第31話
「えっ……?」
「ほら、早く。理奈のお願いを聞いてくれるんでしょ? ナイフで胸を刺すくらいなら一瞬だし、すぐできるはずだよね?」
「……」
「どうしてやってくれないの? やっぱり、理奈のお願いを叶えてくれるなんて嘘だったんだ。嘘ばっかついて、理奈を馬鹿にしてたんだね」
「……」
抑揚のない声を、僕は否定できなかった。
全てが偽りだったから。
存在しない妹と架空の兄妹を演じ、仲睦まじいように振舞ってきた。
誰に対して茶番を披露していたのか。
おそらくは、僕と姉を除く全ての人が観客だった。
僕達以外は僕と妹を本物の兄妹、仲の良い兄妹だと認識していたから、面倒を避けるためには周りのイメージ通りの兄妹でいる必要があった。
面倒を避けるという私欲のために、僕は妹に嘘を吐き続けてきた。
「……ごめ――」
「理奈ッ!」
正直に頭を下げようとした刹那、僕の声に背後からの怒声がかぶさる。
聞いた覚えのない憤りに満ちた声は、妹を睨む姉の口から発せられたものだった。
「あなた、自分が何を言っているのかわかっているのッ? そんなことすれば、優くんはただじゃ済まないわ。最悪死んじゃうかもしれないのよッ!」
「わかってるよっ! でもそれが理奈の感じた痛みなんだよっ! 身体の中のものが全部口から出ちゃいそうなほど緊張して、諦めて楽になりたいのも堪えて頑張って告白したのに、それをあっさり断られた理奈の気持ちがわかるの? 胸を包丁で刺されたみたいに痛かったんだよっ! もう死んじゃいたいくらい悲しかったんだよっ! 理奈に許して欲しかったら、おにいちゃんにも理奈と同じ痛みを味わってもらわなきゃ絶対に嫌っ! そうじゃなきゃ、おにいちゃんは理奈と同じところには一生立てないもんっ!」
「なんでも世の中が思い通りに行くと思ったら大間違いよ! 理奈は優くんに好かれる努力をした? 自分が優くんを好きになるんじゃなくて、優くんが自分を好きになってくれるような努力をした?」
「してたじゃんっ! 毎日毎日、できるだけ長い時間おにいちゃんと一緒にいようって心がけてたじゃんっ! おねえちゃんだって知ってるでしょっ!」
「それは努力とは呼ばないわ。努力というのは、苦しいことを重ねる行為を指すのよ。あなたのそれは、欲望を我慢しきれずに溺れているだけ。もしもそれが努力というのなら、優くんと一緒にいたいというのは願望ではなく、苦行であるべきだわ」
「馬鹿にしないでよっ! 理奈はほんとにおにいちゃんが大好きなんだよっ! だいだいだいだい大好きなんだよっ! こんなに好きなんだから、おにいちゃんだって理奈を好きになってくれなきゃおかしいよっ!」
「おかしいのはあなたよッ! あなたがどれだけ優くんが好きでも、優くんがあなたを好きになるとは限らないわッ! 優くんはあなたの欲求を満たすだけの玩具じゃないのよッ!」
「おねえちゃんには関係ないじゃんっ! なんでそれをおねえちゃんが勝手に決めつけるのっ!?」
「関係あるわよッ! あなたが不満を解消するためだけに、優くん傷つけるのは許さないわッ! 優くんはあたしの弟なのよ? 守るのは姉として当然じゃないッ!」
「理奈だっておにいちゃんの妹だよっ! おにいちゃんは妹のために尽くしてあげるものでしょっ!?」
「そして妹の方は求めるばかりで、兄に与えようとはしないのね。そんなのは兄妹とは呼ばないわ。王と奴隷の関係よ。その愚考を捨てない限り、あなたは優くんの妹でもないし、あたしの妹でもないわ」
「うるさいっ!!!!」
涙こそ流していなかったけれど、妹は泣き叫ぶ子供のように痛々しい悲鳴をあげる。
