第三話「夢想う」

第18話

夜の学校。毎日のように通う見慣れた暖かいその場所も夜になると急に表情が冷たいものへと変化する。

 窓の外はいつも見えているはずの校庭や教師の車も見えない程に光一つない暗闇が広がっていた。切れかかった青白い蛍光灯が点滅する度に窓に自分の姿が映し出される。

 今すぐにでも逃げ出したくなるほどの不気味な廊下は真っ直ぐと突き当りが見えない程無限に伸びていた。


 何故自分は今こんな場所に立っているのだろう。早く帰らなければ、と玄関を目指すがどれだけ歩いても玄関はおろか階段にも辿り着かない。

 近くの教室に入ろうと扉に手をかけるが鍵がかかっているようでびくりとも動かない。

 毎日通っている飽きる程見慣れた校舎だ。この教室がどこのクラスのものかわかれば自ずと自分の現在地も分かるはずだ。

 壁にかかっているプレートを見つめるのだが、不思議なことにどこの学年なのか、どのクラスなのかが分からない。数字が書いてあるはずなのに、その字が認識できないのだ。


 いい知れぬ不安は次第に恐怖へと姿を変えていく。早くこんなところ逃げ出したいと徐々に徐々に動かす足は速くなった。

 涙目になりながら永遠に続く廊下を走った。しかし幾ら走ろうと、その場で足踏みをしているかのように景色は全く変わることはなかった。 


 こつり。


 長い廊下。自分の背後から、自分以外の足音が聞こえた。

 良かった、誰かいるんだ。

 孤独ではなかったことが嬉しくて足を止めて、音が聞こえた方向を見た。


 こつり、こつり。


 廊下に革靴の音が響く。

 安堵が再び恐怖へと変わり、心臓が激しく脈を打ち始めた。

 トンネルの中にでもいるかのように足音が反響する。廊下の奥の奥、闇の中からただならぬ気配を感じ始めた。

 何かがこちらにやってくる。本能的に危険を察知し逃げようとする。しかし足が竦んで動けなくなってしまった。


 蛍光灯が点滅する度に足音が近づいてきて闇の中から黒いセーラー服を着た髪の長い少女が現れた。

 くすくすと楽しそうに笑いながら長い廊下をゆっくりと歩き、着実にこちらに近づいてきている。

 凍えてしまいそうな程の寒気を感じ、冷汗が流れた。身が竦んで逃げ出せない程の恐怖に足が震える。

 瞬きをする度、電灯が点滅する度、瞬間移動でもするかのように少女は急激に距離を縮めてきた。


 目の前に広がる恐怖から逃げるように固く目を閉じた。夢なら覚めろと何度も念じるが、なにも変わらない。それどころかすぐ目の前に身の竦む程の恐ろしい気配を感じた。

 そのまま目を閉じていた方がよかったかもしれない。しかし怖いもの見たさか、状況を確認するためか、思い切ってゆっくりと目開けた。


「ねぇ、なんでにげるの」


 顔がぶつかりそうになるほど至近距離に少女の顔があって声にならない悲鳴を上げた。

 逃げ出そうにもあまりの恐怖で金縛りにでもあったかのように体が硬直して指の一本も動かすことができない。

 目の前に佇む少女は前髪で隠されているわけでもないのに、顔に不自然な影がかかりその表情を伺うことができない。

 唯一動かせる目を動かしてゆっくりと視線を下に降ろした。少女はとても大切そうに抱えている黒い百合の花を強く胸元に押し付けてきた。

 百合の花粉がまるで血でも広がるかのようにべっとりとこびり付いた。

 

 そんな時ふと体が軽くなった気がした。動ける。今だ、逃げ出すなら今しかない。

 ここぞとばかりに足に全神経を集中させて必死に足を動かした。

 逃げなければ。逃げなきゃ。逃げよう。今ならば、逃げられる。

 彼女から離れようと懸命に足を動かして走り出そうとした時、がしりと強い力で腕を掴まれた。


「ひひひっ、うふふふ……あははははっ。つぅかまぁえたぁ……」


 その場には一人しかいないはずなのに、甲高い笑い声が幾層にも重なって聞こえてくる。

 掴まれた腕が抜けそうになるくらい力強く引かれて、少女の方に向かされて逃がさないとでもいいたげに抱きしめられた。

 

「ずっと、ずぅっと……一緒にいてくれるよね」


 少女は恍惚の表情で不気味に微笑みながら、首に腕を回して背伸びをするとそっと唇に口づけを落とした。

 むせ返るような百合の香りが胸いっぱいに広がった。

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