第58話
「兄さん?どこに行こうとしているんですか?」
「…っ!?」
休日の月城家にて。
早朝、俺がこっそり外出しようとしていると、背後から声がかかった。
いつの間にかそこにいた円香がニコニコとした笑顔を浮かべながら立っている。
その手には鈍色に光る包丁が握られている。
エプロンをしているからおそらく料理用のものなのだろう。
…そうだと信じたい。
「外出ですか?行き先は?」
「その、だな…」
字面だけ見ればただの質問のはずなのに、なぜか問い詰められているような気分になるのは気のせいだろうか。
包丁を手にしている円香は、口元こそ笑顔の形だが、その目は全く笑っていないように見えた。
「兄さん?行き先を言うぐらいのことはできますよね?何か言えない事情でも?」
「…ちょ、ちょっとその辺をぶらぶらと散歩でもしようと思ってな…」
「散歩?兄さんが?珍しいですね」
円香が一歩距離を詰めてくる。
俺はごくりと喉を鳴らす。
「何か誤魔化そうとしているんじゃないですか?隠し事は無しですよ、兄さん」
「な、何も隠してなどいないが?」
「本当でしょうか」
円香がまた一歩距離を詰めてくる。
俺は思わず後ずさった。
ガンと背中が玄関にぶつかる。
なんだか全然そんなことないはずなのに、追い詰められて逃げ場を無くしたみたいな感じになっている。
「確かこの間の休日も兄さんはお出かけになられましたよね?あの時はどこへ?一体誰と?そういえばまだ教えてもらっていませんでした」
「…っ」
「まさか今日もその時と同じ人とお出かけですか?それとも別の人と?手が速い兄さんだったら別の人である可能性も十分に考えられますね」
「て、手が速いってなんのことだ…お前は一体何を言っている」
「惚けないでください兄さん」
とうとう円香は包丁を持ったまま俺の至近距離までやってきていた。
玄関のところには段差があるため、俺と円香の頭の位置はちょうど同じ高さぐらいにある。
円香が俺にグッと顔を近づけてきて、耳元で囁く。
「さあ、教えてください兄さん。嘘をつかないで…相手は誰なのですか?」
「あ、相手…?」
「一人で散歩なんて見え透いた嘘、妹の私に通用するとでも?相手がいるんでしょう兄さん。さあ白状してください」
「し、知らないな?」
「本当ですか?」
「…いっ!?」
ちくっとした痛みが首筋に走った。
包丁の先っぽが俺の首筋を突いたのだ。
「ま、円香…?」
「すみません、兄さん。つい当ててしまいました」
「あ、危ないから包丁はしまってもらえると助かるんだが…」
「兄さんの返答次第で考えないこともないです」
「いや、できれば今すぐに」
「兄さん。あんまり往生際が悪いと手元が狂ってしまうかもしれません」
「…っ!?」
ぞくっと背筋に悪寒が走る。
なんだろう。
この世界に来て一番の恐怖を俺は今感じているかもしれない。
魂喰いや解体屋や火炎使いを前にした時よりも、緊張している自分がいる。
「最後にもう一度だけ聞きます。相手は誰ですか?」
「…っ」
どうやら円香に誤魔化しは通用しないらしい。
俺はごくりと唾を飲み、それから恐る恐る本当のことを喋った。
「ひ、姫路渚だ…」
「姫路先輩?」
円香の表情が無になった。
今まで口元は笑顔の形に保たれていたのだが、俺の言葉を聞いた途端に口角が落ちて口元が真一文字になった。
「ま、円香…?」
「何を…しに行くのですか?」
「す、少し用があってな…」
「遊びに行くのですか?妹の私を置いて」
「…い、いや…別にそう言うわけでは…」
「いいじゃないですか、行けば」
円香が途端に悲しそうな表情になる。
「私は一人で家で家事をしておきます。だから兄さんは姫路先輩と思う存分遊んでこればいいです」
「いや、待て円香。勘違いをしているぞ。俺は姫路と遊びに行くわけじゃない。魔術大戦について話し合うためにだな…」
「そんな嘘聞きたくないです」
「嘘じゃない」
俺はしょぼくれる円香に、姫路渚と同盟を結んだことを話した。
