第20話
◇
「ほらカンナ、行くよ!」
「え……本当に行くの?」
放課後すぐに友里は栞那の手を引いて教室を飛び出した。
膝上よりかなり短いスカート丈の友里と、校則をきっちり守った膝が隠れる丈の栞那。足を動かすたびに二人のスカートの裾が揺れる。
「あれ、ユリ帰るの? またねー」
「うん、また明日!」
話しかけてくる掃除中の友人達に友里は何度も手を振った。栞那は鞄を落とさないように片腕でしっかりと抱きしめながら、転ばないように走る。
教師に廊下を走るなと怒られたが、友里が飄々とかわし、手を繋いだまま階段を駆け下りて、あっという間に玄関が見えてきた。
栞那一人ならば絶対に走らない廊下。友里と一緒ならなんだってできるような気がして背徳感が高揚感へとかわる。栞那は小さく笑みを浮かべながら友里の手を強く握りかえした。
そうして二人はどの生徒よりも先に学校を飛び出した。いつもの帰り道とは大分遠回りになるけれど、二人は他愛のない会話をしながらあっという間に香屋“夢見堂”へとたどり着いた。
「じゃーん、ここが夢見堂です! 古民家カフェみたいで素敵でしょう!」
「古民家というか……なんというか」
友里はまるで自分の我が家を紹介するように両手を大きく広げて誇らしげに目の前に建つ建物を見やった。
その建物は今流行の古民家カフェというよりは、もはやその建物だけ現代から切り離されたような、時代に取り残されたような荘厳な店舗だった。
固く閉ざされた扉。古そうなくすんだ藍色の暖簾。自分たちのような学生が入っていいような場所には思えない。栞那はごくりと息をのみこんだ。
「ねえ友里やっぱり帰ろ――」
「こんにちはぁ!」
臆病な栞那はまた後日にしよう、帰ろうと友里の袖を引っ張った。
対して友里は栞那の言葉なんて聞こえていなかった。
一切物怖じすることなくまるで当たり前のように固く閉ざされた扉に手をかけ横に引いたと思うと、突然思い切り蹴りはじめた。
「ちょっと友里、なにしてるの!?」
「……っ、ここの扉固いから、こうしないと開かないのぉ!」
無遠慮に容赦なく扉を蹴り続ける友里を慌てて止めた。
がんがんと木製の扉を蹴る音が辺りに響く。扉全体がみしみしと揺れ、ただでさえ古い建物がこの衝撃で崩れてしまいそうな気がしてならない。
店の前を歩く通行人も、皆青い目でこちらを見ていた。それも構わず友里は力を込めて扉を引きながら扉を蹴り続ける。
周りの視線に居た堪れなくなった栞那は、今度は強く友里を制した。
「やめようよ。扉壊れちゃうよ」
「いいんだよ。ほら、蹴ってくださいって張り紙してるでしょう」
一瞬動きを止めた友里は扉の張り紙を指さした。そこには確かに彼女がいうとおり“扉が開きにくくなってます、扉を蹴って開けてください”と丸っこく少し歪んだ字で張り紙がしてあった。
栞那が扉の下に視線を向けると、確かに明らかに何度も蹴られ続けたのか抉られたようにすり減っていた。
「そ、そうみたいだけど……でも……」
「いつもなら結さんが助けに来てくれるんだけどなぁ……っと」
友里の肩から僅かに栞那の手が離れた。友里はそれを合意だと受け取ったのか、引き続き扉を蹴り始めた。
扉と格闘すること数分。ようやく閉ざされていた扉がほんの僅かに動いた。友里はその僅かな隙間に両手を入れて全体重をかけて横に引っ張った。
「あけぇ……このぉ……っ」
親の仇のような憎い声を上げ、友里は歯を食いしばる。そしてスカートだというのに両足を広げて地面に踏ん張りながら、もう一度扉を引っ張った。
そしてようやくぎぎぎ、と今にも壊れそうな鈍い嫌な音を立てて扉が開いた。
「いらっしゃいませぇ」
開かれた扉の目の前には和服姿の怪しい狐目で長髪の男――夢見堂店主、獏が作ったような笑みを浮かべて立っていた。
これだけのけたたましい音を立てて扉を蹴っていたのだ、当然中には音も振動も響いていたに違いない。
明らかに二人がこの店に用があるのは気付いているのだろう。それだというのにこの男は誰よりも開け慣れているであろう扉を開ける手助けすることはなかった。
それどころかこれ見よがしに扉の前に立って二人を待っていたのだろう。なんという意地が悪く、捻くれた男であろうか。
「あ……えっ。ば、ばっ、獏さん! え、ええっと、お久しぶりです!」
「――……嗚呼。お久しぶりですねぇ」
