第42話
◇第六話/夢霞む
あまりにも昔のことで正確な時期なんて曖昧で思い出せない。
だが俺が生まれた時代の町並みは現在のもとのはあまりにもかけ離れていた。
見上げると首が痛くなるほどの高い建物もなければ、道路を走る車の代わりに馬や人力車が走る時代。今よりも空は大きく、月も煌々と輝き美しい星空が見えた。
今では外を歩くだけで物珍しくみられる着物を皆が当たり前のように着ていた――俗に江戸と呼ばれる時代だっただろう。
その江戸の町でそこそこ有名な香屋“夢見堂”の息子として俺夢見堂霞は生を受けた。
幼い頃からありとあらゆる沢山の香とそれらが放つ様々な香りに囲まれて育ってきた。
そのせいか俺は人一倍嗅覚が鋭く、親や常連たちに天才だと持て囃され後継者として育てられた。
俺自身香は好きだったし、家業を継ぐこと自体も嫌ではなかった。
だが、香よりも俺が興味を惹かれるものがあった。それは――夢。
眠っているはずなのにまるで起きているかのような不思議な感覚。書物でも読んだことのないような、俺だけが知っている自分だけの物語。
当時は“夢見”という夢を診断する職業があった程だ。夢はとても身近にあって、しかし誰もが夢を見る理由なんて知る由もない。
当時の人間たちにとって夢は奇々怪々で不思議な現象だっただろう。それでもどうせ見るなら良い夢を。
結ばれない相手とせめても夢でも逢瀬をと、多くの人間が夢に想いを馳せていたに違いない。
当時の俺はまだ夢世に入ることができて、夢香の力を借りずとも夢を見ることができた。
現代と違い、昔は灯りも少ないから夜はとても長かった。その分睡眠時間も長く俺は毎日のように夢を見た。
「母上! 今日はとても面白い夢を見たんです」
「おや、霞。また母に会いに来て……お父上に怒られてしまいますよぉ」
母は生まれつき身体が悪く、俺を産んでからはその病状は更に悪化して床に臥せていることが殆どだった。
父はそんな母を一人、店の奥に隠した。店の奥、香木が収納されている細長い廊下を歩いた先にある、四畳半の小さな小さな和室。
その小さな部屋の中心に置かれた布団。暇つぶし程度に置かれている書物。そして部屋の大きさにしては大きく取られた外の景色を見るための丸窓。
店からは大声を出さねば聞こえない、生活音を全て遮断した静寂の空間。時折会いに来るロクに役に立たない藪医者。そして丸窓から見える外の景色が母の世界の全てだった。
今思えばこの喧騒溢れる江戸の町で少しでも母が静かに養生できるように父も考慮していたのかもしれない。
しかし俺には母が小さな檻に閉じ込められている羽を折られた哀れな鳥の様にしか見えなかった。
当時の医学では解明できなかった病なのだろう。
伝染病の類ではなかったが、父は俺になにかあっては困ると母と接触することを禁じていた。
それでも俺は父の目を忍んで、香を整理する振りをして何度も母に会いに行った。
俺が部屋を訪れる度に母は困ったように笑って、頭を優しく撫でてくれた。
小鳥が囀るように安らぐ声音。そして心地よいゆっくりと間延びした彼女の話し方がとても好きだった。
「お父上が下さる本は読み飽きてしまいました。変わり映えがしない本よりも、霞の楽しい楽しい夢のお話を母に聞かせてくださいなぁ」
部屋の隅に積まれた書物は埃が被っていた。四六時中この部屋の中に籠っているのだ、変わり映えのしない書物などすぐに飽きてしまうのだろう。
彼女は陽だまりの様に暖かく優しい、しかしどこか寂しそうな死の匂いが漂っていた。子供ながらに母の命が長くないことを知っていた。
だから俺は母を楽しませるために、彼女の枕元に、時には母の腕に抱かれながら自身が見た夢の話をした。
楽しい夢を見れば一緒に笑い、悪夢に魘されれば共に慰め合った。夢の話をすると楽しそうに、嬉しそうに笑う母を見られるのが嬉しかった。
夢を見ることが何よりも楽しかった。どうか母に話せる夢を見られるようにと毎日期待に胸を膨らませながら床に就いていたのを今でも覚えている。
彼女と出会ったのはその頃だった。
「――……坊や」
その夢は今まで味わったことのない程不思議な感覚だった。
当たりは殺風景な真っ暗闇。行き止まりが見えない程の果てしない空間の中にぽつりと俺は一人で佇んでいた。
そして俺の前には満月の月明りのように淡く銀色に輝く長髪の美しい女が驚いたように俺を真っすぐと見つめていた。
彼女と目が合った瞬間、幼いながらに背筋がぞくり震えた。女から一寸たりとも目を離すことができなかった。
