第44話



「母上――!」

「……どうしました、霞。珍しく幼子のように飛び込んできて」


 一秒でも早く、母に香を見せたかった。

 俺は無我夢中で長い廊下を走り、母が眠る部屋に飛び込んだ。

 慌てて飛び込んできた俺に驚いたように目を瞬かせながらも、柔らかく微笑んで出迎えてくれた。

 しかしもはや母は一人で体を起こすことができなくなっていた。丸窓の外に見えるのは葉が全て落ちた木々。

 ――とある、冬の寒い日のことだった。 


「新しい香が出来ました。試してみてくださいませんか」

「貴方は本当に研究熱心ですねぇ……。ふふ、霞の作る香を一番に試すのが母の唯一の楽しみですよぉ」


 俺は母にさっそく出来上がた香を焚いた。あの時のようにまるで現世と夢世の境を無くすかのように、部屋の中に白い煙が充満していく。


「――……甘い香り。春のように、暖かくて、優しい……良い香り、ですね……ぇ」


 ぽつりぽつりと母は呟きながら、微睡に身を任せるようにゆっくりと眠りについた。

 夢の香を焚くと使用者はすぐに眠りにつくようだった。枕元で母が目覚めるのを待ちながら、俺は書に夢香に関しての記録を書き起こしていた。

 そうしてしばらくすると、母はゆっくりと目を開けてとても幸せそうな吐息を一つ零して口を開いた。


「――……母は、次の桜は見られないと思っていました」

「……母上」

「とても、幸せな夢を見ていたわ。満開の桜が咲く極楽浄土にいるような。とっても幸せな夢でしたぁ」


 母が話した夢の内容は、昨晩リンが見せてくれた夢の内容と全く同じものだった。

 母のとても幸せそうな顔を見て、俺もつられるように微笑んだ。

 どうやら正真正銘この香は、焚くと夢が見られる香が完成したのだ。俺はさっそくその香を“夢香”と名付け、店で売り出した。

 “焚くと幸せな夢を見られる不思議な香”と巷で噂となり、夢見堂はたちまち客で賑わう有名店となった。


 しかし夢香を作るには一つ大きな問題があった。

 俺は毎晩眠る度に木片を枕元に置いて寝た。勿論リンも夢香を作ることに潔く協力してくれた。

 だが必ず夢香が作れるわけではなかった。十回夢を見て、そのうち三回作れれば上々――といったところだろう。

 そんな不確定な確率で出来上がる香の作り方を伝授できるはずもなく。夢香を作れるのは夢見堂の次期頭首のみと自らの父にもその製造法をひた隠しにした。


「夢は儚くてとても脆いものだから、そう簡単に現世へは移すことができないの。そうね……もっと夢世に近い場所とかがあれば、成功率も高いのでしょうけど」


 リンはそう教えてくれたものの、現世に夢世に近い場所なんてあるはずもない。

 それでも俺はまた母に良い夢を見せたいと諦めずに毎日夢香を作り続けた。


 そうして一進一退を繰り返し、長い冬を超え、間もなく暖かい春を迎えようとしていた時だった――。


「母上、また夢香を作りました。幸せな夢が見られますよ」

「――……あ、嗚呼。とてもいい香り。とても幸せ……霞、ありがとうねぇ。貴方のお陰で母は、幸せな夢を見られ……ましたぁ」


 その言葉を最後に母は眠るように息を引き取った。

 幸せそうな死に顔は、極楽浄土に旅立ったというよりは幸せな夢世の世界へ逝ったようにも思えた。

 彼女は現世にいるよりも夢世にいる方が長かったから、きっとその方が本人も過ごしやすく幸せなのかもしれない。


「――おやすみなさい、母上。あちらの世界では存分に良い夢を見てくださいねぇ」


 覚悟はしていた。だから涙も流さなかった。いや、俺の分も父が泣いていたから。

 改めて父を見ると、いつも大きく感じていた背中がとても小さく感じた。嗚呼、人はこんなにも如実に年老いていくものだと。

 父もいずれは母の元に旅立つのだろう。人間に死は避けられない現象だった。

 今や大看板となってしまった夢見堂次期店主としての責任。そしていずれ自身にも訪れるであろう死の不安が大波のように突然押し寄せた。


 母が過ごしていた部屋に異変が生じたのは彼女の葬儀後のことだった。

 遺品整理のために部屋を訪れた際、妙な気配を感じた。現世では体験したことのないが、とても居慣れたような奇妙な雰囲気。

 そうだ。ここは夢世にいるような雰囲気がする。現世でも夢世でもない、まるで異空間にいるような不思議な感覚。

 一度足を踏み入れた父は妙な気配にむず痒さを感じ、すぐに出て行ってしまった。だが、俺はこの部屋が妙に居心地が良かった。


 夢世に似た雰囲気ならば、ここで香を作ったらどうなるのだろうと試しにその部屋で眠り夢香を作ってみた。

 なんと今まで失敗することの方が多かった夢香作りが百発百中で成功するようになっていたのだ。

 リン曰く、この部屋は現世でも夢世でもない。どちらかといえば夢世に近い不思議な部屋、だそうだ。

