第14話
◇
スズと夢見堂に行く約束をした前日、私は夢を見た。
見慣れた大通り、車のエンジン音、すれ違う沢山の車、聞こえてくるラジオの音楽。
運転席にはお父さん、その隣にはお母さん。後ろに積まれた沢山の荷物。ああ、何気ない買い物帰りの風景だ。
しかしそこに私の姿はない。
まるで二人が乗っている車を空の上から俯瞰的に見ていた。ドラマ映像のようにカメラが変わり車内と周りの光景の視点が時々入れ替わる。
こんな夢初めて見た。匂い袋をちゃんと枕元に置いて寝たはずなのに、今日は獏さんに会えることはなさそうだ。
他愛のない会話をしながら両親は自宅へと帰る道をいつも通りに走っていた。
本当にこの二人は幾つになっても仲睦まじい。私も結婚するならこんな家庭を築きたいものだ。
思わず頬を綻ばしていると、急にふっと視点が変わった。
ここはトラックの車内だろうか。ふと隣を見ると、運転手が眠そうに目を擦っていた。
恐らく宅配業者だろうか。ああ、この頃宅配業者の数が少なくて一人で抱える荷物が多く多忙を極めているのだろう。
手元には眠気覚ましの薬や栄養ドリンクの空き瓶が転がっている。ああ、こんなに疲れて大変そうに。
うつらうつらと運転手は舟を漕ぐ。運転しながら眠るのは非常に危険な気が――ちょっと待って。さっきからこのトラックスピードが上がっていないか。
それにこの道――両親が走っている通りの近くだ。
酷く、嫌な予感がした。
ぱっと視点が変わる。私は空の上に立っていて。トラックと、両親の車の姿が小さく見えた。
この二台の車が光り輝くように目立ち、その他の車は有象無象のようにしか見えない。
二台の車の距離が縮まっていく。トラック側の信号はトラックの目の前で青から黄色、そして赤に変わった。
ということは、信号待ちをしている両親側の信号が青になるということ――。
トラックのスピードは衰えるどころか、寧ろ早くなっていく。
「ちょっと、お兄さん起きて! 信号、赤!」
必死に叫んだが、運転手は起きる気配がない。そもそも私の声も存在すら気づいていない。
ああ、どうしよう。このままじゃ、このままじゃ。
心臓がばくばくと激しく脈を打つ。身体は熱いのに、手足の先が酷く凍えるように冷たい。冷汗が止まらない。
「お父さん。お父さん、止まって! 進んだら駄目!」
父親に縋りついた。しかし、私の手は父親の身体をすり抜けた。
母親の身体も、同様にすり抜けて触れることができない。なんで、夢の中の人と話せないなんてこと今までなかった。
どうしよう、どうしよう。
一人、頭が混乱する。どうにかして止めなければならない。すり抜けながらも父親の上に乗る形で運転席に座り、ブレーキを踏んだがやはり止まらない。
この世界に私は存在していないかのように、私は何もできなかった。
――だれか。だれか、止めて。お願いだから。
心の中で祈りながら、声が枯れる程両親の名を呼んだ。
「なんで、なんで止まらないの。止まってよ、ねえ!」
駄々をこねる子供のように、必死に両親に縋りついた。
だけど二人とも私の声も姿にも気づいていないようで、本当に楽しそうに会話をしている。
私と三人でまた旅行に行こうねとか、最近私に好きな人ができたみたいなのとか、本当に本当に楽しそうにいつも通りの会話が続いていた。
近づいてくる暴走トラックなんかに気づくわけもない。その危機感のない二人に、私はより一層焦りを増した。
ああ、もうすぐもうすぐぶつかってしまう。いや、止めなきゃ。誰か、誰か。その時車内に電話が鳴り響く。
「あ、あの子からよ。どうしたのか――」
「なんだ、おい。あれ――うわあああああああああ」
母親の言葉をかき消すように、クラクションがけたたましく鳴り響いた。
その瞬間に鈍い音を立てながら、トラックと両親の乗った車がぶつかった。
その衝撃で車はぐしゃぐしゃに潰れ、割れた窓から母親の手が見える。私はそのぶつかった車両の前で立ち尽くしていた。
焦げ臭い匂い。流れる血の匂い。漏れ出すガソリンの匂い。
タイヤが回る音。ガラスが飛び散る音。周りの車のクラクション。歩行者の悲鳴。
