第45話



「霞、そろそろお前も所帯を持て」


 突然父が見合い相手を連れてきたのは母が亡くなってから数年後のことだった。

 店の休業日、急に近場の料亭に連れていかれたと思ったらそこは既に見合いの席が設けられていた。

 紋付き袴を来た威厳のある男、そして上品な柄の振袖に身を包んだ年若い娘が緊張した面持ちでその部屋に控えていた。


「夢見堂霞殿、ですな。この度はうちの娘が世話になる」

「喜べ霞。かの名門武家である戸野倉殿がご令嬢を是非お前にと仰って下さったのだ」

「――……父上、これは一体どういうことですか」


 いつかこうなる時が来るとは思っていたものの、あまりにも突然のことに俺は動揺を隠せなかった。


「紫苑、と申します。宜しくお願いいたします……霞様」


 三つ指をついて深々と頭を下げるその手は緊張と不安で怯えたように震えていた。

 当時は好いた相手と結ばれることの方が少なかった。特に俺にはそんな相手はいなかったが、この店の店主として家の跡取りとして為すべきことは為さねばならなかった。

 そして目の前で頭を下げる彼女は良家のご令嬢。何故こんな家柄の良い彼女が、大した名家ではない我が家に嫁がされようとしているのかが皆目見当もつかないでいたのだ。

 

 突然のことに上手く状況が理解できず、沈黙を続けていると彼女の手の震えがさらに強くなった。

 恐らく彼女も突然見合いだなどといわれ状況を理解せずにいるのだろう。それもこんな得体のしれない男と結ばれるかもしれないという恐怖が彼女を更に不安にさせているに違いない。


「霞、と申します。どうぞお顔を上げて下さいなぁ」


 自身を落ち着かせるようにゆっくりと息を吐いて、座卓を挟んで彼女の前に座った。

 客に向けるように優しい笑顔を張り付けて、緊張を解すように声をかけると紫苑と名乗る彼女は恐る恐るゆっくりと顔を上げた。

 その顔を見て、何故名門武家の頭首が娘をこんな男に嫁がせようとした訳が瞬時に理解した。


 顔を上げた彼女の瞼は開くことなく、まるで縫い付けられているかのように固く閉じられたままだった。


「紫苑さん、といいましたか。貴女、目が不自由なのですか」

「――はい。生まれつき、目が見えません」


 この時代盲人は按摩師や三味線弾きなどの職業はあったものの、女性の盲人となればまた話は別になってくるのであろう。

 名家のご令嬢となれば手厚く匿うことも可能だが、ある程度の年齢が過ぎれば嫁ぎに行かせねばならないのだろう。

 だが料理や裁縫家事などは人よりは劣る。つまり良家の嫁にいかせるには貰い手がない。そこで、この町内でそこそこ名が売れ始めているこの家に娘を押し付けることにしたのだろう。

 父は父とて、かの一族と親族になれるのだから首を縦に振るしか――いや、きっと喜んでその話を受けたのだろう。


「霞殿、確かに我が娘は目は見えぬが体は至って健康。母体としては十分に機能しております故――立派な跡継ぎを残せる筈です」


 彼女の父親――戸野倉殿はまるで化け物のようだった。

 これがかの有名な武家の頭首。腰に差した刀が嫌でも目に留まる。まるで何人も平気で切り殺しているような瞳だ。

 何よりこの男は自らの娘を道具のようにしか思っていない。女を子を為すための道具だとしか思っていない。

 いや、そもそも盲目の彼女は家事も仕事もできない役立たずだが、せめて床では活用してくれ。お前のような下賤な家に、高貴な血筋を分けてやるのだから感謝しろ――とでもいわんばかりの物言いだった。

 父親の隣に座る彼女は困ったように、申し訳なさそうに眉を潜めている。


 俺はにこりと微笑んでその男の戯言を聞き流していた。

 流石にここまで馬鹿にされれば俺も腹が立つし、何よりも目の前にいる彼女が哀れで目も当てられなかった。

 これ以上この下種な男と同じ空気は吸いたくない。室内に漂う淀んだ空気を払うように大きく息を吐くと、すくりと立ち上がった。


「いきなり結婚しろといわれましても彼女も困惑なさるでしょう。俺もこんな緊迫した空気は嫌いなので、外の綺麗で新鮮な空気を吸いに散歩でも行きましょうか――」

「え、あ、あの……っ」


 有無をいわさず彼女の手を取ると、父の静止の声に効く耳持たず部屋を後にした。

 苛立ちをぶつけるようにぴしゃりと襖を閉める。その向こうからは“無礼な息子ですみません”と戸野倉殿に謝る父の声が聞こえた。

 ここまであの厳格で偉大な父は落ちぶれてしまったのか。権力者にへこへこと頭を下げる。かつて俺が尊敬してやまなかった父の面影は微塵もなかった。

 俺の店は、この夢見堂という名はそんなに陳腐なものだったのか。名家という血筋を入れねば存続できない程、危うい店だというのか。

 俺の今までの行いを否定されたような気がした。腸が煮えくり返る程の言葉にできない程の怒りが込み上げて来て廊下を歩く足が速くなる。

 血がにじむ程拳を握りしめ、周りの雑音など一切耳に入ってこない程頭に血が上り、つかつかと大股で歩き続けた。


「あ、あのっ……霞様っ」


 か細い声が聞こえて、はっと我に返った。

 思わず手の力を抜くと、どさりと何かが地面に落ちる音と小さな悲鳴が聞こえた。

 周りを見るとどうやら中庭に出てきていたようだ。場所を確認したところで、ようやくそこで女性の手を引いていたことを思い出した。

 足元を見ると彼女は尻もちをついていて、何が起こったか分からず混乱したようにおどおどとした様子で立ち上がろうと両手を懸命に彷徨わせていた。

 頭に血が上っていたとはいえ、盲人。それも女性の手を無理やり引いて連れまわしてしまった。

 自分のしたことの罪悪感、劣等感、羞恥心が込み上げてきてさあっと血の気が引いた。慌てて腰を下ろし、彼女を立ち上がらせようと手を差し伸べた。

 