 現世に体はありながらも、頻繁に夢世に行っていた母の曖昧な存在が部屋自体に影響を及ぼしてしまったのではないかともいっていた。 


 そうしてその部屋を“夢見の間”へと名を変えて、俺は毎日のようにそこで眠り夢香を作り続けた。



「最近会う機会が多いわね」

「父が夢香を作れとうるさいんです。この香を作れるのは俺しかいませんから……」

「ふふ、私は霞と会う機会が多くなってとっても嬉しいわよ」


 俺が夢世に訪れる度とても嬉しそうにリンは笑っていた。

 しかし実のところ、真実半分、口実半分といったところだった。

 何故だか俺は急にいつしか自身でも訪れるであろう死を恐れていた。それはきっと姿かたちが変わらぬリンと多くいるからなのであろう。

 成長とは名ばかりに着実に老いて死に近づいている俺と、いつまでも若々しく自由奔放なリン。

 口では友人だ、夢魔と人間は違うと吐き捨てながらも、一番その違いに怯えていたのは他ならぬ俺自身であった。


「霞。大丈夫?」

「ええ、大丈夫ですよぉ。最近忙しくて目が回りそうで」

「……そうみたいね。霞、昔みたいに素直に笑わなくなったもの」


 母が亡くなると父は隠居するといって、店は正式に俺が受け継ぐこととなった。

 店の客には様々な人が訪れる。唯単に香を求める客。こちらの説明も聞かず自分勝手に香を買い文句を言いに来る客。隙あらば夢香の作り方を盗もうとする敵。

 そんな者たちに一々感情をぶつけるのが面倒になっていた。いつも笑みを浮かべてさえいれば大抵のことは乗り切れる。

 運よく俺は顔の作りがそこそこ良いらしく、笑みを振りまけば町娘たちは頬を染めながら沢山の香を買ってくれた。

 この町では現在と変わらず若い娘たちが流行を作る。最初は大切な客だと思っていた者たちを、いつしか唯の広告塔の道具としか思わなくなっていた自身がいた。

 人への関心が極端に減り、人の名前が覚えられなくなったのも。平気で嘘をつくようになったのも。そして顔に笑みを張り付けるようになったのもこの頃からだっただろう。

 リンは少しずつ変わっていく俺を心配するように、慰めるように俺の頭を何度も撫でた。


「そういうリンはいつもコロコロと表情を変え、感情を剥き出しにして――まるで人間のようですねぇ」

「そういう霞こそ、他人に興味がなくて、狡くて意地悪で――まるで夢魔みたい」


 二人の声が重なった。

 確かに俺はなによりも夢が好きだった。いっその事夢魔として生まれた方が、性に合っていたのかもしれない。


「もし夢世に住みたいのであれば、いつでもこちらの世界に来ていいのだからね。霞なら大歓迎よ」


 その言葉に俺は固まった。

 動かないまま、なにも返事をしない俺を不審に思ったリンは慌てて誤魔化すように俺の肩を叩いた。


「な、なによぉ、冗談だって。いつもみたいにさっさと断ってくれればいい――」

「――……そうですねぇ、それもいいかもしれない」


 夢世に来れば、いつか来るであろう死の呪縛から逃げることができる。

 そして何よりいつでも好きなように夢が見られる。面倒臭い人間関係も、商売もかなぐり捨ててのんびり自由気ままに暮らせる。

 そもそも一生懸命香を作らなければならない必要もなくなった。第一現世に俺が興味を持つ人間なんて一人もいなかった。

 全てを投げ出したくて。夢香を作るという口実で、いつしか俺は現世にいるよりも夢世にいることの方が多くなっていた。


「私は貴方と会うまでずっと寂しかったの。だからずうっと一緒にいたいの。愛しているわ、霞」


 後ろからリンが抱き着いてきた。俺は拒むことはしなかった。

 彼女が本気で俺を愛しているのか、たんに寂しさを埋めるために俺に構っているのか――自身は前者だと勘違いしているが、実のところは後者なのだろう。

 何故なら彼女は表面的にしか俺を見ていない。

 “夢世で私を見てくれた存在”で“お気に入りの人間”自分と違う存在が物珍しくて、興味と恋慕を混在して考えているのだろう。

 ここで俺が彼女の気持ちに答えたら、目的のものを手に入れた子供のようにすぐに飽きて彼女は俺を置いてどこかに消えていくのだろう。


 俺はそもそもリンに恋愛感情なんて抱いていなかった。

 今も昔も、美しい女性だとは思っている。美しく、大切な、友人だ。

 俺が夢世に行くことでこうして彼女と時間も気にせず茶を啜り、他愛のない会話を出来るのであれば、俺は彼女と一緒に生きても良いと思えた。

 だがまるで自分の為に、自分の孤独を埋めるために放たれたその言葉に、俺は少しだけ彼女に失望した。


 本当の俺は、狡くて、意地悪で、他人に興味がない――そして誰よりも臆病な人間なのだ。

 リンもなんら現世の人間と変わらない存在だった。そう思い知らされて、俺の心はさらに冷たく凍り付いていった。

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