第43話
◇
「気に喰わないわ」
「……何がですか」
初めてリンと出会ってから早十年の時が経とうとしていたある日、彼女がぽつりと苦言を漏らした。
「あのちっちゃくて、生意気だったあの霞がこんなに大きくなるなんて。人間の成長はどうなってるの」
彼女に夢の知識を叩きこまれ、夢世に通い続けた俺はすっかりこの場所を第二の家のように思っていた。
あの殺風景な暗い空間で会うのはロマンの欠片もないと彼女が不貞腐れ、勝手に和室の空間を作り上げ俺達はそこで日々お茶を飲みながら他愛のない話をしていた。
最初はぼんやりとしか感じなかった茶の味も今ではしっかり感じるようになった。自分でもすっかり夢世に体が馴染んでいることが分かった。
以前は娼婦のような露出狂だったリンも、今では部屋の雰囲気に合わせるように着物を着ることが多くなった。
しかしここは彼女が支配する夢の中。慣れない帯に息苦しさを感じれば、拍手一つで服が元通りになる。まあなんとも便利な場所だ。
「あのちいちゃくて、生意気だった霞がこんな大きくなるなんて」
「時が経てば成長します。不老不死の貴女とは違うんですよぉ」
「……変わってないのは生意気さだけね」
「誉め言葉として受け取っておきます」
話を戻すと、現世に生きる俺が夢世に体が馴染む程の時が流れたのだ。
勿論俺はすっかり成長し、最初は見上げていたリンを追い越し今では見下げる程の身の丈になった。
夢魔は生まれた時から姿が変わらないため、俺の成長が納得いかないようで信じられないと不貞腐れたように口元を尖らせた。
「お母様は元気?」
「ええ、お陰様で。リンが見せてくれる良い夢のお陰ですね」
現世での俺は店主とはいかないものの夢見堂の次期店主として店で働くようになっていた。
まだまだ現役の父の元で修業しながら、様々な香を作った。恵まれたことに俺が調合した香は飛ぶように売れた。
店の景気が良くなり、父は大喜び。浮いた金で有名な医者を呼び、薬も買えるようになって母の病状も少しずつよくなっていった。
幼い頃に比べたら圧倒的に元気がなくなった母を元気づけるために、俺はまだ彼女に夢の話をし続けている。
昼間は香屋として、そして夜は週三日程息抜きとしてリンと会い母に話せるような夢を見て現世に戻っていく。そのような生活を繰り返していた。
「ふふっ、私こうして霞と話している時がいっちばん楽しいわ」
「俺もリンと話すのは楽しいですよ」
楽しそうに笑うリンにつられるように俺も笑った。
「ねぇ、霞。私は貴方のことが大好きよ」
「はいはい。ありがとうございます」
リンは感情を、想いを隠すことなく真っ直ぐと伝えてくる人物だった。人間と夢魔の違いというより、これは単に彼女の性格なのだろう。
商売柄人の感情の揺れ動き、相手が何を考えているかを読み取ることは得意だった。
夢魔は人を騙し楽しむことが殆どだと彼女がいっていたが、これは恐らく彼女の本心だろう。
「全くもう、はぐらかさないでよ。霞は私のこと、好き?」
「好きですよ。リンは俺の大切な友人ですからねぇ」
「……私これでも夢魔なんだけど。今まで私が本気で誘惑しても振り向かない男って霞くらいよ……貴方本当に人間?」
「ええ、これでも人間ですよぉ」
つまらなそうにリンは机に突っ伏した。怒ってもいない、ただ俺が自分の思うように返事を返さないのがむず痒くて悔しいのだろう。
現世の人間である俺、夢世の夢魔であるリン。住む世界も、存在も違う。恋慕の感情を抱かれたところで俺は彼女の気持ちには答えられない。
それに、俺は彼女をその様な感情では見ていなかった。こうして二人で時折他愛もない会話をする気の置けない友人関係が何よりも心地よかったのだ。
それでもいつか俺を振り向かせてその気にしてみせると、張り切る彼女を見ているのはとても楽しいことだった。
だから俺はこの穏やかな生活を続けるために、彼女の気持ちに気づかない振りをして敢えて“友人”だと一線を引いて今日もこうして夢世を後にするのだ。
◇
「……霞の香はとてもいい香りがするわ。この香を焚いて寝るととても良い夢をみられる気がするの」
「これからも良い香を作りますので……長生きしてくださいねぇ、母上」
当時の時代は現代より人の寿命というのはとても短いものだった。
母は病状は一時的に良くなったものの、再び悪化した。持病とともに当時の流行り病にかかったようだ。