こんなに悲しんでいる円香に嘘を突き通すことはできなかった。
俺は姫路渚と同盟を組み、しばらくは協力して魔術大戦を戦うつもりであることを全て円香に話してしまった。
そして今日は同盟関係にある姫路渚と作戦会議をするために外出するのであって、決して遊びに行くわけではないと何度も言い聞かせた。
「本当ですか?」
正直に話したことで円香の悲しげな表情が幾分か和らいだ。
「本当だ。今日は姫路渚と作戦会議をしに行くだけだ。本当にそれだけだ」
「…だとしても、羨ましいです」
円香はまだ少し不満そうだ。
「姫路先輩との同盟が魔術大戦を勝つために必要であることは私も理解します。姫路家は私たちの家同様魔術の名門で、姫路先輩は強い人ですから。だから同盟関係に反対するわけではないです。それでも…やっぱりずるいです」
「…」
「私も兄さんとお出かけしたいです」
ようやく円香が本音のようなものを漏らした。
俺は円香の頭にポンと手を乗せて言った。
「わがままな妹だな。だが確かにたまには外で遊ぶのもいいだろう。次の週末でいいのなら、付き合おうじゃないか」
「…!」
途端に円香の表情がパァっと華やいだ。
両腕を胸の前に持ってきてワクワクした表情で俺を見てくる。
「ほ、本当ですか兄さん!?」
「あ、ああ。本当だ」
円香の手の動きに合わせて包丁も動く。
ちょっと恐怖を感じながらも俺は無理やり笑みを作る。
「約束ですよ!?絶対ですからね!」
「いいだろう。約束だ」
「嬉しいです、兄さん」
子供のようにはしゃぐ円香。
俺はとりあえず円香が機嫌を直してくれたようで内心ほっと安堵する。
「忘れないでくださいね、兄さん。来週末、兄さんと二人きりでお出かけです」
「ああ。覚えておくとも」
「それじゃあ、兄さん。気をつけていってきてください」
円香がスキップをしながら家の中へ戻っていく。
「はぁ」
一気に緊張感から解放された俺はため息を吐く。
なんだか家を出る前から途方もない疲労感に苛まれながら、俺は月城家を後にしたのだった。
姫路渚と約束した時間の五分前に、俺は駅前の広場へとやってきていた。
姫路渚は探すまでもなくすぐに見つかった。
姫路渚の周りに、かなり大人数の人だかりができていたからだ。
「見てあの子。すっごい可愛い」
「芸能人?めっちゃ美人」
「肌白。足長っ」
「今日ここでドラマの撮影でもあるの?」
「彼氏待ちかな?」
「デートの待ち合わせとかじゃね?」
「くぅ、羨ましいなぁ。一体どんな徳を積んだらあんな美人と付き合える男になるんだ?」
私服姿の姫路渚は、近くにある銅像を背にして立っていた。
その周りをたくさんの人が囲み、写真などを撮っている。
「よお、姫路。待たせたか?」
俺は姫路渚を取り囲む人たちをかき分け、姫路の元へ辿り着くと、声をかけた。
姫路渚がゆっくりと顔を上げる。
「月城くん。来たのね。待っていたわ」
「悪いな。遅れたつもりはなかったんだが、待たせたか?」
「いいえ。私が早く着きすぎただけよ」
「そ、そうか」
「それじゃあ、行きましょうか」
「お、おう」
姫路が歩き出す。
俺は慌てて隣に並ぶ。
姫路渚を取り囲んでいた連中が俺と姫路を見比べて首を傾げている。
「彼氏の方、なんかパッとしないな…」
「服装地味じゃね?」
「背は高いけど…あの子に釣り合う男には見えないな」
うるさい余計なお世話だ。
俺は心の中で周囲の男どもの呟きに言い返しながらチラリと隣の姫路渚を見る。
姫路渚の私服は、学校での姫路渚から受けるイメージとはかなりギャップのあるものだった。
下にはデニムのパンツを履いていて、上は涼しげなTシャツ。
引き締まった白いお腹が外気に惜しげもなくさらされている。
髪はアップスタイルとなっており、全体的に大人っぽい印象を受ける。
清楚で可愛らしかった花村萌の私服とはまさに真逆の格好だった。
「どうかしら、今日の私の服装」
見ているのに気づかれたのか、姫路渚が俺にそう聞いてくる。