まさか目の前に店主がいると思ってもみなかった友里は驚いて目を丸く見開いた。
そして自分がはしたない格好をしていることを思い出すと慌てて体勢を元に戻して、乱れた髪や服を正しながら恥ずかしそうに上目使いで獏を見た。
確かに友里が虜になりそうな美形だと栞那は思った。ちらりと友里を見るとその瞳は恋する乙女のように輝いていて獏しか映していなかった。
獏は彼女をじっと見つめ僅かに鼻を鳴らした後、友里の話に合わせるように作ったような笑みを張り付けていた。
「……その賑やかな声は、友里ちゃんかな」
「あったりー! 結さんこんにちは!」
カウンターに座っていた結に友里は大きく手を振った。
盲目である彼女に友里が手を振っていることは見えてはいないのだろうが、結は微笑みながら小さく友里に向かって手を振り返した。結が声で友里だと認識できる程度に友里はこの店に通っているようだ。
しかし恐らく獏は友里のことを一切覚えていないし今後も覚える気もないのようだ。それどころか、もはや彼女に興味すらないのだろう。
恋は盲目、なんていうがまさに今の友里はその言葉通りだった。例えはりぼての作られた笑顔だとしても、それが自分に向けられたものだと友里は少女のように喜んでいた。きっと友里にこの店主の意地悪い性格なんて見えていないのだろう。
栞那は溜息をつきながら、冷ややかな視線を狐のような店主に向けた。
「今日はどんな夢香をお探しで……ええと、友里さん」
獏は結が呼んだ名前を絞り出すように思い出して友里に微笑みかけた。しかしよく見ると口元は微笑むように綺麗な弧を描いてはいるが、目は一切笑っていない。
それどころか早く帰れとでもいいたげなつまらなそうな瞳だった。
客にここまであからさまに失礼な態度をとる店主も中々いないだろう。だが相変わらず獏に夢中の友里は彼の欠点なんて見えないし、見る気もないようだ。
「ど、どうしよう。“友里さん”だなんて名前で呼ばれちゃったよ……カンナ、どうしよう」
「よかったね」
嬉々とした表情で栞那の耳元でこそっと囁きながら喜びを表していた。それを栞那は冷めた声でいなした。
テレビの中にいる好きなアイドルを見るような眼差しで友里は獏を見ていた。その瞳に憧れの色はあるが、恋慕の色は感じられない。
恐らく獏は友里にとってアイドルのようなキラキラと輝いた憧れの存在なのだろう。
「えっと、今日はお香を買いにきたんじゃなくて……」
「はい?」
「あの……この子、最近悪夢を見るんです。夢診をしてもらえませんか」
そこでようやく獏は友里の隣に立っていた栞那に視線を移した。
「おや、貴女は……」
栞那と目が合った獏は僅かに目を見開いた。栞那は思わず友里の背後に隠れた。
「あ、ごめんなさい。この子……カンナっていって私の幼馴染なんですけど。凄い人見知りで」
獏は友里の後ろに隠れる栞那を見て怪しく笑みを浮かべた。
友里の肩越しに全てを見透かすような瞳と視線が重なって思わず栞那の肩がぴくりと跳ねた。
「おやおやぁ……随分と嫌われてるみたいですねぇ」
「店長が怪しさ満点だからじゃないですか」
「怪しいだなんてそんな人聞きの悪い。俺はごくごく普通の香司ですよぉ」
肩を揺らしながら笑う獏。言葉とは裏腹にその声音は大して気にしていないかのように軽い。
カウンターに両手で頬杖をついている結から呆れたような声が飛んでくると、獏は結を振り返って肩を竦めた。
栞那は結と話す獏を見てそこで初めてこの男が血が通った人間であるのだと理解した。声も表情も一見なにも変わらないが、友里に向ける態度と結に向ける態度が違うことに気づく。
恋慕や友情など決してそのような優しいものではない。興味の対象のように、モルモットを見る研究者のような瞳だ。しかしその冷たい瞳の奥に本人も気付くこともない僅かに暖かな感情があるような気がする。
今まで教室の隅で、沢山の人間を見てきた栞那にとって人の感情を読み取り考えることは無意識の癖になっていた。
「……それで。夢診をする程の悪夢とは一体どのようなものなのですかぁ」
獏は友里ではなくあくまでも彼女の後ろに隠れる栞那をじっと見つめていた。
結に向ける瞳と同じ、興味の対象を見るような眼差しだった。唯結と栞那に違うところがあるとすれば、その瞳の奥に暖かさの欠片も感じないところであろうか。