医者はもう手は尽くしたと、完治は難しいが薬を飲んで進行を遅らせることしかできないと。効き目も分からない馬鹿高い薬を売り付けていった。
彼女は次第にやせ細り、起きている時間よりも眠ることの方が多くなった。
咳き込み血を吐き、幾ら気丈に振る舞えど起きている間は――現世に意識がある間は母にとっては非常に辛く、苦しいものだっただろう。
せめて眠っている間だけでも良い夢を見られるように、俺は母の部屋をいつも香の安らぐ香りで満たしていた。
「眠るととても綺麗な白髪の女の人が、心配そうに母を見るのです。その後とても暖かく心地よい幸せな夢を見ているのです。あれは天女様なのかしら――」
仏を拝むように両手を合わせ、母は譫言のように呟きながら目を閉じた。
母は無意識に夢世でリンに逢っているのだ。あれは天女ではなく夢魔だ。
気まぐれに人間に興味を示す、意地が悪く、素直で純粋で――とても優しい女だ。
俺はその“天女”のことをよく知っていたが、母には伝えなかった。
「人間のことも、死ということも私にはわからないけれど。きっとああいうのを“死に近い人間”と呼ぶのね――お母様、もうそろそろ旅立たれるのかしら」
その日の夜、夢世でリンと逢った。
相変わらず彼女は直球に言葉を伝える。時には癪に障ることもあったが、母の死期が近いことを認めたくなかった俺に覚悟を決めさせるには十分だった。
いや、それでも当初に比べればリンは言葉を選ぶようになった。彼女のなりに、俺を気遣って話していたのだろう。
その証拠に彼女の瞳はどこか悲しそうに揺れている。夢世に馴染んだ俺のように、夢魔である彼女も少しずつ人間らしい感情を得ようとしているのだろうか。
「母上に良い夢を見せて下さっているのは貴女だったのですね」
「……最近霞より彼女の方がこちらに来ることが多いから。私に気づくことはあまりないけれど……貴方の大切な人に私ができることはこれくらいしかないもの」
「――……有難う、リン」
「れ、礼なんていいわよっ。何よ霞如きが急にっ……ちょ、調子が狂うじゃない……! わ、私は夢魔よっ。狡くて、人を騙して、夢で悪戯するのが生きがいなんだからっ」
彼女へ素直な感謝を述べると、動揺したようにあからさまに顔を赤らめて狼狽えていた。
自身を狡いといいながらも、彼女の心は行動はとても優しかった。
「そういえば、母が貴女を“天女のようだ”と褒めたたえておりましたが……母は疲れて幻想でも見ていたのでしょう」
「礼を言われたと思ったら、また急に毒吐いて……! 霞の方がよっぽど夢魔らしいわっ!」
リンのいうとおり、他人に関心を向けない俺はこちらの世界の方が馴染んでいるのかもしれない。
それに比べるとリンの方がよっぽど人間らしい。俺の一挙一動に喜んで、怒って。そんな彼女の反応を見ることがとても楽しくて、俺はいつも彼女をからかっていた。
そんな時、ふと一つの考えが頭をよぎった。
現世で母の為に香を作る俺。夢世で母の為に夢を見せるリン。一人の為に動いている二人の想いを合わせることはできぬか、と。
母がリンに吉夢を見せてもらっているように、他の人々にも吉夢を見せることができないかと。
「――……夢が見られる香が作れないでしょうか」
「は?」
唐突のことにリンはきょとんと眼を丸くした。
一見知的に見える彼女は、実は虚を突かれると点で頭が回らないことを俺は知っていた。
「夢世の夢を香に移し、現世で焚くと夢が見られる香が作れないでしょうか」
俺の言葉の意味を噛み締めるように、リンは顎に手を当てて俯くように考え込んだ。
「――……もしかしたら、できるかもしれないわ」
長い沈黙の後、リンは顔を上げてゆっくりと言葉を紡いだ。
「もう知っているかもしれないけれど……夢には香の様に一つ一つ匂いがあるの。鼻の良い貴方ならできるかもしれないわ」
「本当ですか!」
思い付きでいったもののまさかそんな答えが返ってくるとは思わなかった。
俺は目を輝かし、ずいとリンに詰め寄った。いつもなら驚くはずのリンはその時に限っては至って真剣な瞳で俺を見つめた。
「……物は試しね。今度、寝るときに枕元に無垢の木を置いて眠ってみて。その前に、その木を少し削って香の様に燻ぶらせてみてね」
「香木ではなく唯の木で良いのですか?」
「ええ。香木はすでに香りがあるのでしょう? 夢の香りを木に移すのだから、無垢の木でなければならないと思うの。成功するかはまだわからないけれど……ね」