「坊や、私のことが見えるの?」
言葉を発せず、彼女の問いかけにぎこちなくこくりと頷くと女は妖美に微笑んだ。
この時代では到底見たこともない不思議な衣服に身を包んだ女だった。
いや、衣服に身を包むというよりは――布より、露出部の方が多い吉原の遊女も腰を抜かす程の当時の女性の格好としては信じがたい姿だった。
そのような格好をしているのにも関わらず一変たりともいやらしさを感じないのが不思議だった。
だが恥ずかしいものは恥ずかしい。その女を直視できず顔を赤らめると、銀髪の女はくすりと笑ってこちらに近づいてきた。
「恥ずかしがるなんて、ウブなのね……坊や」
「“坊や”じゃない。俺は、霞だ」
馬鹿にされたことが悔しくてきっと女を睨みつけると、彼女は驚きながらもなんとも楽しそうにころころと笑った。
夢の中だというのに、まるで近所の住人と世間話でもしているかのようなやけに現実味を帯びた不思議な感覚だった。
「あははっ、ごめんなさいね霞。貴方が可愛くてついついからかっちゃった」
「そういう貴女は何者なんだ」
「私? 私はこの夢世に住む夢魔よ。名前は竜胆。綺麗なお花の名前なんだけど、どうも厳つくて好きじゃないのよね……だからリンって名乗ることにするわ」
竜胆――リンと名乗った女は楽しそうに微笑むと、未だ警戒している俺の頭に手を伸ばしそっと撫でた。
その手つきが母上とよく似ていて驚いていると、彼女は全てを見透かしたような瞳を浮かべつつくすりと鼻を鳴らした。
まるで餓鬼ね、と馬鹿にされているようで悔しくて俺はぎろりと目の前にいるいけ好かない夢魔とかいう女を睨み続けた。
「実をいうとね、この世界で私の姿を見たのは霞が初めてなの」
「貴女がが偶々俺の夢の中に出てきただけだろう」
「逆よ。貴方が私達の夢世に迷い込んできたの」
彼女のいっている意味が分からず怪訝そうに眉を顰め俺は首を傾げた。
彼女も一度で理解されるとは思っていなかったのだろう、呆れたように一息つくと腕を組みながらもう一度口を開いた。
「貴方が住む現世のように、私達はこの夢の世界に住んでいるの。その気になれば私は貴方を二度と現世に帰さないことだってできるのよ」
「――鬼か。綺麗な顔して油断させて、俺を食べる気か」
そういえばよく絵巻で見る鬼は異形だった。人間離れした銀髪と、人を惹きつけるような美貌をもったこの女は実は鬼なのかもしれない。
思わず距離を取ろうとすると、突然女は腹を抱えて笑い転げ始めた。先程から何が可笑しいのか、ひたすら楽しそうに笑い続ける彼女が一向に理解できない。
「ははははっ、私が、鬼。おまけに綺麗な顔なんて……ふふっ、嬉しいわぁ。
まあ夢魔は人間とは違うから、似たようなものだけど。本当に面白いこというのね坊や。いいえ、霞といったわね。私、霞のことがとぉっても気に入ったわ
うん、特別に私の名前を呼ぶことを許してあげる。ほら、気軽にリンって呼んで」
女は目に涙を浮かべながら過呼吸でも起こしてしまいそうな程笑っていた。
人を気に入っただの、高圧的に“名前を呼んでもいい”だのどこまで人を馬鹿にしているのだ。
しかしその瞳には敵意も殺意も感じない。身構えていた俺はゆっくりと体勢を戻し、怪しむような目つきで女を睨んだ。
「ほんと、生意気な目をするのね。心配しなくても食べないから安心して。ねえ霞、夢は好き?」
「好きだ。俺が見た夢の話をすると母上が喜ぶから――」
そう、始まりは自分のためではなく母の為だったのかもしれない。
床に臥せて苦しそうにしている母が少しでも楽に、楽しい気分になれるように色んな夢を見て話しをしたかった。
そうしているうちに、いつの間にか俺自身も夢を見ることが好きなっていた。
そこまで聞くと女は笑みを止めて、意地悪そうな瞳で俺を真っすぐと見据えた。
「なら次から夢について色々と教えてあげる。霞はとってもいい匂いがするからね……お友達になりましょう」
女は俺の頬に手を添えて、頬に口づけを落とすと消えていった。
一方的に表れて、一方的に去っていく。リンは嵐のような女性――それが俺と夢魔のリンとの出会い。
そこから俺達は毎日のように夢世で逢った。
夢世の知識も、夢に関することも、全てあのリンという夢魔から教わったものだ。
彼女は姉のような、そして友のような気の置けない存在へと変わっていった
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