駆け寄る人々。逃げ惑う人々。警察や救急に電話をかけてくれる人々。両親を救おうとしてくれる人々。
車から降りて立ち尽くすトラックの運転手。そしてすでに息絶えていた両親たちの亡骸。なにも写さない濁った瞳。
全ての感覚が鮮明に伝わってきた。
私は何もできず、そこに立ち尽くしていることしかできない。
繋がった携帯電話からは、必死に両親の名を呼ぶ――自分の声が聞こえていた。
「――……っ」
そこで、目が覚めた。夢でよかった、なんて思えなかった。
夢を見たのか視ているのか観てしまったのかも分からない。
ただ、今まで見ていた光景が頭から離れず心臓が激しく脈打っている。
時計を見るともう昼前ではないか。目覚まし時計をかけなくてもこんな時間まで眠ることなんか滅多にないのに――嫌な予感がする。
「お父さん、お母さん!」
慌てて起き上がり、転がり落ちるように階段を駆け下りた。
両親の名を叫んだが返事がない。不気味なほど、家の中は静まり返っていた。
食卓テーブルの上を見ると母親の字で“買い物に行ってくるね”と書置きがあった。
心臓が一瞬止まった気がした。夏なのに、体中に寒気が走り鳥肌が立つ。
手の力が制御できなくて、震える手は思わずメモをぐしゃりと握りつぶしてしまった。
「うそよ、うそ……うそでしょ」
まさか、まさかあの夢が現実に。
ふと思い出した、あの夢は三人称――客観的に観た、獏さんのいう“正夢”なのだろうか。
いやだ、そんなこと信じられる筈がない。でも、でも、このことを親に話したら、私が夢のことを話したらそれこそ夢が現実になってしまう。
どうしよう。どうしたら。ううん、そんなことない。気のせいだ。あれはただの夢。
爪を噛みながら落ち着きなく家の中を歩き回る。
そうだ、夢の中のことを口に出さなくても、ただ車を止めるようにと。別の道を通って帰ってきてといえばいいんだ。
そうすれば夢の内容を話すことにはならないだろう。きっと大丈夫。大丈夫だ。
震える手で、すぐにスマートフォンを手にして母親に電話をかけた。
「――……お母さん、お母さん。お願い、お願い出てよ……早く……ッ」
コール音を聞きながら、せわしなく歩く。
そして人生で一番長い三コール目を過ぎたところ、がちゃりと電話がつながる音が聞こえた。
「よかった、お母さ……――」
よく、なかった。
その時思い出した。夢の中のことを。
あの時、ぶつかる直前誰かが母親に電話をかけてきていなかっただろうか。
――あの時、車がぶつかった後、電話から聞こえたのは自分の声ではなかっただろうか。
その瞬間、電話の向こうからけたたましい爆音が聞こえてきた。
クラクションが、何かがぶつかる音が、聞こえる。
「お、おかあさん……おとう、さん」
うそ。ウソ。嘘よ。嘘だ。こんなことあるはずがない。
膝から床に崩れ落ちた。電話が、床に転がる。
夢よ、これは夢。そうよ、悪い夢。私はまだ夢の中にいるんだ。
「は、はは……ははっ、夢、ゆめ、よ、夢……ユメ……」
夢なら早く覚めろ、早く目を覚ませと頬が赤くなるほど抓った。
抓っても目は覚めなかった。だから、頬を叩いた。壁に、床に頭をぶつけた。
でも、痛みを感じるだけで、夢は覚めなかった。
匂い袋の匂いを嗅ぐ。けれども、ほのかに焦げ臭い嫌な匂いがするだけで――ああ、ここは夢なんかではなくて、現実だったんだ。
それからのことはよく、覚えていない。今でもよく、思い出せないんだ。
記憶が真っ黒に塗りつぶされたように曖昧で。どうやって生きていたかもわからない。
「おい、大丈夫か……なんかあったら頼れよ。あんまり一人で抱えんじゃねえぞ」
よく覚えていないけれど、スズも松笠もとても私のことを心配してくれていたような気がする。
よく、覚えていないけれど、私はきっとずっと眠っていなくて。
投げやりな説明かもしれないけれど、本当に覚えていないんだ。思い出したくもないんだ。
なにが現実で、なにが夢なのかが分からなくなっていたんだ。
ああ、これが夢なら早く覚めてくれればいいのに。
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