「す、すみません。何も気を使わずこんなことを……」

「申し訳ありませんでした!」


 声が重なった。一瞬何が起きたか分からなかった。

 彼女は俺に向かって土下座をしていた。床に頭をぶつけそうな程、頭を下げ酷く申し訳なさそうに謝っていた。

 何故彼女が俺に謝っているのかがなにも理解できなかった。


「父が不快なことを申して、霞様をご不快な思いをさせてしまいました。ですがっ、私は……っ。私は、霞様のご迷惑にならないように致します。ですからっ……」


 どうか捨てないでください。とでも言いたかったのだろう。彼女は必死に、悲痛に叫んでいた。

 家に捨てられたことは本人が一番分かっていただろう。不要とされることを極度に恐れ、最後の希望である俺に縋る様にとても心配そうな表情をしていた。


「顔を上げて下さい。所詮は親同士が決めたこと……貴女がそこまで必死に頭を下げてまで、俺のところに嫁に来る必要はないのですよ」


 頭を下げ続ける彼女の顔を上げて、震える手を取ってゆっくりと立ち上がらせた。

 彼女は足元がおぼつかず、凭れるように俺の胸板に手をついた。


「……いいえ。私は自分の意思で霞様に嫁ぎたいのです。貴方様の作った香に私は救われたのです」

「俺の香に、ですか?」


 俺が首を傾げると、彼女はゆっくりと頷いた。


「私は生まれつき暗闇しか見えませんでした。ですが、夢香で夢を見た時……初めて闇以外の景色を見ました。

 空の色、海の色、花の色――私に世界を与えてくれたのは霞様なのです。だから、私は縁談の話が来たときとても、とても嬉しく思いました。

 私を救ってくださった霞様のお役に立てると。ご恩を返せると。愛してくれとは申しません。ですが、せめてお傍にいさせてください……」

 

 彼女がぽつりぽつりと吐露した言葉は渇いた土に水が染み込む様にじんわりと染み込んできた。

 俺が俺自身の為にしか作ってこなかった夢香が、母のように人を救っていたとは思わなかった。


 俺は何に腹を立てていたのだ。そもそも俺自身客を道具としかみていなかったというのに、娘を道具として扱う父親に腹を立てる権利等ないではないか。

 ならば何故、そもそも他人に興味関心がなかった自分が、あの言葉に腹を立ててこうして彼女の手を引いて外に出てきたのだろうか。

 確かにあの場にいたくなかったのは大きな理由だ。しかし、あれ以上あの男の辛辣な言葉を彼女に聞かせたくなかったからだ。

 

 彼女の言葉がこうも胸に突き刺さるのは何故だ。自分が彼女に興味を示しているからではないのだろうか。

 同情か? いや、違う。しかしこれは愛でも恋でもない。しかし今、俺はこの目の前に紫苑という女性に興味を抱いていることは間違いなかった。


 そして、彼女との婚儀を悪いと思っていない自分が此処にいた。


「紫苑さん、でしたか。一つ聞いても宜しいでしょうか」

「――はい」

「差別や興味ではありません。これは単純な質問なのですが。盲人の方は、目が見えない代わりに他の感覚が鋭くなると聞きましたが本当でしょうか」


 突然の質問に彼女は驚いたものの、暫く悩んだ後ゆっくりと頷いた。


「はい。目が見えない代わりに、耳がよく聞こえます。人の気配を良く感じます。匂いも人よりは過敏に感じることができます」

「……香は、お好きですか」

「はい。今まで色んな香をつかってきました。その中でも夢見堂――いいえ、霞様が調香なされたお香がとても好きなのです」


 紫苑さんはとても嬉しそうに笑った。

 その時初めて心の底から夢香をつかってくれてよかったと思える人が現れた。

 母のように純粋に、俺が作った香が素晴らしいと褒めてくれる人が現れた。


「嗅覚は、香を作る上で重要な感覚です。貴女なら立派な香を作れるかもしれませんねぇ……宜しくお願いします、紫苑さん」

「――、はい!」


 紫苑さんはその顔を嬉しそうに綻ばせて、本当に綺麗に微笑んだ。

 あの父親の血が繋がっているとは思えない程、とても純粋で綺麗な女性だった。

 そしてふと、紫苑さんの手が俺の髪に触れた。 


「霞様の髪はとても羨ましいくらい綺麗ですよね」

「……貴女の髪も柔らかい」


 彼女の綿毛のような柔らかな髪が、甘い香りが好きだった。

 彼女も俺を愛してくれていたと思うし、俺も彼女を愛してしまった。

 彼女は冷え切っていた俺の心を溶かしてくれた――結婚が決まるのはそう遠くなかった。

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