姉が黙り込む。命令に屈したというよりは、これ以上言わずとも論争の勝敗が決したと判断しての沈黙だろう。
潤む瞳を携えて、妹がソファーから立ち上がる。一歩ずつ噛み締める慎重さで、どこか危なげな足取りで僕に近寄ってくる。
妹の両手が僕の両肩を掴んだ。決壊寸前の感情を湛えた意思が、上目遣いで僕を見つめる。
「おにいちゃん……お願い……理奈と、遠くに行こ……?」
「……」
「胸はもう刺さなくていいから……理奈と、二人だけで……一緒に暮らそ……?」
「理奈……」
「ねぇ、早く答えて……じゃないと、理奈……」
悲痛に苦しむ瞳に、歪んだ色の狂気が混じり始める。
こうなってしまったのは、僕が原因だ。妹が苦しんでいるのは、僕にも責任がある。
責任があるのだから、僕は償わなければならない。彼女を正常に戻すために、素直にならなければならない。
嘘は事実を歪める。嘘が歪んだ柱を正すと信じた結果が、この脆く危うい妹の姿だ。
僕はもう、彼女には嘘をつけない。
心臓が脈を打つ速度が上がっていく。
これ以上捻じ曲げてしまうくらいなら、意を決して正しく打ち込もう。
そんなことをすれば、ボロボロに傷ついた柱は折れて、支えていた物を崩れ落としてしまうだろう。
けれど、それでいいんだ。
崩れてしまったら、もう一度建て直せばいい。きっとそれが、正しい生き方だろうから。
小さな彼女の瞳を強く見据えたまま、自らの行動に働く抑止力を押し殺し、嘘偽りのない純粋な僕の思いを、答えを、手を伸ばせば触れられる距離の妹にはっきりと伝えた。
「それはできないよ」
「――――っ!」
大きく目を見開いた理奈は、深い憎悪に犯されたようにも思えた。
瞬間、僕の持っているナイフが奪われ、良からぬことに利用される未来を警戒する。けれども、僕の胸を両手で突き飛ばすだけに終わった妹は、そのまま居間を出て行った。
呆然としている間に、玄関の扉の開く音も聞こえる。
妹が自宅を飛び出して寸秒後、僕は正気に戻り、とりあえずナイフを机の上に置いた。
「……はぁ。少し、頭に血が上ってしまったようだわ。でも、あんなことされたら黙って見ていられるわけがないじゃない」
「うん。なんというか、正直ホッとしたよ。あのまま刺されるかもしれないって思ったからね」
「あたしもそれを警戒して、いつでも飛びかかれる準備ができていたわ。幸い、それは必要なかったようだけれど。彼女、いったいどうしちゃったのかしら?」
「あんな風に取り乱す理奈を見たのは初めてだ。僕にも、彼女が何を考えているのかわからない」
「優くんと一緒にいたいってことしか考えていないのではないかしら? 優くんが好きだけど、優くんは自分を好きになってくれないから、相手の意志を失くすことで相思相愛の関係を築こうとしていたように思えたわ」
「僕を殺したら、好意は永遠に片方からしか向かわなくなるじゃないか。相思相愛っていうのとは違う気がするけど」
「余分な濁りが介在しないのなら、相思相愛と同義でしょう。死人に口はなくて、一切の拒絶すらも許されないのなら、それは相手が自分の思い通りに動く相思相愛の関係と大差はない」
「でたらめな考え方だ」
「優くん、理奈の目を見たでしょう? 彼女、とても正気を保っている様子ではなかったわ」
光沢を失い、見た者に絶望を分け与えて動きを内側から封じるような、狂気の色が混ざった瞳を思い出す。
姉の口にしている通りではあったけれど、しかし――
「だけど、どこか悲しげな感情も伝わってきた。彼女は受け止め切れなかっただけなんだと思う。今まで自分の願いはなんでも叶ってきたから、願いに裏切られることにショックを受けたんだ」
