すぐ隣に彼が座る音が聞こえた。

 そしてすぐに聞こえてきた人を見下すような馬鹿にした、どこか怒気が籠った声。


「……白髪の綺麗な女の人に、夢をみられないようにしてあげるっていわれたんです。夢をみなければ、もうこんな辛い思いしなくてすむんじゃないかって……思って」

「あの女は夢世に住まう夢魔です。人を誑かし、騙す、卑怯な魔物です。貴女はあの夢魔にまんまと騙されたんです――俺と同じように」


 獏さんは私の手を握ると力を込めて握った。

 悔しがっているのだろうか。私の手を痛い程獏さんは握りしめていた。


「残念なことですが、視力を失っても夢は見ます。現世と夢世はまた別ですから」

「そうですかぁ……はは……私は本当に馬鹿ですねぇ……」

「ええ、本当に。馬鹿ですよ、貴女は」


 自分自身を嘲笑うように笑った。閉ざされているはずの目の横から暖かいものが頬に伝う。ああ、きっと私は泣いているんだ。

 獏さんも呆れたように息をつきながら、私の頭を優しく撫でた。


 畳とお香の香りがしてとても落ち着く。

 なによりも獏さんの体温をすぐ近くに感じられることが嬉しかった。


「俺の店で働いてください、さすれば貴女の目を治せる可能性はある。夢魔から目を取り戻すのです」

「目の見えない私が……ですか」


 ええ、と獏さんは頷いた。


「夢世と現世を結ぶ貴女の力なら、できる」


 手を強く握られた。

 なんだかこの人にいわれるとできないことでもできるような説得力がある。

 同意するように、握られた手をぎゅっと握り返した。


「――……貴女のお名前はなんですか」

遠渡とおわたゆう

「名は体を表すといいますが……良い名ですね。宜しくお願いします、結さん」


 これが私、遠綿結と夢見堂店主獏さんが現世で出会った記憶。

 これがきっかけで私は夢見堂で働くこととなる。

 視力は戻らないため大学は休学した。

 寂しい気持ちはあったが、迷いは後悔はなかった。

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