「わかりました。では、明日の夜そのようにしてみましょう」
にわかには信じられなかったが、近くで働く大工から不要になった木材の破片を分けてもらいリンにいわれた通り枕元に置いて床に就いた。
木片を燃やしても薪を焚いたような独特の匂いしか感じない。こんなことで本当に香が作れるのかと疑った。
しかし異変はすぐに起きた。燻ぶらせた木から立ち上っていた煙が、部屋中を包み始めた。煙に巻かれたように部屋中が真っ白になる。
火事かと思って慌てて起き上がり、煙を払うが一向に払えない。ここまで煙が上がれば家の者が誰か気づくだろうが誰も気づかない。
そして何より不思議なことに、この煙は息苦しくもなく、なんの匂いも感じなかった。濃霧の中にいるかのように、徐々に部屋の中が見えなくなっていく。
「――……なんだ、これは」
何が起きているか理解できなかった。そんな時ふと、匂いが変わったのを感じた。
どんな香を焚いても嗅いだことのない、柔らかく甘い匂い。どこかで嗅いだことのある香り――これは、リンの匂いだ。
そして気付けばその香りに吸い込まれるように俺は意識を失い、布団の上に崩れ落ちた。
◇
「――み……霞、起きて」
「――……リン」
ゆっくりと目を開けると目の前には楽しそうに笑って手を振っているリンがいた。
どうやら俺は横たわっていたようで、体を起こすとそこはいつも会っている和室ではなく初めて出会った時のような暗闇が広がる空間だった。
「私の予想通り上手くいったみたいね」
「……いわれた通り木片を燃やしたら部屋中が煙に包まれました。意識を失う直前、甘いような香りがしました」
「――それが、夢の香りよ」
あの不思議な香りが香りは今でも鼻に残っている。
どんなに素晴らしい調香をしても決して作り得ることができなかった甘く香しい、ずっと嗅いでいたいような香り。
リンのいう通りあれが本当に夢の香りだというのであれば、あれこそが俺が求めていた香りだ。
「夢は煙となって、霞が枕元に置いた木に香りが移ると思う。原理上はそれで夢の香ができる筈よ。
今から飛びっきり幸せな夢を見せてあげるから、是非それをお母様に見せてあげて」
「リン。貴女は何故、俺にそこまでしてくれるんですか」
「最初にいったでしょう。貴方にとって私は大切な友人で。私はそんな貴方のことが大好きだからよ」
俺を見て笑うリンの瞳は、恋する女そのものだった。
彼女は慈しむ様に、俺の頬に手を伸ばしそっと頬に唇を寄せた。そして子供の頃よくされたように頬に触れた手を頭に移動しぽんと頭を撫でられた。
俺は拒むことはせず、彼女の行動を受け止めていた。彼女の俺に向けた恋慕が、その唇から、指先から、声から、痛い程伝わってきた。
そしてリンはぱちんと指を鳴らすと目の前の光景が一変した。
夢世の住人である夢魔はどんな夢であろうと自由自在にに操れる。
母にそうしていたように、俺に吉夢を見せることなど赤子の手をひねる様に簡単なことだろう。
事実、リンは素晴らしい吉夢を見せてくれた。
例えるならば竜宮城にいるかのような、極楽浄土にいるかのような、それこそ天にも昇るようななんとも心地よい夢。
「お母様、喜んでくれるといいわね」
現世に引き戻される寸前、リンの優しく暖かな声が聞こえた。
そして俺の目の前は先程のような白い靄に包まれて、意識が引き上げられるように現世に戻っていった。
「―――――」
目覚めると俺は自分の部屋の布団の上に倒れこむ様に眠っていた。
ぼんやりと頭を抱えながら、夢世で起きたこと、リンにいわれたことを思い出して慌てて飛び起きると枕元に置いた木を見た。
「――嘘、だろ……」
寝る前までは確かになんの変哲もない木材の破片だった。
それが嘘のように、水分が消えカラカラに乾燥した上質な香木へと姿を変えていた。
信じられない。こんなこと有り得ない。もしこれで香が出来ていたのならば、現世と夢世が繋がったということだ。
震える手で恐る恐る香木を削り、香炉にくべて焚いてみる。暫くすると昨晩嗅いだあの匂いが漂い始めた。誰がなんといおうと正真正銘の香が出来上がっていた。
これがこの世で最初に完成した夢香である。
捻くれた優しい友人の夢魔の協力があって、夢香は完成したのだ――。
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