「順風満帆の人生を歩んできた〝ことになっている〟のなら、優くんに断られたことで異常行動に走るのも頷けるわね」
「〝ことになっている〟か……。姉ちゃん、僕はさ、理奈が十三月を救うためだけに用意された道具だと思いたくはないんだよ」
「……詳しく教えてもらえるかしら?」
怪訝に聞き返す姉に、僕は胸の内で渦巻く感情を白状する。
「理奈はさ、最初は互いの認識に齟齬があったから違和感もあったけど、今では齟齬は目立たなくなった。それは、僕達も理奈のことを知ったからだよ。理奈が純真無垢で天真爛漫で感情の豊かな女の子だって、自分の目と心で触れ合って知ったからだ」
なぜこんな風に考えるようになってしまったのだろう。
たぶん、それはきっと、妹の性格のせいだ。
「あんなに人間らしい少女が、ただの道具だなんてあまりに非情すぎるよ。現代の人間は、地位を守るために感情を隠し、損をしないために嘘をつく。僕達だって同じだ。僕達は理奈との円滑な関係を保つために、彼女が自分の妹だと嘘をついた。知らないのに、知っているように振舞った。彼女は違う。彼女は、僕達のことを知っていたんだから」
「そうね。彼女は、下手な人間より人間らしいと思うわ」
「うん。だから僕は、彼女には一つの道具ではなく、一人の人間であってほしいんだ」
「……けれど、桜庭理奈という名前の少女は――」
「それもわかってるよ。ただ、道具であっては欲しくない。それだけなんだ」
「……そう」
「いい加減な主張をしてるのは自覚してるよ。僕が何を言ったところで、理奈は十三月のためだけに存在しているんだ。だけど、それを理由に行動を変えたくない。彼女は悲しんで家を出て行った。こういう時、兄としてとるべき行動は一つしかないよね?」
「……ええ。その気持ちは、あたしも同じよ」
座卓のシースを手に取った姉は抜き身のナイフをそこに納めると、改めて机に置く。
振り返った姉は、微笑みを湛えて僕を見た。
「姉としてとるべき行動もまた、ただ一つだけよ。かわいい妹が拗ねちゃったのなら、姉として手を差し伸べてあげないとね。きっとそれが、美しい姉妹愛というものでしょう」
「――だね! だけど、もう大丈夫なの、姉ちゃん?」
「大丈夫って? あたし、優くんに心配されるようなことしたかしら?」
「理奈と激しい言い争いをしてたじゃないか。直接会っても平気なの?」
「問題ないわ。あの時は、なんだか思考が制御できなくなって、とにかく優くんを傷つける妹が許せなくて、つい声を荒げてしまったのよ。妹が考えていることがまったく見えていなかったから。いまは、妹が心配という気持ちが強く根付いているわ。さっきのような過ちは繰り返さないと断言できるほどにね」
「姉ちゃんが怒ってるとこ見たのは初めてだったから、こっそり内心で驚いてたよ」
「言われてみると、自分自身が激情に駆られるのは経験したことがなかったわね。まぁ、そんな些細なことはどうでもいいわ。追うと決めたなら、遠くへ行かないうちに追いかけましょう」
「そうだね。電車にでも乗られたら大変だ。僕はもう準備できてるけど、姉ちゃんは?」
「こんな暖房の効いた部屋でコートを着たままでいるのだから、見ての通り準備万端よ」
「それなら、急いで妹を探しにいこうか」
欲が満たされず感情を暴れさせる、人間味に溢れる存在しないはずの妹。
彼女のことを人間らしいと認めながらも、僕は何かを忘れているような気がした。
異常が正常に移り変わっていく中で覆われてしまった、些末な、けれども大切な何かを……。
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