「いつもはこんな感じではないのだけれど…柊に見繕ってもらったの。変じゃないかしら?」
「…似合っていると思うぞ」
偽らざる本音だった。
確かにギャップのある格好に驚きはしたが、髪の短くなった姫路の魅力を存分に引き出すコーディネートとなっている。
事実、先ほどからすれ違う人たちのほとんどが姫路を振り返っていた。
おそらく彼らには、姫路が芸能人か、女優か、はたまた雑誌モデルにでも見えていることだろう。
「そう。よかったわ」
表情を変えずに姫路がいった。
「あなたも…まあ悪くないと思うわよ」
「…どうも」
ただの作戦会議だと聞いてきたので俺の方はおしゃれをしていると言ったことはないのだが、褒められたので一応お礼を言っておく。
「それで、俺たちはどこに向かっているんだ?」
俺は今日ここに俺を呼び出した側である姫路渚に聞いた。
姫路渚は前方を指さしていった。
「あれよ」
「おい待て。あそこへ行くのか」
姫路が指差したのは、ついこの間花村と言ったばかりの駅近くの巨大ショッピングモールだった。
脳裏に花村と遊び歩いた時のことや、人形使いとの戦い、そしてキスの映像が甦り…俺は慌てて頭を振った。
「どうしてわざわざあそこに?俺たちは今日作戦会議をするのではないのか?」
「だからこそよ。作戦会議中に襲われないためにもなるべく人の多いところの方
がいいでしょう?」
「いや、襲われないことを危惧しているのなら別にこのような場所に出かけなくとも俺やお前の屋敷の敷地内でやれば…」
「もちろんそれは私も考えたわ。でもあそこを作戦会議の場所に選んだのには他にも理由があるの」
「そうなのか?」
「ええ。とにかくついてきて」
「わ、わかった」
姫路には何か考えがあるらしかった。
わざわざ作戦会議をショッピングモール内で開く理由なんて見当もつかないが、俺はとりあえず姫路についていく。
やがて徒歩10分程度の道のりを経てショッピングモールの入り口へとやってきていた。
例の如く休日のモール内は、たくさんのお客で賑わっていた。
右へ左へと行き来するお客さんたちが、チラチラと入り口に立っている俺たち…主に姫路の方へ視線を送っている。
ここで立ち止まっていれば、また駅前の時みたいにあっという間に人だかりができてしまうだろう。
「それで?一体どこで作戦会議をするんだ?」
「待ちなさい。いくらなんでも気が早いわ。焦っても何もいいことはないわよ」
「お、おう…?」
「どこかで一旦涼みましょうよ。そうね…映画館なんてどうかしら」
「え、映画…?」
「ええ」
「お、俺とお前で、見るのか?」
「そうよ」
「さ、作戦会議は…?」
「その後でも遅くはないでしょうね」
「いや、別に映画じゃなくとも涼むだけなら他にも」
「…」
「いや…べ、別に映画を観ても構わないのだが…」
反論を口にしようとしたが、姫路にぎろりと睨まれる。
有無を言わさぬその表情に俺は無言で姫路に付き従うしかない。
俺たちは映画館のある階へ移動して、館内へと入っていく。
「これにしましょう」
姫路渚は現在上映中のタイトルを一通り眺めた後、見る映画を決めたようだった。
「え…」
固まってしまう。
姫路渚が指差していたのは、見覚えのあるタイトルだった。
「姫路、それは…」
「何よ。嫌なの?」
「嫌というか…」
もう見た、といいかけて俺は口を噤む。
どう考えても男が一人で見るようなものじゃない映画を観たといえば、相手がいたと白状しているようなものだ。
そうなると否応もなく花村のことを話さざるを得なくなってしまうだろう。
俺はつい最近の昼食の席での花村と姫路の様子を思い出す。
二人はなぜかあまり仲が良くないらしい。
花村の名前を出すと姫路はあまりいい顔をしないかもしれない。
「な、なんでもない…別に映画などどれでもいい」
「そう。じゃあ、これにしましょうか」
俺たちはチケットを買って映画館内へ入った。
〜あとがき〜
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