第46話


「霞、久しぶりね。元気にしてた」

「嗚呼……お久しぶりですねぇ、リン」


 あれから紫苑と挙式を上げ、共に生活を初めて暫く経ったある日のこと、ふと夢の中にリンが現れた。

 そういえば最近仕事が忙しくてろくに夢も見ずに眠っていた。だからリンと会う機会もおのずと減っていたのだろう。


「あれ、大分明るくなったわね。なぁに恋でもしちゃった?」

「……さあ、どうでしょうねぇ」

「なによ、その間。まさか図星?」


 久々に会ったリンは嬉しそうに俺に近寄って、茶化すように肘で小突いてきた。

 俺の曖昧な反応にリンは驚いたように目を瞬かせている。


「ねえ、霞。いつになったらこっちの世界に来てくれるの」

「――……は」

「なぁに、忘れちゃったの? 前誘ったら“それもいいかもしれませんねぇ”っていってたじゃない。私期待して全然眠れなかったんだから!」


 リンの申し出に俺は目を丸くさせた。そういえば、以前そんな話をしていたような気がする。

 はて、と首を傾げるとリンはむうっと頬を膨らませた。夜も眠れない、なんて夢魔にそんな概念があるのかもわからないが、とにかく彼女は俺に会うことを今か今かと待ちわびていたのだろう。