果てしなく冷たく馬鹿にしたような侮蔑の眼差しがが栞那を貫いた。そしてこの眼差しに覚えがあった。
「あ、あの……」
「黒百合JKの夢です!」
少しでも獏と話したい友里がここぞとばかりに張り切って口を開いた。
獏と結が呆気に取られたように首を傾げた。
「結さん。黒百合……じぇい……けー、とは一体」
「物知りな店長でも知らないことがあるんですね。ジェーケーは、女子高生のことですよ」
「……さっぱり意味がわからない」
いつも知らないことがあると馬鹿だ阿保だと罵られている結の細やかな仕返し。結は得意げな表情を浮かべながら、鼻高々に告げた。
答えを聞いた獏は全く納得ができていないようで、眉を顰めて首を傾げた。しかし次の瞬間にはいつも通りの笑みを浮かべていた。どうやら理解する気も覚える気もないようだ。
「それで、その黒百合女学生の夢というのは」
「黒いユリの花をもった女の子が、夜の学校の暗くてながぁーい廊下を歩いてゆっくりゆっくり近づいてくるんです。それでその黒百合JKに掴まっちゃうと――」
「夜の学び舎で花をもった女学生に追われ、彼女に掴まると二度と目覚めることはない。ということですねぇ」
「さすが獏さん! 頭いい!」
怪談でも話すかのように相手が怯えるように情緒たっぷりに語る友里の言葉を獏は遮った。
獏が理解力があると友里は彼を褒めたたえた。しかし実のところ、獏はこの長くなりそうな友里の説明を切り上げて話を次に進めたいだけだった。
面倒臭そうな気配がひしひしと結は伝わってきた。客にくらい優しくしろと呆れたように溜息をついた。
相変わらず友里の獏に対する好感度は上がっていく一方だ。自身が邪見にされているなんて気づきもしないだろう。知らぬが仏とはまさにこのことである。
対照的な二人の間に立つ友里は冷ややかな瞳で獏を睨んだ。
「黒百合JKは元々学校の七不思議……よくある噂だったんですけど。最近学校中の人が同じ夢見るみたいで……」
「貴女――ええと……」
獏は友里の名前を思い出せないようで、ちらりと助け舟を求めるように結に視線を移し咳ばらいを一つ。
「友里ちゃん」
「嗚呼――友里さんはその黒百合女学生の夢を見たので?」
長めの間と咳払いで獏が友里の名前を覚えていないことに気づき、結は呆れながら彼女の名前を呟いた。
そして獏は頑なに“黒百合JK”とは呼ばず古風な呼称で話を続けた。
「いいえ、私は見てないんです」
「……栞那さんは見たんですねぇ」
「――……はい」
栞那は恐る恐るゆっくりと頷いた。何度も店を訪れている友里の名は忘れている獏が今出会ったばかりの栞那の名を覚えていたことに結は驚いていた。
獏は二人に近づくとその首元辺りに顔を近づけてすんと鼻を鳴らした。そして彼女たちの匂いを確かめると、顔を顰めながら着物の袖口で口元を覆った。
友里もそしてこの時ばかりは栞那も目の前の男の行動に驚いて目を丸くした。
「栞那さん。そして貴女も……とても嫌な匂いがしますねぇ」
「えっ、嘘。私ちゃんとお風呂入ってますよ!」
友里は茹で蛸のように顔を真っ赤にしながら慌てて自分の制服の袖を鼻に近づけて匂いを嗅いだ。
「ああ、違うの。上手く説明できないんだけど……そういうことじゃないの」
慌てふためく友里を結がフォローする。頭がいい癖に重要なところは言葉少ない獏にはほとほと困ったものである。
そう、獏が感じた悪臭は決して体臭などではない。結や友里、栞那には感じ取ることができない。獏にしか感じ取る事のできない夢が放つ独特の匂いだ。
香司は鼻がいい。特にこの獏は、職業病からか犬の様に鋭い嗅覚を持っていた。
「嗚呼――……これは、強い強いむせ返るような百合の香り。百合の花粉は一度ついたら中々取れませんからねぇ……これはぁ厄介厄介」
緊迫感もなく獏は肩を揺らした。そして細い目を鋭く栞那とそこでようやく友里もその瞳に映したのであった。
「一度その夢を診てみましょう。お二人とも、こちらへどうぞ。結さんもお願いしますねぇ」
「…………はい」
にこりと微笑んで、獏は二人を店の奥にある夢見の間へと案内した。
恐る恐る、しかしどこか期待した面持ちで獏の後ろに続く友里達の後を結は心底嫌そうな表情を浮かべながらついていった。
両手で壁を伝いながら歩いていく。所々収納庫の金属の取っ手部分が手に当たる。