「リン、俺は――」

「夢世に来れば、ずうっと夢を見ていられるわ。年老いることもないし、死ぬこともない。霞が好きな夢をずっとずうっと見て居られるわよ」


 リンは俺の言葉を聞きたくないと、何度も言葉を遮り話し続けた。

 しかしいつか彼女には伝えなければならない。それはきっと今だ。


「俺が目覚めなかったらどうなるのですか」

「肉体は滅ぶけれど、霞の意識は、魂は夢世にいるもの。このまま死ぬことなく永遠に夢世にいられるわよ。だってこのままじゃ貴方はいつか死んでしまうじゃない」


 確かに俺は死を恐れていた。

 彼女のいう通り、以前はこちらの世界に来て覚めぬ夢を見続けるのもよいと思った。

 だが、今は違う。彼女への答えを探しながら、自問自答をするように小さく首を横に振った。


「……確かに俺は、死を恐れていました。覚めぬ夢の中で、貴女のように変わらない姿で生きてみたいと思ったこともありました」

「なら、こっちに来て。一緒に、楽しく過ごそう。私は寂しいの――」


 考えながら紡ぎ出される言葉に、リンは期待を膨らませて輝く瞳でこちらを見る。

 夢魔は人を騙す狡い存在だといっていたが、その瞳は何よりも純粋で子供のように光り輝いてあまりにも眩しかった。

 夢魔は人を故意に騙されるのではない。恐らくあまりにも純粋無垢にこちらを誘ってくるから、汚れた俺達人間がその誘いに乗ってしまうのだ。


 寂しい、悲しい、いかないで。まるで迷子の子供のように紡がれるその言葉。

 その言葉は人間の感情を揺さぶるのには十分だ。ある者は同情、ある者は憐れみ、またある者は疑似的な愛情を感じ惑わされてしまう。

 だがここで俺が彼女に、惑わされてはいけない。


「霞、私は――」

「リン聞いてください。俺は貴女の誘いには乗れません」


 ここで言葉を止めたら駄目だと彼女も本能的に察しているようだ。

 そんな彼女を止めるようにその手を掴んだ。こうして真っ直ぐに彼女を見つめるのはいつ以来だろう。


 確かに俺は夢が好きだ。リンのことも大切な友人だと思っている。

 だが、それ以上に。俺は現世に大切な存在ができてしまった。


「なんで――」

「結婚したんです。共に時を過ごし、共に年老いていきたいと思う相手が出来ました。だから、こちらには留まれません」


 その瞬間リンの瞳が大きく揺れた。

 彼女は俺に好意を持ってくれていることは知っていた。だが、現世と夢世、決して超えられない壁がある。

 それ以前に俺は彼女を友人以上の存在としては見ていなかった。


「なんで、なんでよ……私がいるじゃない」

「リン。貴女は夢世の住人です。俺は貴女とは結ばれることは、できません」


 リンは頭を抱えて、銀の髪を掻き乱した。

 まるで一人にしないで、捨てないで、と駄々をこねる子供のように俺に縋りついている。

 そんな彼女がどこか哀れで、滑稽に思えた。


「ねぇ、なんで。なんで私じゃダメなの」

「リン。俺は貴女のことを大切な友人だと思っています――」


 自分でも彼女に残酷な言葉をいっている自覚はあった。

 しかしこうしなければ彼女は諦めないような気がした。逆に俺を恨み二度と俺の前に現れないのであれば、それはそれで仕方がないとも思った。


「霞。ねぇ……傍にいて。貴方が死んだら私は寂しくて――」

「根性の別れではありません。また時折夢に逢いに来ますよぉ……友として」


 諦めきれず、リンは縋るように俺の袖を掴んだ。

 その手を取り。泣き崩れ、涙で濡れた頬をそっと拭った。


「いやだ、いやよ。いや、霞。いかないで」


 彼女の様子がおかしくなったのはその時だった。


「いやよ。嫌。許さないわ。私の方がずっと、ずうっと貴方のことを愛していたのに。帰さない。もう、二度と貴方を夢から出さないわ」

「リン――」

「好きよ。愛しているわ。霞――だからずっと私と一緒にいましょう」


 リンは鬼のように美しい笑みを浮かべ、俺に近づいてきた。慌てて振り払おうとしたその手は人間のものとは思えない力で押さえつけられる。

 そして無理やり俺に抱き着いて、顔を寄せる。竜胆色の瞳から目が離せない。抵抗できぬままリンは荒々しく俺の唇に口づけを落とした。

 ゆっくりと唇を離した彼女の妖美な瞳が頭の中にこびり付いて離れない。そしてその瞬間、何者かに思い切り押し出されたかのように意識がリンの元から離れていく。


 夢魔が本気で人間に牙を向いたのだ。

 人間と夢魔の違いを計り知れなかったのは他でもない俺だったのだ。

 今まで見たことのない程、酒に溺れたかのように景色がぐるぐると物凄い勢いで回る。

 底なし沼に捕らわれたように、ずぶりずぶりと意識が飲み込まれていく。瞼が一人でに閉じていく。


 ここで俺は死を覚悟した。

 こんなところで、俺は誰にも会えず一人で死んでいくのだ、と。

 死というものはあまりにも急で、体が重く、こんなにも寒いものなのだな、と泥に埋まっていく自分の状況を想像して嘲笑を浮かべた。

 


「――――っ」

「霞様、随分魘されておりましたが……大丈夫でしょうか」


 心配そうな紫苑の声が聞こえた。目を閉じると、彼女の顔が視界一杯に広がる。

 嗚呼、俺は家で紫苑さんと共に眠っていたのだ。

 悪い、夢を見ていたのだろうか。死を覚悟した自分だが、今こうして目覚めているし、身体にも何も異常は見られない。

 しかし鼓動は不思議なほど早く脈打っている。外傷がなくとも心にぽっかりと大きな穴が開いてしまったような。何かが満たされない、不思議な感覚があった。

 自分の身体だからこそ、分かる。眠る前と目覚めた後で、明らかに俺の何かが変わっている。


「霞様、大丈夫ですか。お水をお持ちしましょうか」

「……いいえ。大丈夫です。悪い夢を見ていたのでしょう……起こしてしまってすみませんでした」


 不安を悟られないように笑みを浮かべた。

 彼女に微笑んでもなんの意味もないが、誤魔化さずにはいられなかった。

 

 だが、すぐに自身の変化を思いしらされた。

 生まれてからというもの、ずっと楽しみにしていた夢が一切見られなくなったのだ。

 何度眠っても、夢が見られない。肉体的な疲労は回復するものの、当たり前の様に見れていた夢が見られなくなったのだ。

 それは俺にとっての生きがいの一つをなくすことで、死よりも恐ろしいことだった。

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