例え目が見えなくても、いや目が見えないからこそ伝わってくる狭い廊下の息苦しさ。湿気、香の匂い、そして異空間のような奇妙な気配。
そして奇々怪々な部屋で結が心底嫌う夢――それも悪夢を見なければならないなんて憂鬱だ。前を歩く客人に聞こえないように小さく、しかし深いため息をついた。
獏が襖を開くと四人で入るには少し手狭な四畳半の和室が姿を現した。
中央の正方形の畳に獏が座ると、友里と栞那は緊張した面持ちで彼の前に慣れないであろう正座をする。
結はいつも通りに夢診の影響を受けない衝立の向こうに壁伝いに進んだ。
「嗚呼、結さん。貴女も今日はこちらにお願いします」
「――……」
思いもよらず引き止められた結は訝し気に眉を潜めた。目が閉じられているものの、無言で不服そうに獏を睨みつけた。
この店で過ごしてある程度の時間は経つが、相変わらず獏の発言は唐突で何を考えているか全く理解できず振り回されてばかりだ。
獏は結の怒りに気づいていながらも一切気にかけることはなかった。それどころか結が見えていないと分かりながらも微笑みかけ、よっこらしょと立ち上がるとそっと結の手に触れた。
「大丈夫ですよ。夢を見るだけです。視るわけではありません」
「……なんで分かるんですか」
「さて、どうしてでしょうね。店主の勘とでもいっておきましょうかぁ」
相変わらず緊張感のない間延びした声音には気が抜けてしまう。信用ならない胡散臭い言葉に結は腹立たし気に眉間に皺を寄せた。
「見ようが、視まいが、夢をみることには変わらないですよね」
「俺がいるから大丈夫ですよぉ……さぁほら、早くこちらに」
この妙な自信はどこから沸いて出てくるのだろう。
獏は半ば無理やりに結の手を引いた。先に獏が座り結の両手を下に優しく引いて座るように促した。
最後の抵抗虚しく結は観念したように仕方なく獏の隣に座った。
「今から全員で同じ夢を見ます」
「なんで私も一緒に見るんですか? 私はその夢見たことはありませんよ」
蝋燭の灯りだけが揺らめく異質な空間の中で、友里は躊躇うことなく獏に疑問を投げかけた。
友里の度胸に獏は少し感心したようで、可笑しそうにくすりと笑った。
「貴女達が通うという学び舎の生徒が皆見ているというのであれば、友里さんも夢見が悪い可能性がありますので。それにご友人が一緒の方が栞那さんも安心でしょう」
まるで挑発するかのように獏は栞那に視線を送った。目が合った栞那は膝の上で拳を握り、なにもいい返すことなく冷たい視線を送り返した。
二人の間に漂う異様な気配を結は感じ取っていた。しかし友里は鈍感なようで、私がいるから大丈夫だよ、と栞那を励ましている。
それにしても何故獏は初対面であるはずの栞那にここまで試すような態度を取るのだろうか。尋ねるように結は獏の袖口を引っ張ったが彼が答えることはなかった。
「――……それでは、はじめますね」
全ての疑問も、謎も夢を見れば分かるとでもいうように、獏は話を遮るように香に火をつけた。
栞那の夢を診るのだから、香を焚いたといえども火をつけたのはただの木。煙が立ち上るだけでなんの匂いもしない。
時間が経つこと恐らく数分。真っ白だった煙がいつの間にか漆黒に変わり、部屋中を覆い隠すように充満していた。
すぐ隣にいるはずの人の姿が見られない。怖くなって手を伸ばしてもどこにも触れない。
何故。狭い部屋だから手を伸ばせば必ず誰かに触れる筈なのに、不思議なことに誰にも当たらない。自分以外の気配を感じることもできない。
「――――」
恐怖を感じて名前を呼ぶ。しかし声は出なかった。
黒い靄は広がり、とうとう畳の目も見えなくなった。そして漂ってきたのは鼻が曲がりそうな酷い悪臭。
まるで一面に百合の花が咲いているような程、強い強い花の香り。雨が降った後の花畑のような湿気が酷い不快な香り。
百合が腐っているのではないかと思う程耐えられない臭いに今すぐ立ち上がって逃げ出そうとした。しかし体が動かない。
目の前が暗いのは黒い煙ではなく自分が目を閉じていたことに気が付いた。百合の悪臭に耐えながら、暗闇に意識が吸い込まれるような感覚。
――嗚呼。なんて気味が悪い、夢への入り方なのだろうか。
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